芸論

 大佛次郎「落語」(1970年)より:

(前略)この世界にもいつか、古典と名のつくものと新作のと段々と分かれてきた。しかし、新作で落語らしく格が正しく趣のあるものは、まだすくなく、やはり古典と言われるものに、繰り返していつ聞いても面白いものが多いのは当然であろう。それにこれは文字で読んでも落語ではないので、語られるのを聞くのが本筋なのだが、古い落語が、ひとつ話が幾度でもくりかえされて人を倦かしめないのは、やはり古くからの優れたはなし家が残っていて洗練されたその芸を聞くことができるからである。話の筋を聞くのでなく芸が物を言うのだ。

(中略)幾度も前に聞いた話でも、上手な人間が淡々と語っているのを聞いていると、馬鹿笑いなどなく、しんと静かな心持になってその間に自然の笑いがさざなみのように誘い出され、やがてそれが大きな浪のうねりに高まって崩れるような笑いとなる。こういうのが、ほんとうの落語の芸だし、笑いであろう。(ほんとうの人間の笑いは涙と紙一重ののものように思われる。)つまりはなし家は、同じ話を、ちょうど大切な家具や愛好する小さい品物に日毎につや布巾をかけて、ていねいに扱っているように話を可愛がって光沢を出しているので、当て気味なく淡々と話していても、渋い中から何とも言えぬ微笑を誘い出され、それが極まると心からの大きな笑いとなる。

(中略)どの分野でも、芸と言うものを人が最初からあきらめる時代が来たようである。芸と言うのは年期を入れ、積み上げて身につけるものだ。急ぐ現代の人たちはそれを待っていない。辛抱して待つのは損と見て、すべての短期決戦を急ぐ。だから素人芸のようになまはんかなものでも出たと思うと、すぐ消えて行く。浅いから倦きられるわけである。それを前座で十年、二十年も師匠の羽織をたたんで苦労して、すこしずつ身につけたものが積もって来て磨きがかかると、余計なものが落ちてしまって、生地のままの光沢が出てくる。あの男の話なら幾度でも繰り返して聞こうと人気と信頼が集まってくる。

(中略)世界中でフランスか日本でないと、これまでに洗練された話の芸術を作り出せなかったろうと思う。フランスでは巷の唄、シャンソンだが、日本のは素ばなしで、人間の愚痴をめんめんと人に語って聞かせるのである。今やさかんなようで、ほんものは粗悪なものの下積みとなって亡びようとしている。小さいながら世界に類を見ない優れた芸術だったと、今からでも言っておきたい。(後略)

俺の読後感:

”芸”とは何か?上の文章に二つのヒントがある。①幾度繰り返して聞いても(話の筋が分かっていても)面白いのが芸。②落語を文字で読むのは本筋ではない。語られるのを聞くのが本筋。(落語は読むものではなく、見て聞いて楽しむもの)

以下、落語に例を引いて芸を考えてみる…落語に限らず、音楽でも演芸でも全く同じ。

落語は師匠に教えてもらう。同時に先輩後輩、仲間、ライバルがいてこれらを横目で見ながらどの芸を見習うのか、盗むのか、はたまた反面教師にするのか本人が選んで決める。どう頑張っても俺にはマネできねえ、という芸もあるだろう。そういった物を捨て、結局「俺にはこれしかできねえ。これ一本で行こう」という選択をする。この選択された芸が好きということは、その選択をした芸人が好きということ。好きな芸人の芸なら、繰り返し聞いても飽きない。

落語には約束事がある。寄席で三味線鉦太鼓と共に演者が出てきて座布団に座ってお辞儀の一つもして…こういった様式の中でどんな所作をするのか?どんなリズム、テンポ、声色、声の大きさ、発音…でしゃべるのか?鍛えて身につけてきたものをベースに、その時の体調・気分、客の反応、雰囲気などでマイナーチェンジを施す。その結果が芸となって現れる。生のパフォーマンスを聞き書き(文字起こし)してもこれらの要素を100%再現できない…ただし、その時その場のパフォーマンスを彷彿とさせるものを含む聞き書きならば、なにがしかの芸を含んでいる。落語家の所作、声の出し方しゃべり方、マイナーチェンジ、これらはその落語家の生まれたままの生地(体質・気質・経験の積み重ね)+修行・経験から生み出される。これが好きということは、表出された芸そのものより、その芸を生み出した「芸人の生まれたままの生地+それまでの修行・経験」を好んでいる、ということ。好きな芸人の芸なら、何回聞いても笑える。

長い間文字がなく、もともと文字で記録することが苦手で嫌いだった日本人について料理・刀鍛冶を例に論じる…火加減・火の通り具合は外観や音、その他五感を駆使して感知しコントロールする。自分(の感覚)以外の第三者的・客観的な道具である温度計や時計を使って温度を検知し、加熱時間を管理するのではない。文字で記録しようとすれば五感(定性的)でなく、温度計や時計といった第三者的・客観的な道具で定量的に記録する方がふさわしい。そうすれば、普遍的な科学技術になり、いつ誰がやっても同じ結果が得られるようになって経済・工業・軍備などに強みを発揮する。

最後に:1970年当時すでに芸を身につけるのは無理だ、落語は滅びるとされていた。だがしかし、芸も落語も生き残っている。だがしかし、コンプライアンスやポリティカルコレクトネスやダイバーシティーなどという”話の筋”にばっかり細かく神経を使わせるものがはびこり、芸を真綿で首を締めるように殺している。結果芸の軽視につながり、つまらない芸がはびこっている。

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