養老孟司さん:数値だけで判断するのは危険(東洋経済オンライン)

 デジタルネイティブな若者が職業その他さまざまなものを選ぶのは、ネットなどの情報源から得られる”数値”に偏りすぎてないか?彼らの世代は一番上でもまだ40歳そこそこ。彼らが老後や人生の終幕を迎えた時、若い時の自身の選択についてどんな思いを抱くのだろうか?

養老さんが「バカの壁」を出したのが2003年。体や心の声を聞かずに数値を偏重する現代人に警告を出して20年…日本人はますます「バカ」になってる。どうしたらこれを止められるのか分からない。

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東洋経済オンラインより以下。

養老孟司「健康診断に一喜一憂する人がはまる罠」 数値だけで判断して身体の声を聞かないのは危険

養老流のものの見方、考え方とは?(撮影:今井康一)
養老流のものの見方、考え方とは?(撮影:今井康一)© 東洋経済オンライン
ものがわかるとは、理解するとはどのような状態のことを指すのでしょうか。解剖学者の養老孟司さんは子供の頃から「考えること」について意識的で、1つのことについてずっと考える癖があったことで、次第に物事を考え理解する力を身につけてきたそうです。自然や解剖の世界に触れ学んだこと、ものの見方や考え方について、脳と心の関係、意識の捉え方について解説した『ものがわかるということ』から一部抜粋、再構成してお届けします。

脳化社会は違うことを嫌う

意識が幅を効かせる脳化社会は、違うことを嫌います。日常は違いに満ちていますが、意識に振り回されると日常が脇へ追いやられる。意識は「同じ」しか扱えないからです。

【写真】「大学合格者に卒業証書を渡せ」と指摘する養老孟司さんの真意450979

同じの最たるものは数字でしょう。物事を数字にすればするほど、世界はどんどん単純化する。人間も数字にしたほうが便利です。番号ひとつあれば、本人は必要ありません。

数年前、銀行に行って手続きをしようとしたら、本人確認の書類提出を求められたことがありました。私は運転免許を持っていないし、病院に来たわけじゃないから健康保険証も持っていませんでした。そうしたらその銀行員が「困りましたね。わかってるんですけどね」と言う。よく行く地元の銀行ですから、その人も私本人だとわかっているんです。ここにいるのは間違いなく養老孟司なのに、なぜ養老孟司と認識されないのか。いったい「本人」って何でしょうか。

それから数年して答が出ました。本人は、いまや「ノイズ」です。本人の情報さえあればいいんです。本人確認の書類をロボットが持ってきたらどうするのか。たぶん、それでもいいんでしょう。生身の顔色や機嫌、声、匂いなど、すべてが感覚所与、つまりノイズなのです。

医療現場でも、肉体を持った患者さんがどこかに行ってしまって、検査の結果だけが事実になってしまった。正常値から外れた数値を、正常値に戻すことだけが医者の仕事になっている。その仕事が、その患者さんとどのくらい関係があるのかというと、実はもうほとんど関係ないわけです。

私は東大の医学部にいたので、患者さんを紹介することがありました。治療が終わった患者さんが、お礼を言いに来る。そこで何を言うかというと、「担当の先生は、顔も見ないんです。カルテを見て、パソコンを見ているだけで、手も触らない」。まさに「統計」だけが「事実」で、本人がいなくなっているのです。

会社で同じ部屋で働いているのに、上司や同僚にメールを送り付けるのも、ノイズを排除したいからです。人間もコンピュータに近づいてしまっているから、ノイズが入っていると処理しきれない。だから生身の人間とつき合うのが苦手になっていく。結婚しない人が増えているのも当たり前で、結婚はノイズと生涯を共にするようなものです。少子化も同じ理由です。子供はノイズそのものですから。これが現代の脳化社会、情報化社会の実情です。

身体の声を聞くために必要なこと

統計的データは、あくまで判断材料の1つです。今後、医療システムの中にAI(人工知能)が本格的に入ってくるはずですが、事情は変わりません。もしも最終的な判断をAIに預けるような医者が出てきたら、どうしようもありません。

身体がある状態を示す要因は複合的です。健康診断や人間ドックで、まったく異常が見つからなかったのに、突然倒れてしまうことがあります。

血圧とか血液検査の数値とか、身体の状態から情報化されるのはほんの一部です。だから、予想外の病気が見つかることがあります。私のような胸の激痛がまったく出ない心筋梗塞もその1つでしょう。

数値に目を奪われていると、健康のためにはそれだけが重要なことのように思われてきます。健康診断に一喜一憂する人は、この罠にはまっているといえます。

では医療における統計を否定すればよいのかというと、そんなことは不可能です。しかし統計データだけを判断材料にするのも危険です。

たとえば自分の身体の異変に気づいて、がんかもしれないと思ったとき、インターネットで検査して、「10万人に1人」という数字が出てきたとします。確率が低いので、「これは違うな」と思うかもしれません。身体よりも数値を優先させる。これは本末転倒です。

大事なのは身体の声を聞くことです。私がさんざん悩んだ末に病院に行くことにしたのは、体調が悪くてどうしようもなかったからです。病院に行く前三日間は眠くて眠くて、ほとんど寝てばかりいました。それが身体の声だったのでしょう。

ただ、身体の声が聞こえるようにするには、自分が「まっさら」でなければなりません。私は花粉症がありますが、症状がひどくても、これまで薬は飲まないようにしてきました。薬で症状を抑えてしまうと、身体の声が聞こえなくなるのではないかと思うからです。

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