久しぶりに山本七平

 全対話 日本学入門を読む:

何年かぶりに七平さんを読む。やっぱり面白い。老荘と似て、読むと「スッキリ」する。しかし、老荘と同じく「ではこれからどうする?」の答えは得られない。

最大の発見は「日本人はいても日本国民はいない」ということだ。つまり、日本国は山や海の様に、昔から”自然に”あるもので、ことさら、ここまでが日本国とか意識しないということ。そこに生まれた人は日本人と呼ばれ、本人もそう思う。肌の色やしゃべる言葉で日本人以外の人と区別(差別?)もつく。尖閣や北方領土に行けば違う感慨を持つのだろうが、普通、国境なんて感じたり考えたりしない。ロシア人は「そこでロシア人が生まれればロシア国」、という人達らしい。ロシアとウクライナは、大陸で何千年も繰り返されてきた「国境を決める争い」をしている。そこに住む人が「昨日までは〇〇国人だったけど、明日からは▽▽国人」ということが起こる。国境とは陸続きの大陸に住む人たちにとっては争って決めるものなのだ。イギリスは島国だがあの狭い島をいくつかに分けてそれぞれ国と言っていた。スコットランドは独立したいなどと言い、北アイルランドなんて、Wikiってみると「自分はイギリス人だ」と思う人は約30%、「アイルランド人だ」、という人も30%弱、「北アイルランド人だ」、という人も20%弱いる。つまり、「〇〇人」と「〇〇国民」とは全然別物だ。何千年間も国境を巡って争ってきた人たちと日本は戦争なんてできるだろうか?

そして日本では個人が弱く、民主主義が不向きで全体主義がなじむということ。

田中美知太郎の次の言葉:

確かに日本は保守的だと言われますね。その最たるものはいわゆる革新政党でしょう。これは全会一致の精神で動いているわけですけれども、実はその全会一致の精神で行き詰まるのです。うまくいかなくなると全部ひっくり返ってしまうのです。前はキツネだったのが生まれ変わってタヌキに生まれ変わって、前の事はケロッと忘れてしまう。いわゆる頭の切り替えが行われるわけです。日本はそれで何とかやっていくのでしょうかね。

・・・この言葉は1980年前半に発せられた。人生をかけてロゴスを研究し続けた田中美知太郎にしてこの言葉。日本人にはロゴスは無理だ、と絶望し、同時にそれでもなんとかやっていけると楽観(しようと)している。40年たった今、俺も、日本人は負けると分かっている戦争をするが、負けても生き残ったじゃあないか、これからも…と楽観している。

以下引用。黄色の部分は俺のコメント

奈良本辰也との対談

P72 

奈:だから、日本人の問題を考えるとき、この問題を考えない事には不充分じゃないかという気がするのです。宗教がなくては「個の確立」なんてできないですよ。欧州などではすぐこれを言いますが、日本のように宗教なしでやろうなんて大変なことなんですよ。

山:初期のキリスト教などに出て来るんですが、「個の確立」というのは逆に人間一人じゃないという意識を確立しろということなんです。人間は一人ではあり得ない。どこへ行っても主というものが、おまえと対峙しているのだ。だから、いなくなったら、おまえの周りを探せっていう面白い解釈がある。絶対ひとりじゃないという意識なんです。「個」というものは。

親父が「天知る、地知る、我知る、子*知る」と言っていたことを思い出す。後漢書にある、賄賂を差し出された役人が断る時のセリフ。キリスト教では「神との契約をちゃんと履行しているかどうか神がいつも監視している」。他人にどういわれようが、他人がどうしようが、自分の考え・意思で神様との契約を履行しろ・・・。中国人は、天に恥じるようなことはするな、と。日本人には、監視役の神もいない。天もない。誰もいない中で、どうやって意思決定するか…他人の目や「世間」や「親」がどう思うか?が判断基準だ。

*子とはこの場合、「あなた」の意。

よく、人間一人じゃ生きて行けない、というと、米はお百姓さんがつくってくれる、といった経済的、社会的な観点でそう言う。そうではなくて、宗教的、心理的に「一人じゃあ生きて行けない」だ。

P77

奈:日本でいちばん宗教的なのは日蓮宗かもしれませんね。

山:蒙古襲来の時、日蓮がこんなことが起こるのは日本が仏の道を外れているからだと言っている。これはキリスト教でも言う。(略)こんな発想があるのは日蓮だけですね。

奈:法華経を唱えれば救われる。しかし、個人でいくら頑張っても駄目である。いくらやっても、天災が来、飢饉が来、政治が悪ければ駄目だ。そうすると内へ向かう救いじゃなく、外へ向かわなければならない。こういう考えが日蓮宗にはありますね。他の仏教は内へ内へと向かうが、実在の極致から外へ向かうところが日蓮宗の大きな特徴ですね。

P79

山:日本じゃ上の人間に頭のいいのがいて、何でもかんでも先にやっちゃう。だから、いささか乱暴な言い方だけど日本じゃ革命が起こらないのです。時の権力者が一番革命的だったりするからね。文化文明を輸入している段階では、上がまず輸入してそれを大衆に回すでしょう。だから革命なんて起こらない。

奈:アメリカのニューディール政策なんかも、恐慌を乗り切るための革命的な方法論ですよ。だから革命のしようがないのです。

司馬遼太郎との対談

P148

司:(戦前の日本軍の戦車の設計について)ちょっとした技術的リアリズムというのは日本人は発達しているものですから、技術的リアリズムはきちっとしているんですね。日本の鉄道は狭軌だから車幅は限定されるというリアリズムが要求されるわけです。(略)それは鉄道が狭軌だという意味でのリアリズムだけはあるんです。つまり、参謀本部の非常に強引な要求と命令とで出来上がったもので、内臓だけはいい。しかし、それは兵器とは言えないものですね。攻撃力と防御力がなかったら、これは兵器じゃないですから。

日本軍の戦車は参謀本部の「もっと安く、もっと軽く」という指導で鉄板をどんどん薄くしたという。その結果、鉄板は「中にいる人間にとっては逃げられない壁」になり、一方で「敵の砲弾から身を守るには薄い紙」のようだったと。これ、ビジネスにも言える。利益を無視して見た目や品質に過剰にこだわるのも同根か。

P152

司:制空権と制海権を握られたら戦車は動けないです。だから最後まで司令部に温存されていたわけです。そうしたら、歩兵も砲兵もみんな死んでしまって、戦車だけが生き残っているわけでしょう。そうすると、申し訳ない、自分たちは全滅しましょうというので、何の役に立たないのに、全滅しに行ったんですよ。

P154

司:日露戦争までの政治家や、高級軍人というのは自分がこの国を作ったという責任で、中小企業の自営の経営者と同じなんですね。もうこれでゼニがおしまいだといって、女房と相談するみたいなところがあるでしょう。ところが、それ(日露戦争)以降は官僚としての自分の出世についての配慮しかないんですから。国家への責任と言うのはないですね。(略)本当の意味での愛国心はなかった。

P157

司:わたしは律令制が始まる時に日本国が出来た、と考えている。鉄の鍬が自国生産になり、ああいう鍬を作って、そのへんのやつらに土豪の親方が下げ渡す。夕方返納させる。それでそのへんの田畑を築いて、古墳の主のような土豪ができあがっていく。それが律令社会になるわけですね。それから班田収授の口分田の公田制になりましてですね。(略)最初は国衛や群衛が鍬を農民(農奴)に貸す。それで耕させる。それの税金を取りたてる。(略)本当の意味で当時自作農であったとしたら、そのころから自分と言うものは確立しているし、個というものは確立していると思うし、自作農が持つ一種の合理主義というものも、リアリズムっていうやつもあると思うんですね。ところが、口分田の農奴になってしまうと、税金を取って行く「お上」というものがあって、自分は一定の労働をしなきゃいけない。そういう性格が、われわれの社会の基礎にまずできた。ともかく、われわれは初めに国家があったような感じでしょう。

P159

山:イスラエルという国の動き方というのは、3千年昔の建国以来おそらくこのへんが原則でしょう。国家というのは必要悪だ、だからその存在理由がたえず試されるわけですよ。なぜ国家は存在するのかということを、初めから終わりまで執拗に追求し続けるわけです。ですから考え方が非常に人工的なんですね。おれたちで作るんだけれどもこれだけの代価払わねばならぬ。そのとき嫌だと言っても、もう神様は応えてくれませんよ。そう宣言しているわけです。それでよければ作れ。こういうことを読まされてた連中と、われわれというのは、やっぱりどこか違うんじゃないか。われわれは、いかなる存在理由があって日本国が存在するのかなんて、問うことがないんです。(略)

司:わずか千数百年前にできた日本国政府、日本国というものを、自然物の様に絶対的にそこにあるんだ、われわれは初めから国民だ、と思っているところがあるでしょう。

イスラエル人、そしてアメリカ人にとって、国というものは所与のもの、すでにある自然物ではない。国民になる、と意識して国民になる。ユーラシア大陸においても国境がころころ変わるから、国というものを意識する。日本は「昔から日本人が住む所=日本国」

P164

司:日本の白兵戦*というのは、一対一で日露戦争のときにロシア人とやるというのは、向こうの体格は大きいし、銃も長いし、結局はこれだろう。3人か4人一組で一人を倒すというのは、新選組もやってるんですね。赤穂浪士もやってる。(略)自分を弱い者だとするのがリアリズムの最初だと思うんですね。ここはリアリズムがあるんです。ここから山県が、この成功を軸にして日本陸軍を作った。

*西南戦争の時、薩摩藩の強い武士と、明治政府として初めて徴兵で集めた素人軍が白兵戦をやり、山県が考えたこと。

グレゴーリー・クラークとの対談

P172

山:白石が「西洋紀聞」の中でキリシタンは二尊ができるからいけないと言ってるんです。なぜか?天を祀っていいのは皇帝だけだ。諸侯は皇帝を天に祀らなくてはいけない。家臣は諸侯を天に祀らなければならない。家族は両親を天に祀らなければならない。これで秩序が保たれるのである。キリシタンは個人が自分を天に祀るのだから、家に二尊ができる。家に二尊ができたら国に二尊ができる。これでは秩序が保たれない。これは集団主義の思想的基本なんですよ。

山:いちばん問題なのは、日本文化には自己表現力がないということなんですね。自分自身がどうであるかを表現する能力がないんです。このへんの能力をどうやってつけるかですね。そのためには自分をもう一回把握し直さなくてはならない。把握できるまで徹底的にやってみればいいんです。自分たちはこうである、あなたがたはこうである、といわなければどうにもならんでしょうね。あなたがたはそうなんだけれども我々は違うんだ、では駄目なんです。自分たちはこうなんだ、ということが言えなくてはいけないんですけど、長い間日本は言わなくてもよかったんですね。表現しなくても分かり合える社会だったんです。

七平さんの言う「このへんの能力」を身につける必要があるか?身につけないで鎖国して閉じこもることは無理か?現状は、おつきあいが深くて長いアメリカ様にだけは「日本がどんなものか」ご理解いていただいていて、外交とか戦争といった「このへんの能力」が必要なことは全部アメリカ様に代行してもらっている、ということだろう。つまり、アメリカ以外に対しては日本は鎖国しているも同然だ。

田中澄江との対談:

P176

山:これは真宗的な考え方からきてるんじゃないですかね。人間はみな同じにして自然であればよろしい。人が右を向いたら右を向くのが自然なので、一人だけ左を向くのは不自然なんです。意志的に「はからい」をすること、いわば人が白を着る時俺は黒だ、という風にしては「不自然」で、これはいけないことなんです。

P183

山:目くじらを立てないというのは日本ではリーダーの資質みたいになっていますね。日本のリーダーというのはおもしろくて、絶対リードしてはいけないんです。「文藝春秋」に、島田繁太郎の「開戦日記」というのが出ていますが、天皇ってのは何のリードもしていないんです。あれはどうなっていますか、これはどうなっていますか、と質問するだけです。ですから、だれに責任があるか、と分析すると本当に困るんです。質問しただけだ、と言われればその通りなんです。この間、ある会社の社長にあった時も、「会社はみんなそうだ。君、あれはどうなっているか、と言っておけば思った通りになっている」というんです。

田中玄洋との対話:

P191 

田:我々の祖先は狩猟民族でなく、採取民族として生存してきたのですが、縄文前期ですから1万年くらい前に稲作があって、おそらくそれらと共に古代の信仰があったと思うんです。汎神論的信仰ですね。これらのものをいまでいう神道の形にまとめ上げたのは、もっと後の事です。「日本書紀」の用明天皇の時代です。これは1400年くらい前ですね。それは仏教が入ってきた時代と一致します。つまり、それまでにあった古代信仰が仏教という他者を通じて自己を確認した。そこに「神道」が成立したと思います。生きとし生けるもの、、もちろん自然物や自然現象にまで、神性を認めたのが古代信仰です。

P207

田:ロシアとアメリカは絶対戦争しない。かつてニクソンの手記の中で、ブレジネフとの対話として、米ソ戦えば白人が絶滅し、黒人や黄色人種が残ると。そんな馬鹿なことはしないというのが原則です。そしてアラブでもアジアでも、自分らに抵抗する第三、第四勢力を育ててはいかんということです。いま、世界は二つの核兵器を持った巨大国の間で、世界の分割は十分にできている。いまの水準を落とさずに、アラブの油で、ソ連とアメリカは百年間は五、六億人が生きていけるんで、あとの三十五、六億は死んでくれて結構だと思っているんですよ。

いかにもありそうな話

内村剛介との対話:

P215

内:ロシア人の住むところ聖なるロシアですから、しかも彼らは出世地主義ですから、国後で二代目が生まれると国後がネイティブランドになる。国後生まれの二世にとって、あそこはもう聖なるロシア、こうなったらてこでも動きませんね。(略)「ロシア年代記」は、ロシア人はどこから来たのかを明らかにしないばかりでなくて、その記述の始まりが「亡国論」なんです。どこの馬の骨かわからんところにもってきて、常に滅亡の危機にさらされているという切ない気持ち、それがロシア人の行動の裏に潜んでいる。こういう連中が、自分のアイデンティティーを求めて「このオレは何者なんだ、ロシアとは何だ。この宙づりの存在をやめて、何とかして確固とした足場を築きたい」とさまよいだす。そう思っているうちに、自分の歩いたところはすべて聖なるロシアにしてしまう。この怪物をどうしてくれるんだ、と私は思うんですよ。

山:なるほど、日本とは随分違うなあ。日本人の場合、ここを限度とするという感覚が実にはっきりと昔からある。同時に、日本は日本であって他とは関係ないという意識が非常に強い。これは天性のものでしょう。ヨーロッパでは近代国家を人為的に作ったんでしょうが、日本は初めからナチュラルに出来上がった。

そうなると、戦前日本だった台湾や朝鮮や南樺太は日本にとって何だったんだろうか?”外地”という言葉があるが、正しく「日本国の外にある、日本の持ち物」か?これをロシア人は「外地でも、そこで2世が生まれればロシア」、と思うらしい。

P220

内:「今更何を言ってるんだ。核は持ち込んでいるに決まっているよ」と通常の日本人は考える。40くらいの町のおばちゃんが私に言った。「これでまた、ひとしきりにぎやかになりますね。しかし、ソ連だってアメリカだって、核は秘密中の秘密でしょう。それをよそものの日本人に向かって、私は核兵器を積んでいますよとアメリカ人が言うわけないじゃない」とね。「核を持っているかいないか言ってみろというのは、子供が大人に向かって、『おじちゃん核持ってるの』『いや、持っていないよ』という問答で、そこには相手の善意があるんだから、これはこれでうまくできてるんですよね」と、そのおばちゃんが言った。これは卓見、驚嘆しましたね。このひとはもう、湯川博士より頭がいい。

山:日本ではインテリは、率直にものをいわない。荘重に訳の分からんことを言ってなくちゃ知識階級に入れてもらえない。訳の分からないこと、つまり”勧進帳”ですよ。朝日の<天声人語>はまさに勧進帳の典型です。勧進帳は核である義経を隠している。そして領海、すなわち安宅関(あたかのせき)を超えるわけだ。義経が隠されていることはもう富樫=日本人は知っている。観客=ソ連も先刻承知。みんなわかっているんです。「義経がそこにいるじゃあねえか。お前さんもそれを知ってるだろう」と誰か一人言ったらこの劇は成り立たん訳ですよ。そこで弁慶=日本のインテリが勧進帳を開き、朗々と読み上げる。荘重な議論をして、義経を隠して、安宅関を超えることを、了解し合わなくっちゃいけない。鈴木首相はイエスかノーかはっきり言わないと<天声人語>は批判していたけれど、いくら読んでも<天声人語>もイエスともノーとも言っていない。つまり<天声人語>の言わんとするところは、「弁慶役の鈴木善幸丞はちょっと勧進帳の読み方が下手だ。おれならもっと立派に勧進帳が読めるんだぞ」というだけのことなんです。ところでアメリカは勧進帳のない、イエス、ノーをはっきり言う国ですが、ロシアには勧進帳があるんじゃないですか。

内:ありますとも。例年初夏の漁業交渉のあの勧進帳。ロシアの勧進帳は型が決まっている。事務折衝をムニャムニャ続け、もう時間がないといって日本から農林水産大臣が飛んでくるまで結論を引き延ばし、そこでやっと読み上げるわけだ。(略)力関係があまりに違いすぎるから、ロシアがいくら勧進帳を読んでくれても、日本にはそれに合わせる札がない。読まれっぱなし、やられっぱなし、それで終わりになっちまうという奇妙、残酷なロシア勧進帳でしょう。「通行」は確かに認めてくれる。命だけは助けてくれる、という意味では確かに勧進帳に違いはないのだけれども・・・

上述のやり取りは、1981年ライシャワー元駐日アメリカ大使が「核は持ち込まれていた」と発言したことをめぐって日本で大騒動になったことを受けての話。ここに勧進帳を持ち出すセンスの良さ。日米にはない日露のコミュニケーション術。義経を探し出して捕まえなければならない安宅関の関守、富樫が、義経を守ろうと実際は白紙の巻物である勧進帳を読み上げる・・・この、義経を隠そうと必死の芸を披露する弁慶の心意気に免じて富樫は義経を見逃す・・・勧進帳は俺も大好きだ。勧進帳って日本人だけかと思ったらロシアにもあるのか・・・

深田祐介との対談

P241:

深:(日本では商売に)絶えず公共の概念がつきまとうわけですね。商人は天下を助く役人なり、という発想が絶えず出て来る。(略)それこそユダヤ人との違いが出てきますね。松下電器なんかも、つねに産業報国の信念を会社の理念にしているけれども、企業が国とか社会に殉じるなんて発想は、外国企業にはまるで考えられない。(略)利益に対する欧米的な発想の根源がユダヤ商人にあるとしたら、もう全然対極にあると思ったですな。

日本の会社って、このあたりから考え直さないといけない。確かに戦後、生涯に渡る年金や保険や、安定雇用で社会の安寧の維持に大変貢献したことに違いはない。会社は国家にどう貢献するのか?或いは国家なんて無視していいのか?そういうレベルから考え直す必要が。・・・すぐれた官僚・政治家、つまり国家の設計者が必要だ。

佐藤忠良との対談

P255

山:日本人は、決して国家意識が熾烈な民族じゃない。日本人意識はあっても、日本国民と、日本国家というのは、日本人じゃ区別つかないです。アメリカ人なら、すぐわかりますよ。自分はイタリア人であって、アメリカ国民である。これは当たり前のことですからね。そういう当たり前のことが、日本人には分からない。普通の日本人の場合には、日本国民と日本人というのは同一概念になっている。それは意識的な国家意識はないってことなんですよ。日本に軍隊で、もしも俺は天皇陛下は大嫌いだ、見ると胸糞悪いと、しかし軍人としての業務は100%果たすって言ったら通るかどうか、それは通りませんよね。だから軍人としての義務を果たさなくても、天皇陛下万歳と言ったら、そのほうがいいんであってね。(略)(イスラエルでは)今度のレバノン戦争で一番殊勲をあげた機甲師団長が、ベイルート包囲の時は、、この作戦は自分の信念に反するからやめるって言いだすわけですよ。参謀長が驚いてすっ飛んで行って説得しても、いや、自分の信念に反することはできないと、頑として辞職しちゃうわけです。

ベンーアミ・シロニーとの対談

P271

シ:大体日本ではいつも競争が激しいんですね。日本は外から見るとジャパン・インコーポレイテッドに見えますけれど、中から見たら、競争がいたるところにある。徳川幕府の時代にも、競争が激しかった。武士の中で、農民の中で、商人の中で、どこでも競争が激しかったですね。現在はそれがもっと大きくなっている。ですから日本はそんなにコンフォーミス*ということはない。

*コンフォーミストの間違い?体制や慣例に疑問を持たずに従うこと

山:戦国時代ですと、それが少しダイナミックになりすぎて、みんなちょっと困ったろうと思いますね。いわばあれは下剋上ダイナミズムだったから。

シ:日本はダイナミック過ぎた時代にも、例えば戦国時代にも分裂しなかった。これは面白いです。枠組みがいつもあったんです。それはもちろん天皇制とか、日本人の国家観とかが影響したんでしょうが・・・例えばローマ帝国はすぐに分裂しました。そういう枠組み、核がなかったんですね。

山:(戦国大名は)たしかにみんな自分の官僚を持ち、裁判権を持ち、行政権を持ち、交戦権を持っている。ヨーロッパから来た宣教師から見ると、あれは独立国なんです。ところが誰も自分たちは独立国だという意識を持っていない。いずれ日本というのは、国家統一されるべきものだという意識を持っているんです。

シ:中国はときには二つの国、三つの国に分裂した。韓国もそうでしょう。日本は古来からつねに一つの国家だった。あの戦国時代にも、一つの国家でありえたのは天皇制があったからだと思います。それを核とする民族意識があった。(略)日本人の存在は、ユダヤ人と違って宗教とは全然関係ありませんから。

山:それでいながらみんな日本人という意識は持っている。

シ:そうです。それは山本さんがおっしゃったように、「日本教」のようなものだ、と私は思います。

山:ですから日本国民と日本人とは別にならないんですね。

日本に生まれれば自動的に・自然に日本人で日本国民。日本という国家は「昔から日本人が住んでいる所」程度の意識か?意識して国民になる、などという意志的な「はからい」はいけない。生まれたら無意識のうちに日本人だった、が自然でよい。国と言うものも、自然から与えられる。これが日本教。史上最も乱暴で自己中だった戦国大名も日本という国家からの独立なんて考えもしなかった。(日本の統一は考えたけど。)同じ祖先(=天皇)をもった同じ日本人という意識があったのだろう。

山:日本では、誰もナンバーワンになろうとしない。他の国ではみんながナンバーワンになろうとするし、ナンバーワンにならない限り何もできない。もし日本人がそうしたら過当競争の日本では大変な政争になると。(略)天皇が抑制の対象となっているというシローさんの言葉の別の表現でしょうね。

シ:天皇の住んでいるところには、誰でも暴力的に入ろうと思えば入ることが出来た。でも誰も、入らなかったんですね。

山:だからと言って、いつも軍隊で警備するようなことはしない。大体、お城の中に天皇は住んでいないものなんですね。普通の塀で囲まれているところに住むのが本来なんです。だから誰でも入っていけた。でも、誰も入って行かないんですな。

シ:そう。アメリカが日本を占領した時も、アメリカ軍は皇居に入らなかったですね。これは、日本の大変大事なものだから、そこに入ることは出来ないという考え方があった。(略)天皇制が悪い、これが戦争を起こした一つの原因じゃないかとアメリカ軍が思っていたとしたら、当然入ったと思うんですがね。

山:駐日大使だったグルーなんていう人が、絶対入ったらいけないと言って、ものすごく反対したんでしょうね。

シ:天皇がいなければ、直接の占領が必要だった。これはドイツと全然違います。ドイツは直接の占領だった。アメリカ人はドイツの事をよく知っていましたし、ドイツ語もできたから、問題はなかったわけですか。

山:明治以降、軍人は社会的地位がどんどん下がっているんですね。サラリーマンみたいのはどこかで軽蔑してるんですが、サラリーマンの方がどんどん収入が上になってしまう。

シ:もしあのとき天皇が2・26に賛成していたら日本の歴史はずいぶん変わっていたでしょうね。彼らが成功していたら、国内では軍事主義的な制度が強くなっていたでしょう。ただ外面的に言えば、彼らは中国との戦争に反対だったから、日中戦争は始まらなかったでしょうね。彼らの敵はソ連だった。しかしソ連は強かったからそれと戦うことは非常に難しかったと思います。北一輝は中国のシンパで、中国と大同団結する考えだった。太平洋戦争もなかったかも知れません。北一輝の考えによると、味方は中国とアメリカであり、敵はロシアとイギリスだった。(略)(天皇には)潜在的な機能があると思います。日本人があまり天皇のことを考えなくても、潜在的に強い影響が残っていると思います。たとえば天皇は日本人に帰属感を与えます。同じ日本に帰属するという感じ方ですね。それと継続感。そのほか、父の慈愛感といいますか、温情とか。天皇の存在は日本人に精神的な安らぎを与えていると思う。天皇の存在は、防御ネットの役割を果たしたと思いますね。日本人の特色は、変わるということだと思います。それが平気です。日本は毎年毎年どんどん変わってもあまり恐れない。他の国民はそれを恐れます。

山:そうですね。どこかで日本人は、どう変えたって自分が崩壊するはずがないと思っているんですね。なぜそう思っているのかを分析しようとはしませんけど。

天皇は神聖にして侵すべからざる存在。戦国武将だって天皇を別に置いといてナンバーワンになろうとする。皇居に進駐軍も入らなかったという指摘は新鮮。天皇とは、天上にもいないし、日本国の中心でもないが、日本人の心の片隅に潜んでいて、危ない時にひょっこり思い出すものか?無防備な天皇を襲う人がいない。これって究極の平和主義?日本人の原点?

2・26のクーデターが成功していたら?というのもユニークな発想。2・26事件以降、軍部が日本を乗っ取るのだが、その乗っ取り方が中途半端で、天皇あるいは天皇の意を戴した者が、陰になり日向になり戦争に反対し、軍の足をひぱった。ケネディーがちょっかいを出して失敗したCIAのピッグス湾事件を連想する。2・26クーデターを成功させ、完全な軍部独裁になり、反軍、反戦の声を抑え、一方で国民のファナティックで好戦的な声にも押されないで、軍人たちに思う存分能力を発揮させたら、負ける戦はしなかったかも。絶望した日本国民が軍部を、勝てない戦争に駆り立てた、とも言える。

ケネディは暗殺され、天皇は殺されそこなった。これも日本人(日本)のユニークさか?天皇には沖縄や満州の日本人を棄民したという大きな前科もあるのだが、戦争を終わらせた聖断のおかげでこれらの前科はチャラになった。

山本夏彦さんとの対談

P289

夏:静岡かどっかの老人が全員落っこって死んだということがあったでしょう。そしたら土下座させた上でカネをよこせって言ったでしょう。昔は土下座すれば、カネは出さないでよかったんです。そのカネもね、その人が一流大学を出て一流会社に入って、何十年たつとどのくらいカネが入るかなんて言って・・・。そもそも一流に入れるかどうかわからないじゃありませんか。ところがね、その静岡の事故で死んだのは、おじいさん、おばあさんばっかりだったんですよ。そしたら「自分たちは親孝行をする機会を失った。その弁償をせよ」って言ったんですよ。(略)うっちゃらかしておくと我々は何を言い出すかわかりませんなあ。(略)大家族ですとね。長屋なんかですね。人の家と自分の家の区別もつかない。その長屋ではね、片っぽで猛烈な産声と共に子供が生まれ、片っぽでひっそりとまた苦しんで老人が死んでいく。それを長屋じゅうの子は見て知るんですよ。七つ八つの子は、ギョッとして顔色を変えます。そして死も自然だし、生も自然だと知るんですよ。見てると大人たちは湯灌して、顔剃って、娘なら死化粧してやって、経帷子(きょうかたびら)着せて三途の川の渡し賃まで入れてやって、さながら生きてる人に話すように話しています。ついこないだまでこうでしたよ。どうしてこれがなくなったのかっていうと、病院のせいです。

七:いや、平和国家ってのは、夢中で戦争を研究する国なんですよ。健康であろうと思ったら、病気を研究するでしょう。病気になりたくなけりゃあね。病気であることを一切忘れたからって、病気にかからないわけじゃあるまいし。こうしたら病気にならない、こうしたら…あらゆるケースを挙げて、それにならないように、あらゆる手を打つっていうのが当たり前でしょう。戦争論て日本にゼロなんです。こんなおかしな話ってのは、外国から見ると正気じゃない。戦争論なんかやると戦争になるなんていってね。これ、見ざる聞かざる言わざるで知らんぷりしてなきゃいかんということなのかな。

親孝行の機会・・・知らなかった。いいギャグだ。吉本並み。

戦争なんて言うと戦争になるから、不吉だから、言霊を恐れて戦争を研究しようとしない・・・大東亜戦争では、負けるなんて言うと縁起が悪いから、都合の悪いことには目をつぶって必ず勝つ、なんて言ってた。

自分(の家)と他人(の家)の区別がない…これが日本教?これが日本人の原点?区別がなければ平和主義。この区別する線を書き換えようとする国ばっかりだから、日本教・平和主義は通用しないということか。

P315

夏:自分の家にピアノがあって、隣にピアノがなければ、めでたく豊かになれるのに、隣の家にすでにあって、そのまた隣の家にもすでにあって、遅ればせながらようやく自分も買ったって、そんなもの豊かじゃない。今頃クーラー入れた人はただただ怒ってなくちゃならない。そしてたいていの人は、まあどちらかといえば遅ればせでしょう。それじゃ、早く持った人は満足かって言うと、他の人が追いかけて来てみんな持ったんですから…(略)つまりね、我々は差別しなければ、幸せになれないっていう厄介なしろものなんですよ。

七:平等社会って差別社会なんだ。平等社会ってのはどうしても差別せざるを得ないですよね。何かで。平等でなければ上に貴族がいる。平気でしょ、これ。貴族は貴族でね貴族の義務を果たしてりゃあいいじゃないか。平民はそんな義務はないんだ。明治の人間ってのにはある程度そういう意識があるんですよ。だからね、戦争はお武家のやることだ。俺たち町人が、何でそんなことをやるのだ・・・日清戦争のときまでは、ちゃんとその意識があるんですよ。

七:徳川時代ってのは非常に面白いシステムなんですよ。栄誉を持ってるものは富持ってちゃいけない。権力持ってる人は徹底的に貧乏じゃなくちゃいけない。金のある人は権力持ってちゃいけないっていう変な三権分立があるんです。勅使がくるとね、将軍ってのは斎戒沐浴して、それを上座に据えて、はいつくばるわけですよね。だけど天皇は権力持ってないんですよ。武士ってのは権力持ってる。故に貧乏なんですよ。その侍に対して町人は、やっぱり頭を下げなくてはいけないんです。だから、権力ある人間は富持っちゃいけないんですよ。富持ってる人間は権力持っちゃいけない。富持ってるのは最下層なんだ。

夏:おさまる御代ってのはそういう時代なんですよ。

七:ところが、帝政ロシアはそうじゃなかった。貴族ってのは富も持つし、権力も持つし、栄誉も持つ。みんな持っているんです。農奴は何も持ってない。世の中ひっくり返しても、損しないんですよ。だから簡単にひっくり返るんです。徳川時代ってのはね、みんなそれぞれが持っているからひっくり返しようがない。ところが戦後はね、ちょっとそれが崩れたんだ。だから一億総欲求不満になったわけ。

民主主義・資本主義は奴隷や植民地があって安泰だった。奴隷も植民地もない日本の民主主義や資本主義はまがい物?それとも奴隷や植民地の代りが非正規雇用社員や下請け企業?栄誉も権力も金もない人たちが絶望すればテロを起こし、社会をひっくり返す。

「おさまる御代」…俺の気に入っている夏彦フレーズ。

トマス・インモースとの対談

P356

山:九州のキリシタンは、ローマの伝統的な論理に基づいてでなく、スコラ哲学や東ヨーロッパの神秘主義的な経験やあるいは典礼に基づいてでもなく、どうしてキリスト教の信者になったのか。それは、村人は村長を信頼する。村長がキリスト信者になったから、ものがわからなくても、村長を信頼して従う。村長はどうしてそうなったか。彼はバーテレン神父を信頼する。そして神父はイエス様を信頼するんですね。ですから、儒教の精神によってのラインができた。論理によってではなく、神秘的な経験によってでなく、すっかり日本的な、儒教精神によってそういう信仰を受けた。そして武士道によって最後まで守ったんですね。250年も司祭がいなくてもキリスト教の信仰を守ったのは、歴史の中に他にどこにもない。

キリスト教精神:一人一人が神様と直接契約(約束)する。一人一人は並列。

儒教精神:上司や親といった「目上の人」が信じているから部下や子といった「目下」も信じる。上から下に「数珠繋ぎ・直列」の信仰。

田中美知太郎との対話:

p359

田:ペルシア王が人質のギリシア(スパルタ)人に、ギリシアの自由とはよくわからない、自由だけで戦争は出来るものだろうか、とたずねるのですが、このときそのギリシア人は、ギリシア人はあらゆる点で自由だけれども、しかし全く自由ではなくてノモスというものがある、ペルシア人はあなたのような恐い王様がいてにらんでいるからその命令に従って行動するけれども、ギリシア人は人の命令によるのではなく、ノモスによって治められているのである。ギリシア人はノモスを尊重し、そのために命を捨てることもあるのだ、と答えます。これは、ソクラテスの場合も同じことですね。判決は間違っているかもしれない、しかしその判決に従うことがギリシアのノモスであるということ。つまり、法治の精神ですね。

山:イスラエルでは法は王の上にあると考えられているのですが、これは神との契約という一つの神学があるからなのです。つまり、神は全能であり絶対である。従って契約は絶対であり、イスラエルの王である以上、王といえどもこの契約を逃れることはできない・・・こういうことになっています。

田:ギリシアには必然という考え方があって、これは神々といえども免れることができない。つまり必然の方が神々より強い訳で、従って法を王の上に置くというのも、そんなに抵抗のある考え方ではなかったと思います。むしろごく当たり前の常識的な考えだったのでしょう。そもそもギリシアの神々は絶対的な力を持っているとはいいがたく、常に相対化されている。家長格のゼウスでさえ、浮気をしては配偶者のヘラと喧嘩したりするようになっているのですね。多神教では神々はどうしても人間化されるケースが多いですね。

法の支配なんて信じる人は西側諸国の意識高い系の人だけでないか?日本人は法の方が天皇より上、と言われてどう思うか?唯一絶対のもの(神、ロゴス…)の支配を受け入れるなんてことは日本人には出来ないんじゃないか?その時々、都合の良さそうなもの・人の支配を受け入れるのが日本人ではないか?

P365

田:日本の民主主義は本物かどうか…日本の民主主義は平等主義が一番の根幹なのですね。

民主主義って平等じゃない。多数決で勝ったもん勝ち。悔しかったら多数派になれ…日本人はそう割り切れるか?少数派は我慢できるか?民主主義と書いた看板にそんなにこだわらなくていいと思うが。要は日本人向けの「おさまる御代」を生み出す仕組みならよい。日本の平等は機会平等ではなく、結果平等だ。つまり、自由ではない。全体主義に近い。

P368

田:要するに民主政治とは多数決政治だと言う事、反対の少数派はその決定に従って我慢すると言う事です。

山:多数決が中国や日本にはどうして出てこなかったのか。そのせいでしょうか、今でも投票の結果は絶対であるという意識が日本人にはありません。

田:ないですね。日本では、全会一致でなければならない。多数の方で決めるのではない…

山:それが実は恐ろしい事なのですね。少数意見を重んじろという事は新聞が絶えず言っていますが、それでは全会一致になったら…もちろんその場合は少数意見はなくなるのですが…それが果たして万能なのかという問題が出て来る。

田:少数でも反対意見があれば、うまくいかないとき今度はそれを考えることもできるけれども、全会一致ということになると直すことが出来なくなってしまう。

山:それが困るという意識が全くないようですね。

田:そういうのは全体主義の考え方ですね。一人の反対があってもいけないわけですから。反対者がいても大多数の人たちがよければそれでまずはやって行こうということが民主主義の根本ですね。

初めと終わりに大きな災害があり、その災害の合間にあるのが世界の歴史だとプラトンは考えていました。また、こういうことも言ってます。神々は初めは、かゆいところへ手が届くように人間の世話をするのですが、やがて人間に自分のことは自分でするようにと神々は手を引きます。人間はしばらくはそれまでの経験の記憶によってうまくやっていくことが出来るのですが、次第に破綻が出て来て、しまいにはにっちもさっちも行かない状態になってしまう。そうするとまた神が介入してきてくるわけです。そういう時代が交互に来ると考えていました。ですから、進歩ということについても、どこまでも一直線的に伸びていくものではなくて、その先に必ず破綻が来ると考えている。循環的な形でしか進歩は考えられていません。

ヘーゲルなども、彼の時代において世界史が集結すると考えていて、自分こそ最後の哲学を完成させたのだと思っていても、後ですぐにそれは違うと誰かが言い出す。

山:やはりギリシア的伝統なのでしょうか。その点日本は同じ民主制でありながら、非常に固定化しやすい傾向を持っているように思います。一つ物事が決まるとなかなか変えたがりません。不合理であろうが何であろうが、それを維持してこうとする。実際にうまくいかなくなると棚上げ方式でものごとがなされ、問題が別な方向へ逸れていってしまう。

田:確かに日本は保守的だと言われますね。その最たるものはいわゆる革新政党でしょう。これは全会一致の精神で動いているわけですけれども、実はその全会一致の精神で行き詰まるのです。うまくいかなくなると全部ひっくり返ってしまうのです。前はキツネだったのが生まれ変わってタヌキに生まれ変わって、前の事はケロッと忘れてしまう。いわゆる頭の切り替えが行われるわけです。日本はそれで何とかやっていくのでしょうかね。

山:前の思想の帰結として新しいものが出て来るのではないのですね。

田:急に頭を切り替えるだけで、発展はないのですね。一つ一つのプロセスを実践して生きて行く人というのはほとんどいなくて、急に改宗したりなんかする。

言葉やロゴス、理屈で考えれば少しづつ変える=進化ということがあり得る。理屈抜きの、少数派なしの全会一致で行こうとすると、全会一致で決めたものが使えなくなれば、飛躍したものを新しく編み出して再び全会一致で飛びつこうとする。全会一致=少数派ゼロは全体主義。民主主義ではない。

本書ではないが、田中美知太郎さんは以下の言葉も残している。

平和というものは、われわれが平和の歌を歌っていればそれで守られるというものではない。いわゆる平和憲法だけで平和が保証されるなら、ついでに台風の襲来も憲法で禁止しておいた方がよかったかも知れない。

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