戦前日本の曲がり角

 1910年前後、つまり1905年日露戦争に勝って「坂の上の雲」にたどり着いてから第1次世界大戦中の1917年までが戦前日本のピークであり、1918年のシベリア出兵以降、坂の下に転がり落ちたと思う。

歴代の総理大臣リスト(末尾に掲載)を振り返ると、まず第1の変換点は1901年の西園寺公望の就任である。それまでの総理大臣は、明治維新に参画した人たちで後に”元老”と呼ばれるようになる。1849年生まれの西園寺は明治維新の時には少年だった。次の総理大臣は1848年生まれの桂太郎だがこれも同様。彼ら以降、日本の政治は元老とその干渉を嫌がる苦労知らずで夜郎自大な2代目世代の総理大臣との相克だったとも言える。

明治維新に参画した元老たちは段々いなくなり、1909年伊藤博文の死後、大隈重信と山縣有朋の二人だけになった*。1914年の第1次世界大戦勃発の頃から、この二人も力を失った。やり手がいなくてやむなく総理大臣になった大隈重信内閣の外相だった加藤高明は第1次世界大戦参戦に慎重だった元老を無視し独断で参戦を決め、次の総理大臣、寺内正毅はシベリア出兵に慎重だった元老を押し切ってシベリア出兵した。シベリア出兵は、第1次世界大戦中の1918年に起こったロシア共産革命の拡散を押さえつけるのが目的だったが、日本はいつまでも撤兵せず、傀儡政権を作り領地を奪おうとして各国の顰蹙を買い、失敗に終わった。1923年ワシントン軍縮条約発効と同時に日英同盟は失効。米英は日本に対する警戒・不信感を募らせた。

日本国民は何の見返りもなく、米価格高騰の一因となったシベリア出兵を非難し、軍人を嫌い馬鹿にするようになった。大戦後の世界的な軍縮ムードの高まりもあって陸海軍を志望する若者が激減した。このことが軍の若手の質・レベルを落とすと同時に入隊した若者への迎合、しつけ不足を招き、5.15事件や2.26事件といった若手将校の暴走の原因となった、というのが俺の考え…100年後の今も、役人や政治家は馬鹿にされ、非難されるばかりでなり手がいない…このままでは日本の将来は危うい。

*松方正義は元老と呼ばれ日清・日露戦争の資金調達には大きな功績があり、1924年まで生きたが政治力がなく山縣に比べ発言力が弱かった。また、西園寺は昭和になって、”元老”と呼ばれた。

閑話休題:

大隈重信が1922年1月10日に死んだ直後の2月1日、山縣有朋も死亡。これで「日本は植民地になってしまう」と現実に目覚め、危機感から明治維新を進めた元老は実質上いなくなった。それからは現実を見ず、危機感、苦労を知らない夜郎自大な世代が日本を牛耳るようになった。

以下は1924年までの歴代総理大臣リスト。1921年には原敬が暗殺され、上述の通り1922年には最後の元老が死に、1923年関東大震災が発生し、年末には皇太子(後の昭和天皇)の暗殺未遂事件(虎ノ門事件)が起こり、1925年には、治安維持法と普通選挙法が制定される。大正末期から昭和初期にかけて日本はタガが緩み、既存の道徳・体制の破壊、自由を求める風潮が強まり、1929年には恐慌が起こっても政争に明け暮れる無力な政治家・官僚に絶望した日本国民は一時馬鹿にし嫌っていた軍人に身をゆだねる…





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