藤原審爾「遺す言葉」(1985年新潮社)より

談志師匠が好き、いい、と評価する人と俺が好き、いいと思う人は重複が多い。まずフレッドアステア。手塚治虫。それから色川武大、西部邁、弟子の志の輔。逆に師匠がほめる割にあんまりいいとは思えないのがテツ&トモ、三橋美智也その他の昭和の歌手。さて、その色川さんが師匠と仰ぎ、読めと勧めるのだから藤原審爾さんの「遺す言葉」を読む。藤原審爾さん1921年生まれなので、60過ぎの時の「遺言」だ。

色川さんは自分のことを「間違えて生れて来ちゃった半端者」と思っているようで、そこが俺と一緒だ。人間としては一段下の出来だと思っている。一方、藤原審爾さんはまともで前向きな上出来の人。色川さんは真逆の藤原審爾さんに憧れたのか???

以下引用:部俺のコメント

・人の掟について

(戦前に4人の男の子を産み、苦労して育て上げたが、4人の子供たちは各自平等に月々千円ずつ送って来て、その4千円で生活しなければならなくなった「お花」さんという女性を取り上げ)この「お花」さんの不幸な出来事は、民主主義のはきちがえによるものというように扱われ、最初は教育運動の欠陥によるものと考えられた。民主主義という人間的な考え方に非はないのであるから、それを正しく把握させることができないのは、教育啓蒙のしかたがよろしくないからだと考えられたのである。

しかし、実際は、そういうことではなくて、いくら正しい考え方であっても、そして理解できるものであっても、受け取る側の現状に合わなければ、混乱を惹き起こす結果になるということなのである。GHQの期待もそこにあったようであるが、こういう場合の改善は、民主主義教育を放棄することが許されぬために、極めて困難なことになるのである。もともと民主主義は、民衆が作り上げて行くものであって、長い歳月と努力が必要なのであり、そのことによって民衆の個性的な、実情に合ったデモクラシーが育つのである。しかし理解できるが、実情に合わないイデオロギーの普及教育が強力になされるというと、お花さんのような出来事が、多種多様に起こってくる。とりわけ厄介なのは、4人の子供達が、おしつけられた民主主義をはきちがえたりするのではなくて、一応の理解をした上で、都合の良いことだけを勝手に使うところだろう。そういうことが日本の実情であり、意識の段階なのである。

1970年に発表された江藤淳の「ごっこ」と同じ論だ。日本は戦後民主主義なるものその他アメリカ様から様々なものを押付けられた。日本人は半ばで考えることを禁じられ、半ば自ら考えることを放棄した。その集大成が「戦後民主主義」だ。

・食について

たとえば沙漠の中の生き物たちは、そこの土地にあるものによって出来上がっており、そこにあるわずかなものを食べて生きて行くことが出来るが、人にもそういう環境と不二なる所があって、生まれ育った環境の食べ物には、格別に折り合いのよいものがあるのである。瀬戸内海の養殖の海老で、揚げられたものであっても、これは郷里に近いとすぐわかるが、その感じは食べ馴れていたものを思い出すというようではなく、そういう不二なる関係によって、あたかも鮭が自分の生まれた川を識別するように、ごく自然に体の深部でわかるといったふうである。さらに言えば、それは味覚がそれを感受することができるというより、味覚はそのためにあるというべきであろう。こういうところから考えれば、満遍なくいろいろのものを食べるという食事方法を、果たしてどの程度信頼してよいものか、いささか以上の不安を覚えないではいられない。むしろ味覚を育てるべきであって、不二なるものに近いものを好むようなところへ、味覚を育てるような食事方法を考えるべきであろう。

「栄養バランスを良くして健康な長寿を」という理屈ではなく、仮に早死にしても、もっと深くより良く生きるために「生と密着に関係のある味覚を磨け」・・・養老孟司の「バカの壁」を連想させる。人間は動物なのだから、健康などで気にせず、まず、「生を満喫せよ」と。

・住について

たとえば轆轤(ろくろ)のような道具であれば、わたしの郷里の備前では、子供の頃から馴染(なじ)ませなければ、からだが轆轤にならないという。轆轤と言う道具をうまく使うためには、身体をそれほど深く轆轤になじまさなければならないのである。そういう風に育てられた職人は、一合徳利といえば一合徳利をすらすらつくれるばかりでなく、時によきものをつくることが出来るが、いまの学卒の陶芸家などは、実際そういう風にはひくことができないのである。道具と言えども、それを素晴らしく使うためには、まずからだが轆轤になるというほどの順応が必要なのである。それに諸々のこの世の道具は、それぞれの歴史を持っている既成のものであって、わたしらより先にこの世にあって、この世の一部をなしているのであるから、あとから生まれたものはまずそれへ順応しなければならない。より深く順応することによって、その恩恵を最大限に受けるように努め、それによって道具を超えなければならない。これが人の生き方なのであるから、家もまたそれに順応し、そのことによって家を超えなければならないのだろう。したがって、家は順応しやすく建てられるべきなのだが、そこがこのマンションにはないのである。

ここに藤原審爾の真骨頂が書き表されている。人間は「おぎゃあ」と生まれた時の環境(親兄弟などの人、家や道具などのもの、自然環境・・・)に順応し、それらの恵みを最大減享受し、それに感謝し、その恩に報いなければならない。恩に報いるとは、自分から環境に働きかけ、環境をよくして次世代に残すということ。これが人間の生きる理由・目的である、と。また、恵みを受けるときにはひとり占めせず、また無駄にしてはならない。色川さんにしろ、俺にしろ、環境から恵みを与えられた、という感覚がないんじゃないか?なぜ俺なんかが生まれたの?だろう。

・衣について

”家”というものは、社会がそうであるように、生まれる前からすでにあったものであるから、それに順応して行き、その恩恵をよりよく受けるというようにしなければなならい。しかし、すでにある自然とはことなり、これは人が作った小さい道具なのであるから、快適な生活ができ、よりよく人生の目的をとげやすくするようなものとしてあるべきなのだが、実際はそうではない。自分で好みの家を建てても、家はキツネの巣穴のように変化してくれず、こちらが出来た家の方に合わせて暮さなければならない。(略)自分のために自分が作った道具に、一方的に順応させられるというのは、どうみてもおかしなことであり、いかにも情けない。(略)

例えばネクタイというものをする時、実に不愉快な思いをしなければならない。首を絞めるような心地も嫌だが、なぜこんなものをしなければならぬのか、その理由が理解できぬのがわたしを落ち着かせない。理由も分からないのに、みんながそうしているからそうせざるを得ないということが、はなはだ耐え難い。(略)去年までは細い襟やズボンに美的なものを感じていたのに、翌年にはあべこべに太く広くなるのをよしとするあたり、到底美的理由をあげつらうことなどできないだろう。多分、われわれは、ごく習慣的に、そこに服というものがあったゆえ、なんとなく服を着ているということであって、家の場合と同じように、服というものへこちらから合わせていっているのである。そしてそこに服があったので服を着ているというような、何らの判断もしない習慣が、どうやら流行に場を与えているように思われる。

1915年生まれの山本夏彦さんは荘子から「機械あれば(機事あり機事あれば)機心あり」という言葉を引いている。機械・道具というものはそれを生み出した人間を支配すようになるのだ。前半のくだりを読むと、ワードやエクセルやパワポに馴染めない(意地でもなじまない)俺そっくり。俺はみんながそうするならああしてろう、というへそ曲がりだ。皆が行くから、学校に行くのも嫌だった。後半部分についても夏彦さんは「世はすべて習慣」みたいなことを言っている。これに資本主義が乗っかって、流行を生み出す。

・孝について

(ある女性が一人息子を苦労して女手一つで育てた。その息子が結婚し、女性が嫁とうまくいかないと見るや、息子から「老人ホームに行け」と言われた・・・その息子に関して)人というものが、人とその環境との関係の総和であることを知らず、空間的な個体としてしか理解していなく、生活上便宜的に姓名をつけるように、そのまわりの人々を一部の特色で認知しているにすぎない。従って彼は、最も深い関係を持っている自分の環境についても、具体的な把握をしていないのであり、個の成長が環境との関係の中にあることも知らず、もとより環境への責任も感じない。人は人や環境との関係を人間的なものに作り上げて行くことによってしか、自分を育て上げることができないのであり、人の能動性はまず身の回りの人々によく奉仕することによって、自分を育て上げることに耐えうるものであることも知らない。人々がその環境をよろしく発展させぬ限り、人の順調な成育はそこなわれるのであるから、根源的には人は各自その環境の発展に責任を持たされているのであり、その責任はより濃密な関係を持つものほど深く大きいのである。(略)(息子に親への愛に訴えて説得しても、それは)妻に泣き口説かれるとたちまち変わるという条件を持っている。昔の人々は「孝」という観念を、そのために人の心に育てたのであり、それによっていたらぬ青年を支えたのだが、今日ではそれが失われている。

成長とは、自分を成長させてくれた環境に感謝し、自分からも環境をよりよくする働きかけをすることで完結する。「環境に対するお礼」がない”成長”は、嘘の、自分本位の成長。孝だ忠だ仁だ礼だなどという徳目は、人がお世話になった環境にお礼をし、人間として完成するためのツール。

・ふたたび孝について

土と火という自然とたたかう陶芸のように、自然の条件を支配する方法を取らず、土と火の条件に出来るだけ順応し、順応することによって土と火の恩恵を最も深く大きく受ける事をつとめ、そのことにおいて自然を超えるというような方法によらなければならない。今日孝という観念などは、儒教教育の輸入であって、封建時代には封建社会の保全のために支配勢力がおしすすめてきたものであり、明治維新後もまた道徳の基本原理として教育してきたという歴史をもっていることから、一概にうとんじられているけれども、果たしてそういうことでよいのだろうか。少なくとも孝ということが、久しく人々の中に生きて来たのは、それなりの益もあったのであり、とりわけ大きな理由は、親子という仲の奥にある神域の活動への順応があり、神域の活動からの恩恵を得て、誰よりも濃密な二人の関係というより以上の親密な頼り合える親子を獲得できるからであろう。

自然との作用反作用、親との作用反作用。戦って勝つというのではなく、「順応」する。それが最も深く大きく自然の恩恵を受ける方法。(最も深く大きく恩恵を受ける状況を「神域」と呼ぶ)これが昔の日本人の芸であり、道。自然も親も恵みを与えてくれる「神様」になる。対してキリスト教・ユダヤ教は自然に勝とうとし、弱い者を食いつくそうとする。(覇道)

・恩について

(前略)祖母から水を粗末にするなと叱られる。そういう折の叱る理由は、うちの井戸の水ではあるけれども、これは国のものであり、自然の恵みなのであるから、自分の気ままに使ってはいけない。一番役に立つように、大事に使わなければならない、というふうなことであった。(略)そういう教育の骨子は、倹約することを教えて、暮らしやすくするためというふうではなく、恩という観念を抱かせ、恩恵に対して感謝する心を育てるところにあったようである。たとえば遊び仲間の子供から、なにか手伝ってもらったり、物をもらった時など、そのお礼を迅速にしなければ、叱られるというようなことになる。してもらったことに感謝をよくすることが出来れば、自然におかえしするようになれるのであり、そういう生き方をするように教育したかったらしい。(略)

これはわたしの知人のことであるが、彼はある芸事の師匠の弟子になり、愚直なほど師匠の芸に追随していた。そういう芸なり芸風であれば、到底師に及ぶべくもない。彼は一般に愚鈍と見られていた。師匠が一本立ちした頃からの弟子なのだが、後輩の弟子たちの中に、才能のあり気な者がおり、その後塵を受ける有様だった。その後輩は師匠の芸にあきたらなくなり、やがて師の許を去り、一家を構え、新風を起こし、なかなかの評判を得たのである。師匠の付き人のような彼をもどかしがる人も多かったが、彼は師匠が他界するまでそういうふうにして暮らしていた。彼は空襲で親を失い、弟子入りして漸く暮らせるようになったことに、深く恩諠を感じており、そういうふうにしか生きられなかったのである。しかし、彼は師匠の死後数年のうちに、着実に自分の世界を作り始め、たちまち一家を構えた後輩など追い付きがたい域に達していった。今日彼は第一人者となっておるが、自分がそこまで来れたのは、「師匠に恩返しをしようと師匠から片時も離れないようにしたおかげでしょう」と言っている。(略)彼の後輩はたしかに彼よりも才能天分があり気に見受けられるし、才能天分に限って言えば、彼よりも優れていると謂ってもよいだろう。しかし後輩は、伝承された芸の偉大さ深さを知るに至らず、師匠の芸の一部を会得したところで、自己主張にかられて一派を作ったのである。それに引き換え彼は、よく仕えたことによって、師匠の伝承された芸を深く知ることができ、その恩恵を大きく得ることができ、それによって今日の大成をさずけられたのである。

ここに登場する「祖母」は、幕末か明治の初めに生まれたと思われるが、彼女にとって「自然の恵み=国の恵み」だ。そして自然の恵みは神様(=天皇)のおかげ、と続く。従って天皇の恩に報いるのが日本人の努め、天皇陛下万歳で特攻隊・・・。上記の話の後段はなんとなく大谷翔平を連想させる。師匠の恩に対する感謝によって芸が伝承される。伝統芸において、親が子に伝承しやすいのは、弟子が師匠(=親)に恩を感じやすいからか?祖先からの伝承=家と報恩・・・日本人ワールド。


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