<俺が 芸を感じるもの>

①分かっていてもほろりとさせられる:例えば落語の人情噺

 ・文七元結…娘が身を売って五十両手に入れた左官の長兵衛が、五十両をなくして自殺し

       ようとする文七にあげてしまう

 ・紺屋高尾…正直な紺屋の久蔵に惚れた花魁の高尾が年季が明けたら嫁にもらってくれ、 

       と言い、実際に年季が明けたら久蔵のところに押しかけてきて女房になる

 ・芝浜…ダメな旦那に嘘をついて更生させた嫁が嘘ついていたことを告白する

 ・唐茄子屋政談…初めて唐茄子売りの商売に出て得た売り上げ全部を気の毒な母子に

         あげるがそれを全て因業大家に取られてしまい、母子は心中を図る

※いずれも不条理で理不尽な噺。主人公の無鉄砲・一本気が周囲の人たちの粋な働きを呼び、ハッピーエンドに終わるという”都合が良すぎてあくが強い”筋書きを演者がうまく料理して泣かせる

②分かっていても笑わせる・面白い:

 ・ロケット団の漫才…こうボケる、と分かっていてその通りボケる。それに対するツッコ

           ミの反応

 ・東宝映画の「社長シリーズ」…森繁久彌の社長、小林桂樹の秘書、加藤大介のまじめ

                部長、三木のり平の宴会好き部長によるおなじみの演技 

               (特に毎回登場する、三木のり平が活躍する宴会シーンと

                森繁社長が浮気しようとするけど必ず失敗するシーン)

 ・「シャボン玉ホリデー」におけるクレージーキャッツ、ピーナツのお定まりのギャグ

③何回見聞きしても感心する:

 ・フレッドアステアのダンス…小さな体・見栄えのしない顔で見せる粋な職人芸

 ・アニタオデイ…狭い音域、少ない声量、力みのない姐御風な唱法


「芸は人なり」という言葉が五代目柳家小さんの言葉として伝わっている。俺は芸とは芸人の持って生まれたものとその上に積み重ねられた苦悩、コンプレックス、稽古などの表出のことだと思う。ただし、小さんやその弟子談志の落語に芸を感じたことはない

上記のうち落語の人情噺以外は演者が自信満々に全力で演じるのではなく、力を抜いて自分の芸をクールに表現している。トップとして君臨するのでなく自分の「分」をわきまえている。

人情噺における演者の料理法…「こうすれば客は泣くだろう」と稽古と経験に裏付けられた自信をもって計算し演じる。これに通じるのが島倉千代子、松田聖子、今井美樹、島津亜矢といった女性歌手の歌のうまさで、彼女らにも「こうすれば客はうまいと思うだろう」といった自信・計算を感じる

改めて 芸とは、「持って生まれたものの上に積み重ねられた稽古と経験   及び 

それを客観的・俯瞰的に自己評価*して表出する力」    と言うべきか?

会社員が周囲の理解・協力を得て何かしようと言うときにも芸は必要。

会社員にしても芸人にしてもその芸をわかってくれる見巧者(みごうしゃ=目や耳の肥えた観客)が必要。芸のレベルを上げるには、いい芸人と見巧者の両方が必要。見巧者に恵まれない芸人は辛い。客のレベルに合わせて受けを狙うのか、あくまで芸人自身が「これ」と信じる芸にこだわるのか?

自己評価や計算がなく、ただ持って生まれたものに従って稽古や経験の結果をさらけ出す芸人もいる。一番の例が古今亭志ん生やビリーホリデイだ。彼らのパフォーマンスは、芸というより人間そのもの。

*世阿弥の言った「離見の見」

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