串田孫一 の言葉

 おそらく小鳥たちは、人間のようにあまり意味のない空想に耽ったり、昔のことを徒に後悔したり、また未来への不安を抱いて絶望に陥ることはないでしょう。この頃はまたシジュウカラが三羽四羽一緒になってよくやってきます。木の幹に、またその裂けた皮の間に身を隠して冬を越している虫を探しに来るのです。その確信を持った探し方、機敏な身のこなし、そしてそれらの自分の生命のための働きをしながら、常に四方に細かく気を配る姿、私はむしろここに考える姿を見てもよいと思います。

ベルグソンは、ある時の講演の中で、この「必要」ということを取り上げまして、普通の人間はみな「必要」によって何かをしている、そしてこの「必要」は物を見る時にはそれをよく見ることをできなくしてしまうということを言っています。そしてその必要から解き放たれている人、何の拘束も受けずに物を見ることのできる人が芸術家だという訳です。例えば、摘み草に行くときに、それが全くどうでもよいリクリエーションの場合は別ですが、摘み取る草だけを一心に探していますと、その草原にどんな珍しい花が咲いていましても、却ってぼんやりそこを歩いている時よりも気が付かないだろうと思うのです。

二匹の狐は凍った河を前にしてそれぞれ何かを考えているようです。果たしてこの河に張った氷は、自分の体の重さに耐えるだけの厚みがあるかどうか、それを疑っているのです。ところが、この二匹の狐は河を渡りました。この狐の態度に対しまして、トラキアの人達と、支那の人たちの見方が違うのです。トラキアの人々は、狐は慎重であった、注意深かったというだけでなしに、氷の厚みを疑った上で、誤りのない推理判断をしたということで非常に賢い動物として賞賛されました。ところが、支那の人はそうは受け取らずにともかく河を渡ることができた以上、河を前にして無駄に躊躇していたのであるから、それは愚かしい態度だといって軽蔑されました。

清潔に洗濯をした白ズボンに白シャツの二人の若い人が、一つのこれも新しい白い球を見守りながら、右へ左へ、あるいは前へ後ろへ、自分自分の体をのびのびと移して、球を打ち返していました。私もその白い球の、時にはとよく、時には掬い上げられるように弱く飛ぶのを見ていたのですが、いつか今度はその球を打ち込んで次に相手から返って来る球を待ち構えているその身構え方を見つめていたのです。不用意に跳ね回るのではなく、程よい位置に軽く腰を落としているその身構え方、それが実に美しい姿に見えました。その肉体と精神とが立派に調和を取った緊張の構え、これが私たちも日常身につけていなければならない、よく疑う姿なのではないかと思いました。

虚栄のための知識、あるいは自分の身を飾るための知識は、いざとなったら何の役にも立たないというこをここで思い切って申し上げまして、本当に知りたいことを思うことを改めて考えていただきたいのであります。大きな事でも小さなことでも、具体的な現実の問題でも、抽象的なことでもそれは構いません。真剣にそれを知ろうとして獲得する事のできたものなら、それはたとえ本から得たものでありましょうとも、あるいは幼い子供から教えられたものでありましょうとも、必ず自分のものになって、それが素朴な要求であればこそ喜びを伴い、またそれが今すぐに役立たないものであるにしても、いつかは必ず、形を変えて自分の成長に役立ったというはっきりした証拠を見せてくれるに違いありません。

彫刻家ロダンの言葉「我々の時代に一番欠けているものは何かと言うと、それは自分の職業に対する愛情だと思う。誰もが自分自分の仕事を、いやいややり終えるだけである。従ってその仕事はどうしてもぞんざいになる。社会の階級の上から下に至るまで、全てこの有様である。政治家たちは、ただ自分のために引き出すことのできる物質的な利益だけを気にしていて、昔の偉大な政治家たちがその国家の諸問題を巧みに処理することに感じたあの満足を知らない。実業家はその商標の名誉を維持しようとはしないで、ただ粗製乱造の品物を作って、同時になるべく多くの金を儲けようとしているだけである。また労働者たちは、多少とも理由をくっつけた敵意を、自分達の雇い主に対して燃やし、自分達の仕事をあっさり片づけてしまう。今日のほとんどすべての人たちは、働くということを、やむを得ない呪わしいこと、いやな労役と考えている。しかし働く事こそ私どもの生存の理由、そしてまた我々の名誉であると見るべきである。このことはいつの時代もそうであったと思ってはならない。革命以前の旧政体の時代から今に残されている物の大部分、つまり家具や道具箱、織物などは、それを作った人の偉大な良心を物語っている。人間はよく働きたがると同時に、悪い働き方もしたがる、ある時にはよく、またある時には悪い方に傾くが、どちらかと言えば、現実には悪い働き方をしている。もしもその働くということが、人間の生存の代償である代わりに、その目的であるとすれば、人間は一段と幸福であろう」

私たちが何か仕事をし、働いていて、本当に楽しいのは、その報酬のことなど考えないで、働くことが自分の生命の目的のように思っている時に違いありません。

遊ぶという事の中で一番大事なことは、しなければならない仕事、必要に迫られてやることとはちがって、もっと勝手で、自由で、しかもそれに熱中することができるということ、別の言葉で言えば陶酔することであります。必要に迫られてする仕事にも、最初はいやいや始めてもそれに熱中できる人はいくらでもいると思いますし、それがなければ続けられる訳のものではありませんが、しかし遊びの中での陶酔はもっとゆったりとした、肩の凝らないところがあります。

人間は化粧をすることを覚えてから、自分の盛りを一刻でも長引かせる工夫を怠らない。むしろそのために苦労して老い込んでいくのではないかしらと思うことがある。僕は女の方々でも、無理に若々しく装っている姿を見ると、花びらをいつまでもくっ付けている花を思い出してしまう。けれども秋から冬にかけての花壇には、花はなくとも、それ以上に美しいものがある。その枯れていく茎や葉や、その先にわずかにかぞえられる実まで含めて、全体に、夏の盛りには見られない落ち着きと、何かしら深い知恵を感じさせるものがある。そしてそれはまた、人間にさまざまのことを教えてくれる。美しく咲いている花ばかりを見ている人、満月の夜ばかりを眺める人は、自分の盛りが過ぎても、なおそれのみに執着をもって、盛りをすぎた自分に美しさを発見することがない。むつかしい事なのかもしれないが、りこうなはずの人間が、この点ではひどく愚かな狼狽をしているように思われてならない。僕は50歳、60歳のファッションモデルが早く出て来ないかと思う。若い人たちのためにはもうモデルはいらない。

彼女は合理的生活という言葉を覚え、その実践のため頭をひねっている。能率を上げるために、たれから教わったのか、本を読んだのか、布団のたたみ方から、はたきのかけ方に至るまで時間の節約を考えた。そうして、人間というものにとって、手をあけているほど愚かしいことはないと主張し、毛糸を編む機械を買い込んでせせっせと内職している。それは大変いいことだと思うのだが、彼女は果たして最善の生活をしているのだろうか。日のあたる縁先に座って、ぼやんと空をながめることなどはもうしない。家族そろって食事を済ませ、つらかったちゃぶ台の周りにそのままみんなばかな話をしているようなこともない。「合理的」という一種の神様に仕えているこの奥さんを救うにはどうしたらいいのか。

木の葉が散る前に、なぜあんな美しい色をするのだろうか、と考えみて、その意味が分からず頭を悩ましているのは人間である。人間の容貌の美しさも、ほんとうはどうして生じたかは分からない。何かをしたから、何かが行われたから美しくなった。それを探し求め、苦しい体操をし、あらゆる我慢をし、遂には手術をうける。美しさのための狂人、美を崇拝するこの信者のむれ、これは確かに自然の外にはみ出してもがいている姿である。そしてほとんどすべての人が、そういう美しさになれて狂人をおだて続けていくだろう。紅葉も、落ち葉も一つの厳然とした営みを行っているために美しい。

人間はこれまで、随分、尊大で、思い切ったことを考え、またしてきたが、この大きく、人間とは比べ物にもならない優れたものを持っている自然の保護をしてやろうというのは、他に類を見ない思い上がりのように私には見える。人間には自然の仕組みのある部分は分かっているので、例えば木々をやたらに伐採せずにいれば、山ははげ山にならずに済むかもしれないし、魚などでも乱獲せずに控えて置けば、減り方はある程度食い止められるだろうが、それは全て、人間を中心とした考えから出発したことのように見える。おごれるものは久しからずというような内容の物語を沢山作って来た人間にしては、考えの甘さ、浅さを暴露している感じがする。

私の友人の画家は事故に遭って手の指を失い、かなり長い間絶望していたが、指のない手に絵筆を紐で巻き付けて再び画を描きだしてから見違えるほど優れた絵を描き出し、芸術に対する意欲がまるで変ってしまった。指が短いので、先生から諦めろと言われてから奮起してヴァイオリンの名演奏家になった人も知っている。欠陥に気付かずに慢心している人には生きる目標がないが、自分と闘いながら努力している人の前には常に輝く峰が聳えている。

時々、よく生きて来たと思うことがある。70歳を過ぎてからそんなことを思うようになったが、これはいい傾向なのか、それとも警戒すべき事なのか分からない。ここに平均寿命を持ち出して見ても意味がない。一刻も休まずに使っていて70年も保つ機械で他にどんなものがあるだろうかと考えると、若干の故障があったり、現に機能の一部が弱くなっているとは言え、やはりよく生きて来たと思っても差し支えないような気がする。そして更にこう思っているために、先のことをあまりくよくよ考えたりせずに済むのだったら、これはいい心掛けかも知れない。けれども70年生きてきたら、もう、人間として生きる責任からすっかり解放されたような気分になってその後は惰性で、ともかく死ぬまで生きていてやろうというような無気力な生活に入ってしまうのだったら、少々考えものかも知れない。生活は誰かによって、或いは何かによって保証されていて、毎日無為の生活を送っていられる状態は中々良さそうに思われ、うっかり憧れたくもなるが、どうも何もせずに生きているというのはあまり楽ではなさそうである。何もせずに生きていることを強制されたら、これは大変な苦痛だろと思う。

ある力、ある誘い、そういうものに常に取り込まれているのが私たちである。誘惑に負けるというのも、最後までこれは自分の気持ちとは食い違っていたことを忘れずにいれば自己欺瞞にはならないが、負けたのだから自分を変え、かつてはいやだと思っていたことに自分が馴染んで行かなければならないと思った時、自分を欺き出している。これは自己を削り取り、自分を失うことになる。その方が生きやすいような錯覚に陥り、人間に丸みが出て来たと言って褒められる、恐ろしいのはこれである。歯を食いしばろう。

動物の中の、自分達人間だけを特別に扱うのは人間としては当然であるが、何から何まで他の動物より優れていると決めてしまうのは大変な思い上がりである。動物を詳しく観察している専門家の報告を読むと、大部分の動物は老境に入るとそれまでの集団生活から離れていく傾向がはっきり見られる。人間も老いを自覚すれば、付き合いの範囲をせばめ、小ぢんまりした生活に切り替えていくのがどうも自然のようである。それを周囲から、寂しいだろう、元気を出せ、などとあれこれ言うのは考え物である。老いは明らかに衰えである。軽々と持ち上げられたものがもう持てなくなる。精神は肉体のような衰え方はしないが、やはり衰える。問題はそれを本人がどういう自覚の仕方をするかである。自分も含めてそれに気を付けて見ていると、この衰えを口惜しく思い、何とかする場合と、その方が有利と見れば故意に衰えを訴え、それを切り札に使う。これはどう考えても使い分けであり、我儘であり、甘えである。老人の特別扱いがこれを許している場合が多い。無造作に銀の椅子を設けるべきでない。

人間が、自分の作った機械に支配されていることは誰もが認めているが、さてそれではどうすればいいかと言うと、この答えは簡単ではない。恐らくこのことは誰もが切実に感じていると思う。それならどうして機械から抜け出せないのか。そこから遠ざかった生活が出来ないのかと言うと、少しでも楽をして、簡単により多くのものを得ようとしている人間にとって、機械は極めて便利だからである。しかも今では機械の構造や原理についてはほとんどの人は説明できないのだが、操作は極めて簡単、私たちはその機械を作った人になんだか馬鹿にされているのではないかと思いながらも、便利であるがためにもう手放すことは無理である。ボタンを押す事だけで何でもできてしまうボタンの文化である。更に開けと言って魔法を使わなくとも、入ろうとする扉は開いてしまうし、何も考えずにボタンを押せば写真は見事に、決して失敗なく撮れてしまうし、食事をし、煙草を飲みながら、説明付きで遠くの国の暴動でも戦争でも見られるし、それが普通の人間の生活になってしまい、すでにそういう生活にすっかり慣れている。ボタンの文化は10本の指を持っている人間にとっては、考えようによっては侮辱である。しかし、10本の指をそなえている人間にとっても、ボタン一つ押すだけと言うのは便利な場合もあるので、決して侮辱などと思う者はいない。そんなことを言ったら笑われる。こういう生活を自ら好み、また強いられている人間の心の状態は複雑である。それにすべてがボタン式になってしまった訳ではないから、それに対応していかなければならない人間の心は、恐らく定めがたい状態に陥ているに違いない。こうした文化によってできている、しかも未完成の社会に生存していかなければならない人間は、外の生活の矛盾に対しては、これはこれ、あれはあれ、という具合に割り切ったような顔もしていられるが、そのしわ寄せは内面の生活に必ず及んでいる。しかし、ここが大切だと思う。内面生活でも矛盾をあっさり認め、内面を出来るだけ波立てないような利巧な手段を取るようになってしまった。心にもないことを言ったり、言うだけでなしに行動に移すのは、明らかに機械の支配を受けている証拠だと思う。私には、こうした私どもの心の持ち方をどう考えればいいかを述べる力などはない。それよりも、機械に支配されていることを自覚せずに、人間の作った文明の利器らしいものに従順である方が賢いかどうなのかを考えるのが出発点である。


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