久しぶりに塩野七生

 塩野七生「誰が国家を殺すのか」を読んで:

2017年から2022年にかけての文藝春秋に寄せたエッセイ。全体的に暗い。七生さんが住んでいるイタリアもそして日本もどんどん衆愚政治に堕していると、絶望的にになりそうなのを何とかこらえている感じ。以下にいくつかの七生節と俺の感想。

福島第一原発事故の後に東電に入社し、廃炉を担当している27歳と26歳の話。

二人とも東北大の原子力関係の卒業生だから、あの事故の後も毎年数百人の新人社員を採用している東電でも、エリート中のエリートになるであろう。初めのうちはなぜわざわざ東電に就職するのかと心配する両親への説得話を聴いていたのだが、そのうちに私は質問せずに彼らの話を聴く一方になった。もっともらしい質問をするのが恥ずかしくなったのだ。彼らの口からは、同じ東電の中堅社員が口にする、事故への償いの想いは一言も出なかった。また、東電はこのままで終わらせないという、内に秘めた気概もうかがえなかった。一言で言えば、二十代のこの二人はアッケラカンとしていたのである。これが、事故現場を見たことで重い気分になっていた私を救った。27歳は言った。「なにしろ全てのことが初めてなので、他の会社なら当たり前のベテラン世代の経験量も、ここでは全く役に立たない。廃炉のために何をすればよいか、それには何をどう使えばより効果が出るのかを決めるにも、ここでは全員のスタートラインが同一線上にあるのです。」入社2,3年のこの二人でも、今の東電では領国は小さくても一国一城の主なのだ。先輩たちに相談することもできない中で、部下たちを統率して仕事を進める立場にいる。

これほど「成長」できる現場はないだろう。俺たちもそして俺たちの上の世代も、それまでの経験が役に立たない、皆のスタートラインが同一線上の仕事・環境に放り込まれて、もがいて「成長」した。

東京に戻って来て見たテレビで、優勝を逃したスケート選手が、「自分をなおも追いつめることで次は勝ちたい」と言っているのを聴いて、思わずテレビの前で叫んでしまった、宇野クン、自分を追い詰めていたのではいつまでたっても2位ですよ。1位になりたかったら、自分を解き放ってやることです、と。(略)思い切って自分を解き放してしまう勇気のあるなしが、勝つかそれとも万年界に甘んずるかを決める分岐点ではないかと思い始めている。

自分を解き放つと傷ついたり、失敗する危険がある。その危険を冒さないと勝てない、ということだ。

元大阪市長の橋下徹氏は、彼自身の体験に基づいて、国民投票なり住民投票なりについて、次にように言っていた。票を投ずる人の三分の一はそれに賛成な人々、ほかの三分の一は反対の人々。ただし、残りの三分の一は、提案されているテーマについての賛否ではなく、提案した人への好悪の感情で投票するのだ、と。至言、だと思う、国民投票という日本語訳の原語は「レファレンダム」だが、このラテン語のもともとの意味は、来たところの戻す、にある。という事は、選挙で選ばれて国政を委託されているはずの国会議員なのに、その責務を放棄し、委託した国民の側に決めてくれ、と頼んでいるのだから、代議制民主主義の放棄に等しい。「レファレンダム」には、もう一つ意味があり、それは「世論調査のようなもの」である。つまり、参考にする程度にとどめておくべきこと、なのである。ゆえに、国民投票に自分の政治生命をかける、なんて公言する政治家もそれを要求するマスコミも、何も分かっていないことでは変わりはない。いずれにしても、「民意」こそが真の正当性をもつ、などという幻想からはいいかげんの卒業してはどうか。民主政(デモクラシー)を守るためにも、なのです。

決めたことだから変えられないとは、官僚とかマスメディアの言葉で、政治家が口にすべき言葉ではない。ただし、起こる事必至の批判には、変えた、と正直に答える。そして、なぜ変えたかの理由は明快に説明する。データによって出た数字を言葉一つで動かす気概なくして、なんで政治家をやっているのだろう。

民意やいったん決めたことをひっくり返す、データに逆らう…政治家の責任・気概・存在意義。リーダーの責任・気概・存在意義でもあろう…そのために政治家やリーダーはいる。

自分の生き方を決めるのは自分だけ、ではまったくない。決めたのは自分、と思っているだけで、実際は、出会った人やその時代の空気、その空気がどうあろうともその時代に生きていた人たちの感受性、等々に影響されて、自分でも気づかないうちに決めていた、にすぎない。それを一語であらわせば、「運」。才能などは運に恵まれれば自然に育ってくるものである。

決めたのは自分、と思える決断はしたい。みんなが、世間が、言う事に従うのだけは嫌だ。それも、自分自身の選択であり、「運」とも言えるが…時代に影響されるのは避けられないが、それでも自分で考え、決めるのだ。

超大国にならなくても日本は、国民には安全と文明度の高い生活は保障する責務ならばある。そして最大の目的は、血を流す戦争は2度と起こさない、につきる。つまりこれからは、血を流さない戦争を最重要目的にしなければならない、そしてそれには、次の事柄が欠かせない。

第一は、(憲法前文にあるような)他国の善意に期待して、などと考えない事。

第二、アメリカ合衆国には頼り切らないこと。頼らないこと、ではない。きらないことだから、同盟関係を結ぶのはいっこうにかまわない。

第三、軍事力を持つこと。一国だけで勝てるほどの軍事力は持たなくてよいが、攻めてこられた当初にしろ迎え撃てる程度の軍事力は維持する必要がある。バイデンの言*は論理上は正しいのだし、軍事力を持たずに中立であり続けた例は、古今東西どこにもない。

第四、経済力と技術力の向上も忘れたはならない。自国民のためでけではない。他国に、自分たちの側に欲しい、言い換えれば、敵側に回したくない、と思わせるためである。自国の独立と文明度の維持は、イデオロギーだけの問題ではないのです。

*自分で自分自身を守ろうとしない人々のために、これ以上アメリカの若者たちを釘付けにしておくことは許されない。

まず、改憲だ。改憲するには国民投票で「民意」を問う事が必要だ。面倒だネ。上記第三に、俺は首をかしげる。七生さん、「血を流さない戦争」ならやれ、と言う。非武装で、だから攻められて占領されても言うことを聞かない、抵抗する、というのと軍を持つのと、どっちが日本人向きか?AIにバーチャルな戦争をさせるって、血を流さない戦争なんだけど・・・。第二も難しい。アメリカ様に調教されて自分の頭で考える能力を奪われた日本人はアメリカ様に頼らずに考えることができるのだろうか?(改憲について議論すら始めない、というのがその証拠だ)

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