平川克美「主権譲渡としての憲法九条と日米安保」
(略)
戦後60年間、日本は一度も戦火を交えず、結果として戦闘の犠牲者も出していない。政治は結果と効果で判断すべきというのであれば、私は、この事実をもっと重く見てもいいのではないかと思う。これを国益と言わずして、何を国益と言えばよいのか。「過去はそうかも知れないが、将来はどうなんだ」と問われるであろう。現行の憲法は理想論であり。、もはや現実と乖離しているという議論がある。私は、この前提には全く異論がない。その通りだ。確かに日本国憲法には国柄としての理想的な姿が明記されており、それを世界に向けて宣言したという形になっている。理想を掲げたのである。そこで、問いたいのだが、憲法が現実と乖離しているから現実に合わせて憲法を改正すべきであるという理路の根拠は何か。もし、現実の世界情勢に憲法を合わせるのなら、憲法はもはや法としての威信を失うだろう。憲法はそもそも、政治家の行動に根拠を与えるという目的で制定されているわけではない。政治家が変転する現実の中で、臆断に流されて危険な橋を渡るのを防ぐための足かせとして制定されているものである。当の政治家が、これを現実に会わぬと言って批判するのはそもそも、盗人が刑法が自分の活動に差し障るというに等しい。現実に法を合わせるのではなく、「法」に現実を合わせるというのが、法制定の根拠であり、その限りでは、「法」をないがしろにする社会の中では「法」はいつでも「理想論」なのである。
理念的には確かに憲法と日米安保は相反する理念の表象だと言えるかもしれないが、政治的には憲法九条がなければ日米安保条約は存在していなかったし、日米安保条約がなければ憲法は早々に改定されていたかもしれない。憲法と日米安保条約は面立ちこそ異なっているが、その出自は同じ一つの母体であり、戦勝国アメリカによる極東の戦後統治の一環として施行されたワンセットの政策なのである。もし、憲法と日米安保条約が日本軍国主義を無力化するというひとつの目的を達成するためのワンセットのものであるとするなら、左翼も右翼もこの二つの事案の一方を擁護し一方を否定するという対照的なねじれを当初より抱え込んでいたのである。アメリカサイドから見れば、憲法は日本軍国主義を無害化するために必要なものであり、同時に日米安保条約もまた日本が軍事的に肥大化することを抑制するためには必要なものであったといえる。日本側から見れば理念として相反するかに見える憲法と軍事同盟も、アメリカ側から見れば同じ一つの政策の両面であるに過ぎない。
平和憲法と、日米安保条約という軍事同盟は、アメリカの極東戦略上なんら矛盾を生じないものであったし、同じ一つの目的によって生まれた。しかし、日本においては一方が平和の礎であり、もう一方はアメリカの軍事的戦略に加担するものであるという矛盾として存在し続けて来た。どうしてアメリカ側から見て無矛盾的な憲法と日米安保条約が、日本側から見ると矛盾した存在であったのか。これについて考えることが、日本において今日、憲法と日米安保条約が持つ問題解決の鍵になる。この二つの事案が矛盾した存在に見えるという理由は一つしかない。それは憲法と安保条約の矛盾ではなく、日本の主権そのものが孕んでいる矛盾であるということである。日米安保条約を肯定し、自主憲法制定を主張する者の中にその矛盾は典型的に現れている。あるいは日部宇安保条約を否定し、憲法を擁護する者の中にもその矛盾は現れている。この矛盾のよってきたるところは日本が掲げる理想と日本が陥った現実との間の矛盾ではない。理想と現実が矛盾をきたしているのではなく、戦後日本の主権そのものが宿命的に抱え込んできた矛盾なのだという他はない。例えて言えば、ひとつの商品が二つの価格を持つ一物二価の矛盾である。戦後の日本はそのような一物二価の国家として成長を遂げて来たのである。つまり、日本は建前上は独立した民主主義国家であるが、同時にアメリカの政治戦略の中に深く組み込まれた属国的な国家でもあったということである。日本は、国際社会の中で、あるいは国内世論を説得する場合においても、この二つの矛盾した位相をその都度好都合に解釈して利用して来たのである。そして、まさにその矛盾した位相を引きずり続けることと経済瀧繁栄はトレードオフの関係にあった。結果として経済大国になった今日、そのことに多くの日本人が苛立ちを覚えている。大国である以上、一物一価の国家になりたいと考えることは理解できる。だが、矛盾の解消としての憲法改正も、安保条約破棄も、現実的にはアメリカからの主権的な独立しろいうことを意味している。どちらもアメリカが最も忌避したい選択であり、アメリカの極東戦略上許しがたい事であると多くの人が考えている。
アジア共同体が出来るまでは相当の曲折を覚悟する必要があるだろうが、その最低の条件は、この共同体に参加する国家がそれぞれ主権の一部を譲渡することができるかどうかにかかっている。もし、軍事的主権、政治的主権の一部を共同体に譲渡することを率先してできる国があるとすれば、それはこれまでその両方をアメリカに事実上譲渡してきた日本の経験知が生かされるはずである。アメリカ抜きのアジア共同体を作るなら、日本はアメリカとの軍事的同盟を破棄し、自主憲法を制定し、自国軍を持つという選択をすることになるかも知れない。それはアメリカもアジア諸国も望んではいない。アメリカを含めたアジア共同体という事であるならば、これまでアメリカに実質上譲渡して来た、軍事的な権力と政治的な主権の一部をアメリカの同意のもとに譲渡先をアジア共同体へと移行することが可能になり、これならアメリカも受け入れることができる可能性がある。しかし、中国はすでにアジアに経済圏を構築しつつあり、アメリカを含めたアジア経済圏を受け入れる必要がない。アジア共同体構想のネックは、米中関係そのもののネックである。ここに、両国なしではやっていけない日本が役割を果たす余地がある。安保条約の廃棄ということなら、中国も喜んでこれを受け入れるだろう。しかし、アメリカが受け入れられる形にするために、単純に条約を破棄するのではなく、主権の譲渡先をアメリカ単独からアメリカを含む共同体への移転という代替案を掲げる。アメリカ経済の帰趨いかんでは、EUにかつてのソ連圏の国が参加したように、アメリカ合衆国のうちのベイアリアの州政府単位での参加という可能性も全く荒唐無稽とは言えない。
日本は軍事的な主権の維持にかかるコストを、産業の振興や福祉に向けることが、大きな国益となることを証明できる稀有な国家である。なによりも、この主権譲渡という考え方を積極的に働きかけてゆくことで、日本が戦後やり過ごして来た一物二価としての国家を、新しい主権のあり方を主張する統一した理念を持つ国家主体として表現できる。
《「過去はそうかも知れないが、将来はどうなんだ」と問われるであろう。現行の憲法は理想論であり。、もはや現実と乖離しているという議論がある。と続けて最初の問いに対する答えはしていない。俺なりの答えは上岡龍太郎さんの受け売りで「他国から攻められて滅ぼされてもいいじゃあないか。平和憲法という理想に殉じた馬鹿な国日本」でいいじゃあねえか。」》
《憲法と日米安保条約が日本軍国主義を無力化するというひとつの目的を達成するためのワンセットのもの…日本の外の国からみればそう考えれば合理的だ。日本は建前上は独立した民主主義国家であるが、同時にアメリカの政治戦略の中に深く組み込まれた属国的な国家でもあった…その通り。このことゆえに日本は経済的に成長し、腑抜けになり、生き残れればいいじゃあねえか、と『ごっこの国』になった。》
《アメリカを含むアジア共同体を作って参加国に「皆さんの主権の一部を共同体に預けましょう。大丈夫です、日本はすでにアメリカ相手に主権のほとんどを預けて来たんですよ。皆さんも日本程度にはなれますよ。」ってか?…ブラックジョークか?こういう屁理屈、俺好き。》
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