差別と規範
立川談志「あなたも落語家になれる」(三一書房、1985年)より:
”落語家*というのは卑しい稼業である”という世の中の不文律があり、役者のことを河原乞食といったように、落語家はそれ以上に卑しいものと考えられていたわけで、それが証拠に、”人に笑われる”という、もっとも世の中の人の忌み嫌うことを平気でやる稼業ということであった。(略)もっとわかりやすくいうと、私たちの入門時代の落語家は、”人間”ではなかったのだ。人間の枠をはずされた者が落語家だったわけで、人間の世界から放り出されたのである。落語家になると同時に人間ではなくなったのである。そのかわり、朝から酒を飲んでいようが、昼間から吉原に入り浸ろうが、女房を何度替えようが、誰からも文句は言われなかった。人間じゃないんだから人間の道徳的な規範で律することができなかったのである。
これは差別か?百歩譲って差別として、本人が好きで差別されてもいいから笑われたい、落語家になりたい、と考えていたらそれを止めるべきか?道徳的規範が嫌な人には、むしろ、この差別は嬉しく有難いのでないか?
確か会田雄次さんだと思ったが、イギリス軍の捕虜になった時の経験談で「イギリス人は日本人捕虜を人間と思っていない。だからイギリス人女性は日本人捕虜に裸を見られても恥ずかしがらない」と語っている。これは差別だ。ただし、日本の兵隊は、勝つためでなく、死ぬことを目的として戦っているように思われる行動を取ったりしたから、イギリス人には、日本人を同じ人間と考えるのは難しかった、という面はあったろう。日本兵の行動は「人間なら死ぬために戦うなどということはしない。神様は自殺など許さない。」というイギリス人の規範から致命的に外れていた。生き死にに関することだから、落語家に対する差別よりもっと強烈・深刻だ。(そしてこの差別意識はいまだに根強く生き残っている、と思う。)
俺は、かつての日興証券、いまのSMBC日興証券と取引があるので同社から金取法違反を起こしたことに対する謝罪と、今後は気をつけます、といった紋切り型の手紙が送られてきた。俺は「証券会社とは人を騙すのが商売」だと思っているから別に謝罪の手紙なんて要らない。「殊勝なこと言ったって、どうせ人を騙すこたぁやめられねぇ。どうせ悪さするならバレちゃあいけねえよ。」と思っている。これも差別かねぇ。つまり証券会社の社員に人間の道徳的規範を求めない。証券会社の口車には絶対乗らず、売買したいときに売買したい株を売り買いするだけのために証券会社と付き合う、と頑なに思っている。証券会社の経営者だって社員を信じていない。送られてきた手紙にも「どうせまたぞろ悪いことをする社員ばかりですからそのつもりで取り締まります」ってなことが書いてある。(この手紙で元監査役である俺にとって一番強い印象を与えたのは「監査を受け入れる風土の醸成」というくだり。つまり、日興証券社員は「人から見とがめられることを拒否し、悪行がバレても知らんぷりする」ということだ。さもありなん。正直で大変よろしい。)1980年代前半までは俺の身の回りで、証券会社に入った知り合いが、客を騙したのがバレて首になったとか、人を騙すのが嫌になったから辞める、といったことが起こっていた。
役者・お笑い芸人・スポーツ選手・証券会社社員・ホスト・ホステス・・・これらは人間としての道徳的規範の埒外にいる、だから差別されるが一方で道徳的規範に縛られない・・・じゃあまずいのか?こんな連中とは付き合わなくても済むんだから付き合わないで一生を終えればよい。どうしても付き合いたい、付き合わざるを得ないなら道徳的規範など期待せず、最悪ひどい目に合うこと、騙されることを覚悟の上で付き合う。そして運が良ければ道徳的規範に縛られた常人では与えてくれないスリル・感動・笑い・楽しさ・金儲け・快感・・・を味わわせてもらえる。それじゃあまずいのか?
道徳的規範を守らない、守れない連中が存在すること(つまり差別)が許されなくなったのはせいぜい、ここ数十年のこと。道徳的規範を守らない連中の存在を許し、その代わり差別していた時代には、差別される側に不幸・不満があったろうが、差別される側の人間の数は少なかった。「差別はいけない」となり、人間が社会を作って以来、数千年にわたって続けてきた差別を無理やりやめようと試み始めた途端、差別する側の不幸・不満が増大した。一方で差別される側の不幸・不満は大して減っていないようだ。差別をやめた後の方が不幸・不満の総量が増えていないか?特に差別する側・される側とも息苦しさがべらぼうに増えていないか?
*道徳的規範を外れた人間以下の人間のことを「家」をつけて「落語家」と呼ぶのは抵抗がある。もっとふさわしい蔑称はないのか?落語屋???
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