東電の元役員に対する株主代表訴訟判決:不快感
家人が「13兆円なんて払えるわけないじゃん。どうすんの?」と言う。俺は「控訴するだろうね。最近こういうおかしな判決を出す裁判官が増えた。」と答える。原告側が大喜びではしゃいでいるのが不快。例によってWikipediaで株主代表訴訟を調べると、1993年、2003年2回にわたって訴訟をしやすくするように商法を変えている。(ほんとに日本がおかしくなった元凶は、1990年~2010年に発生している…俺たち世代の責任…しかし真っ向から反対してもダメだったろうなあ…反対すべきかどうか迷ってるうちに…)株主代表訴訟は本来は、悪いことした責任者の責任追及を通じて会社の経営の健全化を図るという美しい目的があるのだが、悪意の訴訟ってのがあって、それは、会社を潰そう、とか、被告たちに対する個人的恨みを晴らそう、言うことを聞かない会社に言うことを聞かせるために会社を脅かそうというもの。今回の原告は判決が読み上げられる間に拍手したとか。単に東電及びその元経営者を満天下のさらし者にし、貶めようという目的で訴訟したとしか思えない。家人の言う通り東電は13兆円もらえるわけもなし、むしろ、社員は今回の判決で「あんな悪い奴らが経営していた会社」という汚名・不名誉を再び思い出すだけだろう。
是非原告に聞きたい。東電のためによかれ、と思って訴訟したのか?と。
福島原発事故の後、東電に知り合いができて彼らの一人は「東電の社員であることが誇りだったのが、あの日以来、恥になった。」と。そういう社員を慰め励ましてこそ東電は良くなるのではないか?
会社には法務部門(法務担当)ってのがあって、1990年代後半から株主代表訴訟の訴訟ハードルが下がったことを奇貨として、経営者を脅していた。「下手な妥協をすると会社の利益に反した、と株主代表訴訟されますよ~」と。俺の業務に一番影響があったのはクレーム処理。それまでは「今回のミスは大目に見てあげるからこっちの値下げを頼むよ」などと業者と「貸し借り」をしていたが、クレームを出した方も出された方も簡単には妥協できなくなり、1件1件原因追及~再発防止~損害賠償まで、あとで第三者から見られても「会社の利益を最大化すべく努力した」という格好にするための記録文書を残す必要が出てきた。実にくだらなかったね。法務の連中って、「俺は閑職に追いやられている。軽く見られてる」という被害者意識がとっても強く、こういうチャンスにその存在感を示すべく社内を吹いて回っていた。結果、日本の会社の生産性を落とすのに貢献したね。
日本の製造業におけるトラブルって、いちいち原因追及~再発防止~損害賠償までやらないと解決できないものか?そんな杓子定規より「気をつけろよ。2度とするんじゃねえぞ。」で済むんじゃねえか?(俺の知る限り、恥ずかしいミスをした会社・人はそんなこと言われなくても2度と同じ間違いはしなかった。俺の「プロ」の定義は「2度と同じ間違いをしない」である)大人のトラブル解消が子供の喧嘩になっちゃった。原因追及~再発防止~損害賠償にぐずぐず時間かけることが生産性を著しく落とす。せめて、ぐずぐず時間をかけて原因追及~…する事案とそうでない事案を分けるくらいのことはできないかね~?無理だろうな~。
以下個人的な雑駁かつ無責任な印象・憶測・仮説
①自分の裸身や公判記録をSNSで公開する裁判官もいる。おかしな判決を出す裁判官に当たるリスクがある。今回のおかしな判決を出した朝倉裁判長はどのような人物かは情報がないし、調べる気もないが、印象としてはパフォーマンス好き、目立つのが好き、法の精神や過去のいきさつ・歴史を無視して正義感を振り回すタイプと見た。こういう裁判官を減らし、まともにしていくには、役人・政治家同様、裁判官や弁護士などを「憧れの職業」にしていくしかないだろう。
②日本に原発が導入された経緯に関する俺の憶測:
アメリカのGE、ウエスチングハウスといった原発メーカーから圧力を受けてアメリカの政治家が日本に原発を作らせようとした。そのお先棒を担いだのが中曽根元首相。一番の問題は日本人の核アレルギー。工場が来ない地域では原発を誘致したい事情もあり、絶対反対論者を前に絶対安全と言い張って誘致させた。国は原発を誘致してくれた地域にはたくさんお金を落とした。「本当は原発が危ないからこんなにお金を落とすんだよ。わかってるよね。」という阿吽の呼吸。
一方でこんな危ない代物を民間企業である電力会社に押付けるべきかどうか議論があったのではないか?どういう経緯かは知る由もないが、「絶対安全」なんだからと、電力会社に押付けることになった。電力会社は国とべったりで安定供給を旨とし、地域独占で停電はさせない代わりにかかったコストに利益を上乗せして電気を売るというビジネスモデルだった。電力会社は原発について本当にどのくらい安全なのか、どこが危ないのか、事故が起こったらどうすればいいのかなど、真剣に考えることを避け(考えても原発メーカー任せで本当のところは深く理解しないまま)当事者意識なく「国から押し付けられたから」と原発を建設し運転した。実際には大小さまざまなトラブルがあったが地元の親分に押さえ込んでもらい、「絶対安全」神話を守り続けた。東電をはじめとする電力会社の責任の程度・範囲はそんなものだったように思う。(福島の原発事故発生当時の東電の無力さ、無能さ、当事者意識のなさからそう断言する。自分の意志で、自分の技術的知見で理解・対処できる範囲内で(=つまり自分の責任とリスクで)原発を建設し、運転していたならあんな無力・無能・無責任はなかっただろう。
このような経緯で国から東電に押し付けられた原発…株主代表訴訟で経営者の責任を云々する暇があるなら上述のような俺の仮説が正しいのか?どうして危ない原発を国でなく、電力会社が建設・運転することになったのか?等々の歴史を少しでも振り返ることの方が「アメリカ様から日本に押付けられたものをお先棒担ぎの政治家に踊らされて受け入れたら碌なことはない」という事例として検証したもらいたい。再発防止は責任を問うことでは達成できない。責任を問わないから本当のことを言ってくれ」と迫ることから再発防止は始まる。
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