本田宗一郎1906年生まれ、井深大1908年生まれ(会社とは何か)

 本田宗一郎と交流があった井深大が語るNHK「我が友 本田宗一郎」を見る。

本田語録:

・若い社員が夢中で夜中まで挑戦している。

・子供に社長を継がせるような会社では若い人が厭になる。

・日本一じゃあだめ。世界一じゃなければ。

井深語録:

・仕事が好きで好きで食べるものも食べないでやる、という人を、学校で何をしてきたのかなんて関係なく採用した。

・アメリカでトランジスタというものが開発されていると聞き、トランジスタというものはよくわからないが、難しいものに違いない、大量に取った技術屋に役職に関係なく一生懸命にやってもらえるんじゃないか、と思って挑戦することにした。

・トランジスタラジオはアメリカのメーカーと開発競争してわずかの差で負けた。それから世界初にこだわった。

・組織でモノができるんじゃなしに「これを作ろう」「面白いな、命を賭けよう」というヤツを集めた方が能率もいいし何より面白い。

※二人の世代は戦争に行くには年取り過ぎだが、戦争が終わった時に新しい会社・製品を作り出すにはまだ十分若いという世代だった。戦争に負け、うるさい年寄もいなくなり自由になって、抑圧されていたものが解放されてはじけた、という感じ。この二人の会社は幸運にも挑戦に成功し世界に認められたということだろう。同じ世代の人達は結果的に成功したかどうかは別にして志向するものは共通していたのではないか?1970年代入社の俺たちはほとんどこの世代の薫陶・影響を直接受けていない。ただ救いだったのはこの世代の薫陶・影響を直接受けた世代が身近な先輩・上司でいたということだ。彼らは自分たちが新しいモノに挑戦させられ、夢中になり、寝食を忘れたという経験をし、俺たちにもそういう経験をさせて育てようとした。(最近は”ホットジョブ”っていうんだって?)

働き方改革も、パワハラも、コンプライアンスも男女差別もなかった。会社は、キャリアや成長なんてこたぁ考えてなかった。(口先では言い出していたが・・・そう言われても、俺にはこれ以外の若手育成法は思いつかなかった。)会社とはただ、面白い経験が出来て夢中になれるモノを与えてくれるべき場所だった。だから、この番組を見て、違和感は全くなく、「どうして日本は本田・井深を忘れてしまったんだろう」と思う。そして、それは俺たちの世代で途切れてしまった、とも思う。

本田は1991年死亡。井深1997年歿。彼らの死とともに日本は没落していく。若者に挑戦させるネタも切れた。若者に新しいモノに挑戦させる場であった会社も存在価値を失った。それどころか、会社は安心して一生をすごせる場でなくなった。

井深さんの「組織でモノができるんじゃなし」云々はその通り。日本人論だ。ロゴスがあるなら有能なリーダーに導かれた組織でマニュアル・セオリーに従ってモノを作ろうとする。日本のモノ作りは組織でやろうとして以来転落した。だって、有能なリーダーもいないし、マニュアリ・セオリー通りでは面白くないもん。「モノ作り道」だ。ゼロ戦が神様みたいな操縦術を持つ(=道を究めた)パイロットのおかげで最初はアメリカに勝っていたが、神様パイロットが戦死していなくなり、一方アメリカは普通のパイロットとゼロ戦対策を盛り込んだ飛行機を沢山作った。

やっぱり、日本は徹底的に負けて口うるさい年寄がいなくならないとダメだろう。

閑話休題:

若い人を尊重し、若い人に社長を譲った本田宗一郎の「人生飛行機論」は面白いたとえ話だ。いわく、飛行機は離陸したら必ず着陸する。うまく離陸出来たらうまく着陸しないと乗ってる人を殺したり周囲に迷惑をかける。

俺たちの世代の新しい挑戦はグローバリゼーションだった。うるさい年寄は中々口をはさめなかったからその時は面白かった。夢中になれた・・・今冷静に考えてみると日本に何を残したんだろう?

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