西部邁「日本人とは、そも何ものぞ」その3 もののあはれ

 「もののあはれ」の「もの」とは、自分という一個人の力ではどうしようもないけれど、歴然とある事実。運命、人間関係の有為転変、自然のめぐり、オノレから生じるけれどオノレですらどうすることもできないもの。そんな「もの」を「あはれ」と思う。

俺は平家で、お前は源氏だとか、お前は総理大臣で、俺はどん百姓だとか、そういう一種の宿命、運命があって、もちろんそこから逃れようと努力するけれども、結局は、そういう「もの」としてあるしかなく、しかも有限の50年や70年の人生で死んで行くわけです。もし人の寿命が1000年もあれば、「もの」は無限に変化する、ということでおしまいになるわけですけが、現実の生は死を意識せざるを得ない、有限の時間のなかで、「もの」としてしか始まらざるを得ず、「もの」としてしか終わらざるを得ないから、運命を感じる力が生まれる。

平家物語に、平知盛の最期の有名な台詞があります。「見るべきほどのことは見つ、今はただ自害せん。」清盛の子に生まれてきてしまったら、平家の総大将になるしかない。そういう宿命を背負って、攻め寄せる源氏という現実と戦って敗れていく。その時に「見るべきものは見つ」と言った。

閑話休題:

人の寿命が1000年もあれば、「もの」は無限に変化する・・・そうなんだ、何十年しか生きられないから「もの」を受け入れざるを得ない・・・その点みんな一緒で平等なんだ。

俺も見るべきものは見たように思う。(これ以上生きても今までより幸せな目には会わないだろう)かと言って自害するチャンスも巡ってこない。自害せずとも、残った者にいい死に様を見せるにはどうしたらいいのか?。最も迷惑を掛けずに自害する方法を見つけて実践する、というのはいい死に様かも知れない。

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