大佛次郎、「天皇の世紀」を読む

 「天皇の世紀」は、文庫本で17巻あるが、作者が病気で倒れ、完結していない小説。(小説と言うよりノンフィクションというべきか)1967年から書き始められた。まだ第1巻しか読んでいないが、大佛次郎さんは、淀んだ古い日本を変革した人たち、その言動、考えを詳細に描いて、昭和の日本人に初心を忘れるな、と言いたかったのではないか?司馬遼太郎の最大のヒット作「坂の上の雲」は1968年から書かれ「竜馬がゆく」は1962年から書かれた。俺はこの頃小中学生でよく分からなかったが、1960年代の日本は、敗戦後10数年たって経済的によみがえり、奇跡と言われたが、一方で平和ぼけし奢侈に流れているという反省・意識が強かったのかもしれない。また明治維新から100年ということで明治維新を振り返るという風潮もあったろう。

この第1巻では、アヘン戦争に対する中国(清)の対応、黒船に対する江戸幕府の対応が描かれ、図らずも日中の比較になっている。(日中、どちらも攘夷論に違いはないが、イギリスに開国を迫られた清の役人はイギリス人の言う事を聞くような嘘をついてその場を取り繕ったのに対し、江戸幕府の役人はアメリカ人に嘘を言えずに「自分には決める権限がない」と言い訳して答えを先送りした。)

徳川封建制度の淀んで腐った変化を忌み嫌い、現状維持することしか考えられない支配層、とりわけ天皇を取り巻く公家の守旧停滞・頑迷固陋ぶりも描かれる。加えて以下の通り、俺が知らなかった意外なことを教えられた。

①吉田松陰はガチガチの攘夷論者だった。俺はもっと開明的で欧米好きだと思っていた。確かに黒船に乗り込んでアメリカに行こうとしたが、アメリカが好きで行こうと思ったわけではなく、もともと好奇心が強いから日本国中を歩き回って各地の知恵者と話した、その延長線上で、嫌いなアメリカに行って研究して国のためになりたかっただけ・・・大佛さんによれば幕末においては若者が不安になり、現状を変えよう、それまで一番大切だと信じられてきた家や藩を捨てて他国を知ろう、という渇きにも似たものが押さえきれず、それを癒すため、何のためだか本人も分からないが何かを見つけたい熱情に突き動かされたのだと。松陰はそれが誰よりも強く、そんな、一途で純粋な、目標も目的も何もない無分別・無鉄砲が松下村塾で教えを受けた長州の下級武士たちにも伝わり、江戸幕府を倒そうという破天荒な企みにつながった、とする。この松陰像は、司馬遼太郎の描く坂本龍馬と似ている、司馬さんによれば、竜馬も幕府をどうしようとか出世しようなどということが出発点ではなく、ただ世界中の国と商売したかっただけ。

明治維新が松陰の影響で「尊王攘夷」を旗印にしていたのも分かる。吉田松陰が明治維新まで生きていたら、攘夷を捨てただろうか?「最終的に攘夷するために今は開国する」という矛盾・屁理屈を振り回したか。

②盛岡(南部)藩はもともと気候に恵まれず、数年に1回飢饉が起きていたが、浦賀に黒船が来て大騒ぎしていた頃、盛岡藩に起きた飢饉は物凄く、餓死するもの、人間の死体を食う者が多く出て、とうとう3万人の百姓が隣の仙台藩に逃げ出し、仙台藩の配下になりたいと申し出た。この時、止めようとする盛岡藩の数百人の役人を取り囲み、百姓たちは「武士は偉そうにしているが、俺たちが食わしてやっている」と言い放ち、数に任せて役人たちを蹴散らした。俺は中国の百姓がこういった反乱を起こす(中国では多くの”革命”は百姓の反乱が引き金)ことは認識していたが、日本人が「お上」にこんなに激しく楯突くことがあるとは認識していなかった。

③18世紀末に蒸気船が発明され、それまで季節風に左右されて不自由な航海しかできなかった帆船に置き換わりつつあった。蒸気船は風などの自然環境に左右されなかったので、容易かつ頻繁に欧米からアジアにアプローチできるようになった。これが19世紀に中国でアヘン戦争を起こし、日本に開国をさせる大きな原因になった。

閑話休題:

以下にこの本の吉田松陰に関する記述を抜粋する。今どきの、絶望し将来が不安で、自分を1円でも高く売らなければ、という強迫観念に取り付かれた若い会社員に何か感じてもらえるだろうか?松陰のような「捨身」の師を慕う若者たちが集って学ぶ松下村塾は現代にあるのか?

(前略)時局に痛切に感じている多くの困難を天皇に対する忠誠の教義が解決するように見えてきたが、それだけでは外国を相手の問題を乗り切れるものではない。国のどこかが悪いのだが、それがどこか判らない。自分たちが持ってきた学問や文明が無力のようにお見えてくる。過去とは別の、何か新しい原則がたてられれば時勢を好転させ得るのではないかと考えて、それが発見できないのに当惑しまた迷うのである。(略)「先生門人に書を授くるに当たり、忠臣孝子身を殺し節に殉ずるの事に至る時は満眼涙を含み、声を震わし、甚だしきは熱涙点々と書に滴るに至る。是を以って門人もまた自ら感動して流涕するに至る。また逆臣君を苦しますが如きに至れば、声大にして、怒髪逆立するものの如し、弟子また自らこれを憎むの情を発す。(略)少年たちは50人といた訳でもなかったが、松陰の感化を受け、明治の新しい時代を作る為にここから門出した。その道程で生命を捨てて倒れるものを順に出しながら、残った数名の者が日本の近代化に成功するのである。師の松陰は、わけもなく外国船に乗ってアメリカに出て行こうと企てて幽閉の身となり、やがて安政の大獄で再び江戸に引き出されて斬首せられた。しかし短い歳月をこの先生に教えられた青少年が攘夷の運動に身を投じて倒れ、幕府を倒して新しい時代の門を開く仕事に参加した。師の松陰が、そのためにはどの原則に依ってよいか、何をして良いか分からずに迷っていた時と同じく松陰の弟子たちも成功する方角の確認もなしに、捨身自殺に近い過激な行動に一途に進んだものが多い。松陰が松下村塾で指導したのは、結果として学問は初歩の政治学のようなものだったが、弟子たちが受けたのは、行き詰った現状を打破して何もわからぬ新しい使命につくための人間的誠意と熱情であった。

燃えるような熱意に私心なく身を委ねる人間の典型を若い者たちはこの先生に発見した。サムソンが、なぜ松陰が同時代人の心に強い影響力を及ぼしたのか外国の研究者にはほとんど理解しにくいと言ったのは当然なのである。日本人ならばこれが解ると最早言えないのである。まだ一部の貧しい武士たちの間に、その貧しいことの故に実際的な打算や私意のなかった倫理的に高貴な時代に日本人がまだあったことも原因の一つであろう。これは、点々と自然発生した野火の如きものであった。燃え立って他に発火を誘いながら自分は燃え尽きて灰となって地に鎮まって行く、更にまだ若い日を、松陰があてもなく全国を歩き回り、次々に師を求め、大きな渇きのように自分たちの当面する問題の解決を求めたのと同じく、学者でもない全国の青年たちが何か不明のものに動かされ、遠国に人を訪ねたり、漫然と、京都に出てくるようになっていた。熊本で会った人間や、京都で知り合った人間が、萩城下の松下村塾にわざわざ訪ねて来て、旅装のまま狭い玄関に立つこともある。共通していたのは、彼らは、ほとんど貧しい士分の家に次男か三男に生まれた人々の場合が多い。農村からの離脱者もあった。一様に強い渇きを覚えていることが共通した。

松陰は、一か所に落ち付くことを知らぬ魂の原型であった。至誠を以って臨めば、かなう者はないと門人たちにいつも言い聞かせた。(略)松陰はその人達を、「あなた」と丁寧に声をかけたと言われる。弟子入りしてきた若者に挨拶するのにも、「御勉強なされい」と優しく告げたもの、と門下の一人が話している。人には優しいが自分は燃え尽きていくきびしい炎の塊であった。。。

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