水木楊「自明ではない」

 日米安保ができて以来、日本の首都はワシントンになった、と言ってもよい。国運を賭け、体中の毛がそそり立つような孤独な緊張感に包まれながら、重大な決断を下すという瞬間を、日本のリーダーたちは迎えることがなくなった。戦後、そのような緊張感の中に立った人物は、サンフランシスコ条約に調印し、日米安保の単独講和に踏み切った吉田茂だけであろう。それ以降のリーダーたちは、日米安保の大枠の中で、ちまちまとした決定を下していたに過ぎない。いや、1941年の、開戦を決断した御前会議ですら、「これは全て自らの判断と責任による」と考えた人間は、どれほどいたのだろう。心のどこかで、「ここまで来てしまったからには仕方がない」と諦めていたのではないか。開戦を軍の暴走とか、欧米の締め付けとかのせいにしていたのではないか。

《俺も会社のちまちまとした決定を行うについて、全く同様の態度だった。バカなことをする、と思っても起こって会議室を出て行くことも、会社を辞めることもなかった。「自分ごと」ではなく、「他人が自分の意志とは関係なく決める」感覚。社長があらかじめ決めたことを会議にかけて追認するだけ…》

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