いいマグカップ
マグカップを貰った。俺のマグカップの評価基準は2つ。
①持ちやすい事、或いは 手指になじむ事
これは実際に持ってみないと分からない。厳密に言うと、実際にカップにコーヒーなり水なりを注いで持ってみないとわからない。”取っ手”の太さと曲がりの問題なのだが、感覚の問題なのでこれ以上何とも言えない。自分でカップを買う時は一応、手に取って実際に使うときと同じように”取っ手”に指を通してちょっと振ったりして判断する。それで100%確かではないが、この時点で「持ちにくいなあ」と思うものはダメだ。
②色や絵柄
金色がうまく配色されていると買うことがある。”金持ちそうな”ヤツが好き。招き猫が好きだから猫柄もいい。色や柄がとっても気に入れば、(加えて安ければ、)気分次第で①の持ちやすさの基準は捨てて買ってしまうこともある。
※今回貰ったカップを早速使ってみたが、①②の評価基準とも俺のカップコレクションの中で上位に入る。
さて、これを書くに当たり、30年前に買っていまだに使い続けているカップを使ってみようと思って探したが見つからない。このカップは特に上記①の点でNo.1だ。しかも何十年も割れないで使い続けてる。そのお気に入りのカップが、どこかに行ってしまった。俺も今まで様々なものを無くしてきたが、カップは初めてだ。(実は、会社でコーヒーを飲むのに使っていたカップを給茶室に置き忘れ、多分掃除の人に片づけられたのだろう、そのまま出てこなかったという経験はある。ただし、これは無くした、というより「片づけられた」というべきだろう。)
カップは見当たらないが不思議なことにネガティブな感情は湧いてこない。むしろ、「とうとう俺はお気に入りのマグカップまでどこに置いたか分からなくなるようになった」と感慨深い。ものがものだけにそんな突拍子もないところには置きようがない、と思うが、心当たりを捜しても出てこない。こんなもの、家から持ち出す訳もない。井上陽水も言うように 🎵探す事を止めた時出てくる🎵 ことを期待してあまり熱心に探すのはやめておこう。まあ、いいカップを貰ったから要らなくなった、そろそろ新しいのに代える時だ、とも言えるが。
閑話休題;
会社の給茶室で無くしたカップはアメリカ時代の思い出の品だった。アメリカに行って日が浅かった頃、一緒に働いていたアメリカ人の若い女の子が休暇を取ってどこかに遊びに行って、帰って来た時にお土産でくれたもの。俺は出張帰りや休暇明けとかいう時にあまり土産を買わない。それをドライなアメリカ人が土産を買ってくるって、面白いなあ、と感じた。俺がいたのはヴァージニアで、「旧き良きアメリカ」がまだ残っていたのか。(南北戦争の南部だ)しゃべる言葉もニューヨークやカリフォルニアの奴らに”Southern accent”と言われる。これは「頭の回転が遅いから早くしゃべれない」というような、揶揄や見下したニュアンスがあるように思う。(例えば宮崎弁や鹿児島弁に対して東京や大阪の人が感じるのと似ているか?)一方でヴァージニアに住んでいる人は「ニューヨークやカリフォルニアはクレイジーだ。」と言う。南北分断、保守とリベラルの分断は抜きがたく残っている・・・俺は近いうちに第2次南北戦争が起きてアメリカは共和党の国と民主党の国に分かれると思っている。
そう言えば、ヴァージニアよりもっと南のミシシッピなまりは聞き取りにくかった。ヴァージニアより更に遅い。遅いのも聞き取りにくいものだ。
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