「ゆるい職場」を読む
ゆるい職場 若者の不安の知られざる理由 「働きやすい会社」をなぜ若者は辞めてしまうのか?(中公新書クラレ)リクルートワークス研究所主任研究員 古屋星斗 著 を読んだ。
まず、著者の所属するリクルート…を見て「リクルート商法」と直感した。リクルート商法とは、まず「これからの時代はAですよ~」とAを勧め、数年たつと「Aでは不足ですよ~」とBを勧め…というやり口。この本で言えば数年前に「これからは心理的安全性ですよ~」と言ってゆるい職場を勧め、今度は「ゆるい職場では若者は辞めていきますよ~」だ。売れるキャッチフレーズで客をひっかけて…が半分。それに乗っかってくる客の役に立てれば…が半分といったところか。リクルートやコンサルと言われる商売の皆さんはそうしないと、おまんまの食い上げ。そうは思ったが「若手が辞めていく」という後輩の悩みを聞いてモヤモヤしていたので読んでみようと思った次第。
読んでみてやっぱりリクルート商法満載だったが、いくつか感じたこと・刺激を受けたことがあったので以下。
若者の育成&引きとめ法:Z世代向けの斬新なものではなく、俺も現役の管理職の時(平成時代)、心掛けていたことと同じことが紹介されていた。
①
部下に修羅場を経験させ、苦しんでも助けない
新人だけでやる研修店舗が紹介されているが、新人だけでなんとかしろ、自分の頭で対処法を考えろ、と突き放されるのは、マニュアルがないと何にもできないZ世代にとって正しく修羅場。これをクリアできたという経験をすれば成長を感じる。俺たちの世代は半導体、IT、グローバリゼーション、M&Aなど、それまでの知見がまるで役に立たないことが次から次に起きて転職せずともそれに対応させられた。上司も先輩も経験したことがないから指導のしようもなく、口出しもできない。そこで若い者が、のたうち回ってなんとか修羅場をクリアする…一皮むけたと感じた。
② 上司は偉そうに上司風を吹かさず、少し経験知が大きい先輩としてアドバイスしろ(一つの参考として意見を述べろ)
俺は自分の上司が、俺の作った決裁書類に盲判を押し、時々個々の案件の話を離れ、自分たちの部署の存在理由について規則には書いてない本当のこと・裏事情を語ったり、若い時の経験談(ご立派な成功体験より失敗談が多かった)をしたり、自分の管理職としての職責について語ったりするのを聞かされた。正解のあるようなテーマではなく、その人の人となり、思想、哲学を聞くことだった。そしてそういう上司を敬愛するようになった。俺もそういう上司の真似をしたつもり*。あとから考えてみると、馬鹿ばっかりの会社に、数少ないがそういう尊敬できる上司がおり、俺の与太話に付き合ってくれる同僚・後輩がいた、ということが俺に会社を辞めさせなかった。
*これは、「俺、会社辞めます」と部下から切り出されてからでは遅い。日ごろからタイミングを見て話しておく。そうしとけば部下から相談しやすくなる。
本を読んで感じた(読んでも解決できない)疑問:
①
Z世代の若者たちは「転職しなくてはならない。転職していくつかの会社・仕事を経験する、それがキャリアでキャリアを自分の意志・計画で積んでいかなくてはならない」という強迫観念に取り付かれているように見える。なぜか?分からない。キャリアを積むことが自己目的化してないか?キャリアを積んだって幸福にもなれないし、満足も得られないように思う。働くことは①人に役に立っていると感じ②働き相応の心理的・経済的報酬を得ることが目的ではないか?キャリアや転職では①も②も得られない。ただし、俺自身も平成になってバブルが弾け、管理職になってから①も②も全く感じなくなった。俺を駆り立てていたのは「馬鹿なことをする会社から部下を守らなくっちゃ」という思いだけ。転職は思いもよらなかったが幸せも満足も感じられないまま燃え尽きた。Z世代の若者は①も②も与えてくる会社はめったにない、と知っていて、少しでも①とか②を得られそうな会社を探して転職するのか?俺に言わせれば①とか②を与えてくれるのは海外の会社か日本国内ならNPOみたいな組織かまたは起業したての会社か?既存の会社では①とか②を与えることが出来なくなっているように思う。
② 「自律なき自由」という言葉に引っかかった。日本における「自由」はキリスト教徒の「自由」の輸入だが、キリスト教徒の「本場の自由」に比べると日本人の自由は所詮「自律なき自由」だ。キリスト教徒はカトリックなら神様が、プロテスタントなら聖書が「やってはいけない」としていること以外なら何をしても自由。その代り失敗しても自己責任で誰も助けてくれない。ところがその失敗者が再び立ち上がろうとすると拍手喝采し、応援する。それが自律ある自由。日本人の自由はしてはならないことがない自由。そして失敗すると親や上司や親戚や…が出て来て助けてくれる。失敗したら助けてもらえることを前提とした自由。ただし、失敗者は烙印を押されて這い上がるのが難しい。つまり、自律なき自由。自由大いに結構だが自律なき自由が日本人にはお似合い。これをキリスト教流の自由にしようなどと考えると戦後民主主義と同じでおかしな代物になる。調子に乗って転職を繰り返すと転職=失敗と受け取られて烙印推される心配はないのか?
最後にどこで(誰が)若手を育成するのか?について。俺は学校か職業訓練所で専門家を育成するという形がいいと思う。ただし、会社の外で専門家を育成するには大前提(大変化)が必要。それは「業務上発生したトラブルの解決責任の所在を明確にすること」。もっと言えば「専門家は与えられたマニュアルを守ってさえいれば、業務遂行上発生したトラブルに対しては免責で、トラブル解決は別の人(上位者/経営者)の責任」としないと会社の外では専門家を訓練・育成できない。逆に言えば現在、入社後その会社にカスタマイズされた専門家を育成しなくてはならないのはこの「問題解決責任」まで専門家に押付けようとするから…関係者がよし、と言うまでが専門家の責任だ、となるとその会社に入ったあとOJTで教育するしかない。コンビニで何を言い出すか分からない客のご機嫌を取るのは店員の責任…これでは店員の訓練・育成は完全にはできない。店員は客にこっぴどく叱られたり土下座させられたりしてそれでも客に許されないリスクを負わされている。マニュアル通り顧客対応して客が怒ったらボタンを押して店長を呼び出す。店長は責任をもって怒った客のご機嫌を取る。(店長はそのために24時間待機する。その代り店員より高い報酬を得る)…これならコンビニ実務に携わっていない学校や訓練所で店員業務の普遍的・共通マニュアルを作ってそれに基づく店員の教育訓練育成が可能。
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