荒井前秘書官の差別発言

ささいと言えばささいなことだが、オフレコ発言で秘書官の首を飛ばすのはいかがか?という疑問がある。 

日刊ゲンダイ DIGITALによると:

荒井氏の発言を最初に報じた毎日新聞によると、オフレコとはいえ、<政策立案に関わる首相秘書官がこうした人権意識を持っていることは重大な問題だと判断>。<荒井氏に実名で報道する旨を事前に伝えたうえで、3日午後11時前に記事をニュースサイトに掲載した>としている。

だ、そうだ。ここでは「首相秘書官のように政策立案に関わっていなければ、こうした人権意識を持っていても報道されない」ということが確認される。首相秘書官ならぬわが身にとってはありがたいが、同じことを言っても思っても、報道されたりされなかったりするというのは差別ではないのか?

日本で最重要に近い職業である首相秘書官になろう、という若い人がいなくならないか?マスコミには少々のことには目をつぶって役人や政治家を「ほめて育ててもらいたい」と思う。そうしないと有為の若者、気の利いた若者は役人や政治家を目指さなくなる。ますますバカばっかりになってしまう…そうは言っても、この記事をアップした毎日の記者はご満悦だろう。記者でもユーチューバーでも同じ。受ければいい、売れればいい、それでおまんま食っているんだから…その上首相秘書官の首を取ったんだから。ボーナス出るかな?インフルエンサーだ…いつもの決まり文句が口をつく…「世も末だ」…毎日の記者さん、どうか、政治家や役人と言う職業を憧れの職業にすべく影響力を行使してください。碌な人材が政治家や役人になっていないのは分かります。それは毎日その他の皆さんが何十年間にわたって役人や政治家を連日、馬鹿だ馬鹿だ、と報じてきたから。毎日の記者より首相秘書官の方が大事な職業で、LGBTの皆さんの人権を守るのに影響力が大きい、と考えているからあえてオフレコ発言を公表したんでしょ????…これってやっぱり職業に対する差別???

一番気になったのは「差別とは何か?」である。ネットを当たると一般的には「違いを理由にして不当に扱う」ことらしい。さすれば「不当」とは何か?という疑問にぶち当たるが、「不当」の定義については別に「不当」を検索する必要があるらしい。タイパを無視する俺でも面倒だ。(若者は差別→不当…というように芋づる式に知識を広めたり深めたりすることはしないんだろうなあ。もったいない感じ。俺自身は芋づる式を楽しみ、多くの時間を費やし、知識や経験を広め、深めてきた。このタイパを無視した無駄な道楽の積み重ねが「教養」だと思う。)

差別の定義に関しては鈴木二郎さんという社会学者による日本大百科全書(ニッポニカ)「差別」の解説が理屈ぽくって面白いので以下。

人間は生まれながら心身両面にわたってきわめて大きな可能性を潜在的にもっており、この可能性を自ら伸ばそうとするのは、人間の本性である。こうした可能性を実態化することによって、より有利な条件を獲得しようとする個人または集団の行為を、その個人または集団に付随する特性、または架空につくられた特性に基づいて他者が阻止する行為、これが差別である。

(中略)

今日、差別解消の潮流はすでに逆流しえない状況になっている。しかし、制度上の改善の効果は不十分ながらあげられているが、私人間の差別解消の歩みはそれよりもはるかに遅れている。いまはまだ問題の全面的解決の見通しをたてることはできない。

さて、LGBTは嫌だ、嫌いだ、と思うことは差別か?鈴木二郎さんによれば、好き嫌いだけでは差別にならない。好き嫌いに基づいて他人の可能性を潰すことが差別。荒井前秘書官も「俺はLGBTは嫌だけど、大人だし、政策のプロだから政策立案には反映させないよ」とでも付言しておけばよかったのか?俺の知る限り、会社その他の組織で出世するか否かは人事権を持つ人に好かれるかどうかで決まる。好き嫌いで昇格させたり降格させたりするのは差別。もっともらしい理由があればそれで許されているが。ただし、俺は人事って好き嫌いとか縁だと思う。つまり俺は差別論者だ。

俺は何々人は…とか○○教徒は…などという差別”的”発言大好き。ただし、政策秘書官ならぬわが身では影響力も実行力もないから、何々人とか○○教徒の可能性を潰すことが出来ないので差別ではない。差別的と差別の違いが分かったので少しスッキリした。俺は道を歩いていて男女の別が分かりにくい人を見かけるたびに上さんに「あれは男か、女か、はたまた元男(元女)か?LGBTか?」と尋ねるし、その人をもっと観察して”真実”を確かめようと凝視する。(夫婦の会話の何分の一かはこれとTVを見ていて「あいつの名前はなんだったけ?」だ。)性別に疑問を感じることは差別ではないが、凝視は差別となる可能性があるネ。その人が俺に凝視されていることに気づけばその人の可能性に影響を与えるかもしれないから。仮にLGBTだったとしてLGBTをやめようなんて思わせたら明らかに差別だ。一方で俺に凝視されることでますます意地になってLGBTの道に励むかもしれないが、その場合は差別ではないかな?

閑話休題:

鈴木二郎さんについて一番興味深いのは彼は差別論者か差別反対論者なのか?ということである。一見差別解消問題の全面解決を望んでいるように装っているが、本当は差別論者ではないか?俺と同じく「差別なんてなくならねえさ」「ここまでは差別じゃあない、という線を引こう」などと思っていないか?もって回った屁理屈がそんなことを思わせる。「(差別解消という)問題解決の見通しを立てることはできない」というくだりをどう読むか?「問題解決なんてできるわけねえや」「問題解決しようなんて無駄だ」と受け取ることも出来ないか。

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