夏目漱石の日記より
明治45年(1912年)、7月30日に明治天皇が崩御される前の日記を読む。そもそも漱石を読むのは日本人論研究の一環。まず、漢文・漢詩をよくした漱石の教養、言い回しが好き。そして今にも通じる日本人批判。だけどそんな馬鹿でダメな日本人をどうしたら変えられるのか、絶望的に分からない。変えられないから居直ってそのまま行くしかないのかなあ?以下、引用。
6月10日の皇族や政府の要人が能を見る会でのできごととその感想:
前略…皇后陛下・皇太子殿下喫烟(きつえん)せらる。しかして我らは禁烟(きんえん)也。これは陛下・殿下の方で我ら臣民に対して遠慮ありて然るべし。もし自身喫烟を差支えなしと思わば臣民にも同等の自由を許さるべし。何人か烟草(たばこ)を烟管(きせる)に詰めて奉(たまわ)ったり、火を着けて差上げるは見ていても片腹痛き事なり。死人か片輪にあらざればこんな事を人に頼むものあるべからず。煙烟に火をつけ、烟管に詰める事が健康の人にとってどれほどの労力なりや。かかる愚なる事に人を使う所を臣民(しんみん)の見ている前で憚(はばか)らずせらるるは見苦しき事なり。帝国の臣民、陛下・殿下を口にすれば馬鹿丁寧な言葉さえ用いれば済むと思えり。真の敬愛の意に至ってはかえって解せざるに似たり。言葉さえぞんざいならすぐ不敬事件に問うたところで本当の不敬罪人はどうする考にや。これも馬鹿気た沙汰也。皇室は神の集合にあらず。近づきやすく親しみやすくして我らの同情に訴えて敬愛の念を得らるべし。それが一番堅固なる方法也。それが一番長持のする方法也。
7月20日
晩、天子重患の号外を手にす。尿毒症の由にて昏睡状態の旨報ぜらる。川開きの催し差留められたり。天子いまだ崩ぜず。川開きを禁ずるの必要なし。細民これがために困るもの多からん。当局者の没常識驚くべし。演劇その他の興行も停止とか停止せぬとかにて騒ぐ有様也。天子の病は万臣(ばんしん)の同情に価す。しかれども万民の営業直接天子の病気に害を与えざる限りは進行して然るべし。当局これに対して干渉がましき事をなすべきにあらず。もしそれ臣民衷心より遠慮の意あらば営業を勝手に停止するも随意たるは論を待たず。然らずして当局の権を恐れ、野次馬の高声を恐れて、当然の営業を休むとせば表向きは如何にも皇室に対して礼篤く情深きに似たれどもその実は皇室を恨んで不平を内に蓄(たくわ)うるに異ならず。恐るべき結果を生み出す原因を冥々の裡(めいめいのうち)に醸(かも)すと一般也。(突飛なる騒ぎ方ならぬ以上は平然として臣民も之を為すべし、当局も平然としてこれを捨て置くべし。)新聞紙を見れば彼ら異口同音に曰く、都下闃寂(げきせき)火の消えたるが如しと。妄りに狼狽して無理に火を消して置きながら自然の勢いで火の消えたるが如しと吹聴す。天子の徳を頌(しょう)する所以(ゆえん)にあらず。かえってその徳を傷つくる仕業(しわざ)也。
”個人主義者”の漱石の面目躍如の論。1890年、天皇を神格化してしまう結果となる教育場勅語が出される。この「勅語」というのが「統帥権」と同じで天皇陛下のお言葉だからあらゆる法律・常識・信仰・規範を越えて日本人が従わなくてはいけないものになって独り歩きし、学校に配られたその謄本に最敬礼しないと不敬と言われた。これが「当局の権を恐れ、野次馬の高声を恐れ」る事態を招き、天皇の威を借りて軍部が日本を乗っ取り、この日記の書かれた20年後には中国との戦争に突入することになり、敗戦という「恐るべき結果」を生み出す。ただ、マッカーサー様のご配慮もあって、天皇は貶められず、「象徴」となった。そのおかげで戦後も「冥々の裡(めいめいのうち)」に「馬鹿気た沙汰」=ごっこ が続いている。
明治天皇1852年生まれ、皇后1849年生まれ、皇太子1879年生まれ。1867年生まれの漱石にとっては明治天皇一家は神様ではなく、徳川幕府から政権を奪った薩長から政権を与えられた人間だったろうと思われる。これが1880年代生まれの東条英機、阿南惟幾、山本五十六、永野修身、南雲忠一といった正統派にして大東亜戦争を指導した軍人にとっては神様ではなかったのか?その点、昭和天皇の意を体して終戦工作をした鈴木貫太郎首相は1868年生まれ。貫太郎も漱石同様、天皇を人間として見ることができたのではないか?お上から言われなくても天皇が尊敬できる人なら尊敬する…そして貫太郎は戦争の環境下、昭和天皇のことを人間として尊敬していたのではないか?
当局の権を恐れる=忖度、空気を読む
野次馬の高声=炎上 と考えれば今の日本と全く一般(同じ)。
妄りに狼狽するメディアも今の日本(というか全世界のメディア)と同じ。そうでないと売れない。バズらない。
皇室に限らず人間関係や組織は「近づきやすく親しみやすくして我らの同情に訴えて敬愛の念を得る」のが堅固で一番長持する方法かな?この”方法”は民主主義とも似ているが、ポピュリズムでもある。
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