韓国の悲劇①

 マーク・ゲイン著「ニッポン日記」の後半に「解放された」韓国の1946年当時の様子が描かれている。これを読むと、韓国人の反米反日の根源が分かる。韓国の反日は単に戦前の日本の占領に対する反発だけではない。せっかく日本から「解放」されたと思ったのに、すぐアメリカによってもとに戻されてしまった、という恨みつらみが根っこにある。韓国には「恨(ハン)」と言う言葉がある。Wikipediaに金大中の言葉として、以下。

韓国の文化は「恨」の文化です。私たちの民族は憂患と苦難の民族であり、「恨」は挫折を味わった民族の希望、「恨」は挫折を味わった民族の夢を実現するための準備なのだと思います。確かに私たちは、歴史のなかで「恨」とともに生きてきたことは事実です。…しかし、常に自分自身を慰め、励まし、その結果、未来に向かって生きていくことができた。私たちの民族は、畑の雑草のように、踏みつけられ、そして蘇る。 …韓国人は2000年間、文化的アイデンティティを捨てなかった。…韓国人は、大きな苦難に耐え、あらゆる方法で忍耐してきた。

挫折・忍耐を運命づけられているかのような韓国人・・・中国、日本、ロシア、アメリカ等々にしいたげられ、搾取されてきた歴史・・・日本人のように原爆落とされても「水に流して」アメリカに尻尾を振る訳にはいかない韓国人。アメリカに「解放」されるはずが、アメリカがソ連と敵対したために、解放されなかった。
そればかりか、解放しに来たはずのアメリカから「韓国はまだ日本(の一部)だ、韓国人は日本人だ」と思われていた。確かに韓国人は日本から独立しようと、国を挙げてずっと戦い続けたわけではないが、「まだ日本だ」と思われては浮かばれない。「恨の極み」と言ってよい。

「ニッポン日記」より 1946年11月6日、韓国で書かれた日記 以下抜粋:
(韓国で初めて行われた”民主選挙”について)多くの地方では誰が投票資格があるかを決定する権利はその土地の村長に委ねられた。数百の村では選挙は村長と選ばれた家長たちとの懇談の形で行われた。(村長は家長たちに『これから選挙をやります。私に投票してくれますか?』と聞いた。)何百と言う事例では、村長や郡長は投票しそうな人の所へあらかじめ召使いを派遣して投票用紙に押す印形(ハンコ)を借りてこさせ、これを押した投票用紙に役人が勝手に候補者の名前を記入した。選挙に関する適切な注意は与えられず、多くの場合投票日はその地方の役人が勝手に決定した。また、選挙の有効性について質問した人たちが不穏な言動があったという口実で投獄された例も数十件に上っている。在朝鮮アメリカ陸軍軍政部は公然と秘密投票を要望したに拘わらず、無数の文盲の投票者は親切な村長たちに書いてもらった。そして奇妙な一致だが、こういう村長たちの名前が当選者の中に見出された。軍政部は満十八歳以上の者は全て投票資格があると規定したに拘わらず、実際は家長だけが投票を許された。江原道では、選挙の施行は一切、李承晩の政党の手で行われ、官憲はこれに携わらなかった。当然、李の配下の三人が当選した。三人とも悪名高い対日協力者だ。
(略)あるアメリカ人によれば、在朝鮮アメリカ陸軍のトップ、ホッジ中将は米軍上陸1週間前に与えた政策に関する説明の中で「日本帝国の一部として朝鮮は我々の敵国だった。だから降伏条件に従わなくてはならない。わが軍艦は果して降伏条件が守られるかどうかを監視するために朝鮮に上陸する。」と言っている。彼はまた「少なくとも初期においては日本の行政機構を通じて工作する必要がある。そして、この期間中は我々は日本側の統治機関を朝鮮における合法政体といして認める」とも言った。また中将は「朝鮮人たちが自由と独立の希望をもつことは考え得るが、この点に関する連合国側の政策は中将の知る限りでは未だ形成されておらぬ」と言った。そういう訳で、中将は「朝鮮人に何も約束するな、ただ降伏条件に即時かつ進んで服従するようにさせろ」という命令を下した。(略)ともあれ、私に言わせれば、ホッジ中将は英国、中国、それに我が米国が、朝鮮は「解放され独立する」と約束したカイロ宣言を読んでいないことを示すものだ。このことがその後に続いたあらゆる混乱の基調をなしたのだ。我々は解放軍ではなかった。我々は占領するために、朝鮮人が降伏条件に服従するかどうかを監視するためにやってきたのだ。上陸第一日目から我々は朝鮮人の敵として行動した。

以下、李承晩についてWikipedia他から:
李承晩は日本からの独立をめざす運動家だったが、1911年アメリカに亡命した。日本降伏後、1945年10月に韓国に帰り、1948年に成立した憲法(大統領制ではなかった)を自分の都合のいい様に変え、同年8月15日付けで建国された大韓民国の初代大統領になった。その後も都合のいい様に改憲し、3選された。1960年選挙不正が追及されハワイに亡命した。李はソ連との戦争に備え、日本統治下の制度・仕組みを流用したいアメリカの威を借りて保守反動政治を行った。日本からの解放を夢見た韓国リベラル派にとっては、李は倒すべき敵であり、李の裏にいるアメリカも敵だし、李が温存しようとした日本統治下の制度も破壊すべきものだった。韓国リベラル派にとっては歴代の保守政権は全て打倒すべき敵であり、その保守政権時代に日本と取り交わされた条約なども破棄されるべき無効なものである。

「ニッポン日記」はネットで買おうと調べてもなかなか見つからない。見つかっても非常に高い。絶版になって久しい。俺はメルカリで1951年発行の下巻を980円で買った。茶色になった薄い紙の本。汚いと言えば汚いが、いかにも古本という風情で俺は好きだ。

閑話休題:
韓国憲法はその前文に、以下の2つの運動の精神の継承をうたっている。それによって韓国国民が考える2つの大敵は何か?が分かる。2つの運動とは:
①「3・1運動」・・・1919年に起こった日本からの独立運動
②「4・19民主理念」・・・1960年の大統領選で行われた李承晩の大規模な不正選挙に反発した学生や市民による民衆デモにより、当時、第四代韓国大統領の座にあった李承晩が下野するという事件が起きた。最も大規模なデモが発生した日が4月19日だった。
上記①②で韓国国民が戦った日本と李承晩が2つの大敵だ。

李承晩は、1948年大韓民国の初代大統領になったが、上述の通りアメリカによる占領時代からアメリカ占領軍の威を借り、アメリカ占領軍のご意向に沿って日本統治の制度・機構・人員をそのまま再利用・流用してソ連との戦争に備えた。これが日本からの独立・解放を夢見ていたリベラル派の反感を買い、それを押さえつけるために弾圧や不正選挙を繰り返し、アメリカも見て見ぬふりをした。これは同時期の日本と全く同じである。日本では軍国主義或いは天皇制、財閥などから解放されると夢見ていた
共産党、社会党・労働組合に代表されるリベラル派は背後にソ連や中国がいると思われ、押さえつけられるようになり、一時追放されていた戦前の軍人、政治家、経済人が復活し、自衛隊という明らかな違憲法違反である軍隊まで復活した。

「ニッポン日記」にも出てくる言葉だが”アメリカにとって中国においては毛沢東より蒋介石の方が、日本においては野坂参三より吉田茂の方が、韓国においては金日成より李承晩の方が、まだまし”ということだった。連合国が勝利する前、アメリカが描いていた敗戦国や植民地の解放・民主化の夢は冷戦のおかげで夢で終わった。
日韓を比較すると、日本の方が柔軟、融通無碍、つまり原則・ロゴス無視。原則・ロゴスより生き残ることを優先した吉田茂以下綿々と続く自民党がほとんど政権を独占してきた。その結果、アメリカの属国を続け、かつてのリベラルの成れの果てである野党は政権奪取する気力を失った。韓国はまだ原則・ロゴスにこだわるところがある。(というより「恨」というべきか?)訳の分からないリベラル・・・反米反日で、中国や北朝鮮に媚びるだけ・・・が政権を取る。リベラルと言うよりは、まだ大衆に残っている反日反米の「恨」に頼る政党というべきか?韓国には、極端な保守反動か、共産主義しかいないのか?中道は現れないのか?その点、日本では維新や国民民主といった中道改革派がいる。


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