恩師とは①
姉から中高時代の先生について書け、とのリクエスト。その前に、「恩師」というが、これは何ものぞ?そこで「恩」をネットで調べると、コトバンクに”もともとは仏教から来ていて、他者から自分になされた恵。日本書紀などでは恩は「めぐみ」などと訓(よ)まれていて、「めぐむ」とは草木が芽ぐむところから来ている”と。そこまではすんなり頭に入るのだが「仏教では恩を知り、恩に報いなければならない」のだそうだ。これが分からない。恵を与える側は感謝されようと思って与えるわけではなかろう。親子の関係で言うと子供の側はいつ、どこで誰の子として生まれるのかなんて選べない。いわば親は子の気持ちも都合も考えずに勝手に生み、恵む。これに対して子はなぜ報いなければならぬのか?例えば自分の食べる分を減らして食い物をくれた、なんていうのは恵んでくれた人が親であろうがあるまいが報いるべきかも知れないが、親は種族保存本能に任せて子を産んで育てるだけ、と考えると、子は報恩すべきか?俺も父親だが振り返ってみて、子供は欲しかったし、出産が近づくと「五体満足で生まれてくれ」と願い祈った。(自分ではコントロールできない運命であり、特に父親なぞは全くの無力)無事生まれれば安心し、自分の子はよその子より断然かわいい。これは、種族保存本能に発する親のエゴではないのか。それでも子供は親孝行せねばならぬのか?母親は母乳をはじめとしてたくさんのものを子に恵むかも知れない。しかしこれも母性本能ではないのか?このあたりは近年ホルモンの働きとして科学的に説明され始めている。ホルモンの働きで育児をする、育児をするとホルモンが出る…言わばホルモンに操られて子育てをする親に対して子は恩を感じるべきなのか?本能やホルモンを作ってくれた神様には感謝すべきかもしれない。近年では、殺しも虐待もせず生み育ててくれた奇特な親に対して感謝する、というのも分からないではない。ただし、子は親(神・仏)の恩に報いなければならない、と言われると、「何を!?」と思う。恩に報いたいと思うのも自由。そう思わないのも自由ではないか?
問題は恵まれた側の感受性、あるいは情緒。恵んだ方は報いなど期待しない、一方、恵まれた方は恵を敏感に感じ、恵を感じたら感謝する、くらいでいいのではないか?最近つくづく恵(恩)を感じ、報いようとする感受性が豊かな人の方がそうでない人より「上等」な人だと思う。その点俺は上等ではない。「上等な人」かどうか、というのはとっても大切だ。親として子にできること・すべきことは子を「上等な人」に育てる、ということかも知れない。
とかく、日本人は先に生まれた人(正しく”先生”)、親、年寄、先祖などを無条件でありがたがる。そうするのが当たり前だという同調圧力がある。俺には理解不能。尊敬できる奴は後から生まれた奴だって尊敬するし、馬鹿野郎は親だろうが教師だろうが、社長だろうが馬鹿にする、それでいいように思うが…枕はこれくらいにして俺にとっての「師」:
まず第一に父親。別に親だからではない。言葉によって気づきを与えてくれたから。父親は「嫌なことからやれ」と言っていた。この言葉が「何故生きているの?」という問いに対する答えを与えてくれた。15歳頃から「何故俺はこの親の元に生まれたの?」「なぜ生きなければならないの?」…と、答えの見つけにくい問いを問い続けた。24歳の頃だったと思うが、手塚治虫先生の「火の鳥」を読んでいたら主人公が地底から地上に向かっている穴から見える太陽の光を目指して穴(崖)を這い上っていくが、雨は降ってくる、食料は不自由…苦労してもなかなか地上に出られない、という場面があった。このとき、「登るのをあきらめて手を放して地底に落ちて死ぬ方が楽なのに、何故、わざわざ苦しい思いをして崖をよじ登るのか?」と考え、「死ぬなんてことは楽だし、いつでもできる。苦しいからこそ生きる、というのもいいじゃないか」とひらめく。これに気付いたのは「嫌なことからやれ」という父親の言葉が頭の片隅に残っていたからだと思う。そこに行くと、母親には尊敬すべき所はなかったなあ。面白かったし、父親といいコンビだとは思ったが…
さて、「苦しいから生き」て、その先にどんなゴールが待っているのか?生きることに意味は見いだせるのか?楽しいわけでも明るいわけでもなく、意味を見出せるわけでもない。The answer is blowing in the wind.だ。俺は、このblowing in the wind(「風に吹かれて」)は、「答えなんて永久に見つからない」「答えを探そうなんて無駄なこと」という意味だと思っているが、ボブディラン本人(Wikipedia)によると「答は紙に書いてあるが、その紙が風に吹かれて舞っている。その紙はいつか地面に落ちてくる」という意味だったとか。(ただし、落ちてきた紙を拾い上げて答えが読めるのか、どんな答えが書いてあるのか、については何も言っていない)。無常観というか、かなり東洋的だ。饒舌なユダヤ教徒らしくない。
こういう俺なので、「生きるのに積極的な意味がある」とか、「明るく生きましょう」なんて輩はたいてい馬鹿にする…「なんで生きているの?」って考えたことあるの???…ついでに言うと、技術屋の「なんでも言葉で説明できる」「いつ、どこで、誰がどうやっても同じ結果が出ること=普遍性が一番」という不遜さも勘弁できない。…ものごとには言葉では語りつくせないところが必ずあるし、同じように見えてもミクロン単位、ナノ単位で見れば違っている。「同じ」と言っているのはそういったミクロン単位、ナノ単位での高精度な計測をしないですむミリ世界の話。
命あるもの必ず死ぬ。手塚先生の「火の鳥」では永遠の命なんて苦しいばかりという風に描かれる。俺は、輪廻なんて信じない。命が終わったらそれで全てが消え去る、と思っている。(むかし、TV放送が夜中に終了するとき、いきなり画面が灰色になって「ザー」という音しか聞こえなくなったが、そんな感じ)死後の世界も霊も存在しない。人間死んだらハイおしまい。それでよくないか?もちろん、墓なんていらないと思っているし、遺骨なぞどう扱われようと構わない。散骨でもOKだし、両親の墓に一緒に入れてくれても結構。供養なんてものもどうでもよい。墓参りもその理由が分からない…ただし、両親の墓について捨てようとか、荒れ果て構わないとは思わない。(お姉ちゃん、墓の面倒見てくれてありがとう。お世話になってます。)両親が墓を作ったということは両親は墓の必要性を感じたからだと思うから。その両親の「信心」まで否定する気はない。一方で墓参りさえすればいい、とも思わない。上述のように折に触れ、死んだ人のことを思い出せば十分なのではないか?「心の中に生きている」…嫌いなセリフだが。
話は変わるが、佐藤優さん(元駐ソ連日本大使館員、鈴木宗男と一蓮托生で逮捕された)と中村うさぎの、聖書をめぐる対談を本にした「聖書を読む」に、略、以下のようなくだりが:
1950年代生まれの中村うさぎには「どんな問題でも必ず答えがある、答えに行きつかないのはおかしい」という強迫観念がある。1990年代生まれの世代はあらかじめ、「答えがない」って割り切っている。うさぎ世代の強迫観念は「何故生きているの?何故生まれたの?」といった答えのない問いと長い間格闘し続けさせ、その結果その人はアイデンティティーを築いている…
正しくこの通りで、俺の娘の言う「忙しいからぐだぐだした長い文章は読まない」は答えの出ない問いを問わない、ということではないのか?中村うさぎや俺のような世代(人間)と、「何故生きているの」を問わない世代(人間)の間にはものすごく大きな断絶がありはしないか?ややこしいこと、答えの出ないことをハナっから考えない、あるいは頭の中から追い出すような人間がいつ、どうしてできてしまったのか?禁煙、political correctness、ダイバーシティー、LGBT、働き方改革…弱者救済の言い換え…みんな根は一緒のような気がする。答えの出ない問いを粘り強く問い続けることによって、うさぎさんの言う「アイデンティティー」、俺流にいえば「打たれ強さ」が養われるように思う。そういったものが養われていれば、差別や不平等にも耐性ができ、また寛容になれ、笑い飛ばすことができるのではないか?差別や不平等は人間が生きるのとほとんど同義で決してなくなりはしないものだから、無理やりなくそうとしたり、自粛を求めたり、理屈・言論やルールで禁止しようとすると息苦し過ぎないか?そう考えるとアメリカ禁酒法を思い出す。Wikipedia(「禁酒法」)によれば、アメリカの禁酒運動は1840年代にはじまり、プロテスタントや意識高い系の人に「進んでる」とされ、とうとう1920年に禁酒法が成立するに及び1933年にそれが廃止されるまで盛んだった。つまり、始まって終わるまで約90年かかる。俺の生きてる間は禁煙、political correctness、ダイバーシティー、LGBT、働き方改革…なくならないね。これらをを言い立てて飯の種にしてる奴ら(文化人?)を見ると、禁酒法(を破る奴ら)のおかげで大もうけしたギャングを思い出す。*
差別・不平等はなくならない…俺は一部の白人至上主義者の「白人至上主義者だけの国を作ってくれ=(そうでない奴らは別の国に行ってくれ)」に賛成する…白ワインと赤ワインを別々に飲めばおいしく味わえる。赤白を手間暇かけてわざわざ混ぜて、まずいロゼワインを作るようなことをするな。ウィズ・コロナか、ノー・コロナか、にも通じる?
全く話は変わるが働き方改革って弱い人間を守るにはいいかもしれないけど、強い人間、強くなるために自分を鍛えたい人間を殺す。ビルゲイツやスティーブジョブズは若いころ自分の開発しているものが面白くて徹夜したことはないのか?働き方改革で世の中を変えるような発明ができるとは思えない。(もしかすると、マイクロソフト、アップル、グーグルなどが進んで働き方改革をやり、そのモデルとなるのは、ライバル企業に働き方改革を真似させれば新たな技術開発や発明ができなくなる、と見込んでか?**)
世の中を変えるなんて大それたことでなくても人間が「一皮むける」には修羅場=自分が逃げたら他にやる奴がいないという状況=に追い込まれて逃げずにもがき苦しんで切り抜ける、責任感や面白さからから寝食を忘れて打ち込む、といった経験が必要ではないか?俺には人間(特に会社員)が飛躍的に伸びるにはそれ以外方法がないと信じている。そう信じていた上司(師)に会い、また自分もそういう上司であろうとした。アメリカや中国やインドに比べて日本人は人数が少ない。資源もない。そんな日本が戦おうと思えば少数の精鋭を鍛えるしかない。働き方改革で精鋭ができるか?…一方で、日本は平和が一番大切な国だから精鋭なんて育てて戦うべきでない、という選択もあるが…
*禁酒はKKKが大いに賛成し、禁煙はナチスが言い出した、というあてにならない説あり。(話のネタとしてはそれっぽくて面白い)
**ゲイツもジョブズも自分の子供が小さいとき、スマホやipadを使わせず、スクリーンを見る時間を制限して紙の本を読ませようとしたことは有名な話。ITに使われないようにしたかったのだろう。もしかするとITだけを使いこなせてもせいぜい効率を上げ、量はさばけるようになるが、質は上げない・変えられない、と認識していたのか?タバコ同様、一定の年齢を過ぎればOKっていうのも腑に落ちない。
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