高校時代①

 姉から高校時代に何を考えていたのか書けというリクエストがあり、息子からも昔のことを書け、みたいなリクエスト。

中学時代は成績は学校で一番、バレーボール部の主将だった。地元で一番の進学高校に行った…先生に「他の選択肢はない」みたいに誘導された…入学してちょっと悩んだのは高校のバレー部に入るかどうかだった。中学の1年先輩、2年先輩が入部していたから。かといってそれほど強い勧誘があったわけではなく、進学を優先しようと考えてバレー部には入らず、たまたま高校に入ってすぐ知り合った男が鉄オタだったので勧められるまま鉄道研究会というのに入った(実態は帰宅部)

その高校の前身は旧制中学で女子の比率は10%程度、男子校ぽかった。進学を選択した以上、熱心に寸暇を惜しんで勉強(教科書参考書の暗記)をした。その学校はテストのたびに成績・学年順位を発表したが、ほどなく学年で10位以内に入るようになった。進学高らしく?3年生の教科書を2年生の3学期か3年生の1学期までには終えて、文科系、理科系にコースを分け3年生の2学期からは各自で受験の準備をする、というパターンだったと記憶するが、2年生の3学期に入って数学、物理、化学といった理科系の科目が全く理解できないようになり、文科系コースにした。

成績が上位になったこともあってか、2年生になると気が緩み、受験勉強疲れが発生した。その頃、テスト前に一生懸命暗記したものをテストが終わった瞬間に「忘れろ、忘れろ、頭の中から追い出せ」と念じたことを覚えている。自分で病気だ、異常だ、と思っていた。役に立たないものを暗記するなんてバカバカしい、やめたい、という拒絶反応だったとも思う。(こんなことは、2年も3年もやってられねえや!)そう思って周囲を眺めると、相変わらず暗記にいそしむ奴、最初から暗記なんてバカバカしいとわかっている奴、バカバカしいけど適当にやっとこうという奴、部活優先という奴、俺みたいに疲れてる奴、受験なんて無視して音楽にいそしむ奴、女に入れあげる奴、医者のドラ息子で親の金でどこかの医学部に潜りこめればいいやという奴…様々な人種がいた。(ただし、左翼にしろ右翼にしろ、学生運動みたいに自分の思想を声高に叫んだり、強要する者はいなかった)この学校の一番いいところは、旧制中学のなごりか、生徒の自主性を重んじ、勝手にさせてくれたこと。この、「受験勉強しなければいけない」と頭の片隅にありながら一方で「別に遊んでもいいんだぜ」という微妙なバランス感覚がよかった。「自分のことは自分で決めろよ!」(今考えると、この感覚は人生で初めてだったし、その後もこんなに強かったことはない)俺にとって本当・理想の自由だった。高校時代はまだ将来何になるのか決まっていない、気持ちの悪い言い方だが”可能性は無限”。そういう意味でも何になるのか、何を選ぶのか自由だった。年を取れば取るほど、可能性も自由もしぼんでいく。

大学も、会社も何か目標線、管理線、可能性の枠(今で言う”同調圧力”の線)が引かれていた。大学に行くと親元を離れ、何をしてもいい、という自由はあった。何をしてもいいと言われると、何をしたらいいのか、何をしたいのか分からずに苦しかった。俺にとって、そんな自由はせいぜい2年くらいで十分という感じだった。(ただし、ひょんな縁から大学のフィールド・ホッケー・クラブに入部し、夢中になり、途中でやめる、などと言うことは考えられなかったが…縁と言えば、就活の時、大学のホッケー部の監督に言われて渋々義理で会社訪問した会社に入って40年以上勤続したというのも縁。)大学には確かに全国から様々な生い立ちの人間が集まってくる。一方で俺の行った大学の性格からか、さまざまな人種がいるというより、卒業したら会社員になる、という暗黙の線が引かれていて、結局はそれにそって進んでいく、というあきらめ、圧があった。4年間のモラトリアム。4年たったら宮仕え。

俺の高校の同級生には「自分の頭で考え、自分の心で感じ、自分の言葉で語る」奴が多かった。誰も他人の言動に文句をつけたり、迎合したり、褒めたりけなしたりする奴はいなかった。みんな、てんでバラバラ・言いたい放題。遠慮もなし。かといって足の引っ張り合いをするでもなく、困ったときには助けてくれたり励ましてくれる奴がいたし、さまざまな人やレコード、本、遊び…を紹介し合った。自由とか個人主義がいい塩梅に溶け合っていた?

このブログを書きながら振り返ると、俺の人生って高校時代のこんな自由、独立不羈を理想にしてきたと思う。(会社員になってから知ったが、森政弘さんの「全機」にも通じる)会社に入り、部下というものを持つようになって部下の皆さんに自由、独立不羈を求めたが、むなしかった。会社には安全その他さまざまなルールがあり、まじめな社員はそれを覚え、守るのに汲々とせざるを得ないし、そもそも会社員になった時点で自由とか、独立不羈なんてあきらめた、ということもあろう。思い余った俺はわざと極論を吐いてそれに対する反論を待ったりもしたが反応はほとんどなかった。それでも1%か2%の確率だが俺に楯突いたり、意見する奴もいた。そんな奴らには「したいこと・その人なりの理想」がある。そのしたいことがなるべくしやすいように助け、やってることに口を挟まないように心掛けた。失敗したら「責任は俺が取る」…責任と言ったって、最悪会社を辞めれば済む。命まで取られりゃしねえ*。(昭和天皇の敗戦の時の責任の取り方を見ろ!)俺は「アンタは古い」とか「間違っている」、「分かっていない」とか言って欲しかった。上司なんてものは古くて保守的に決まっている。そんなのをひっくり返さないと会社はよくならねえぜ。(この点、親も全く同じ)自分の頭で考えて自分の心で感じて自分の言葉で語ってくれ。そうしてくれれば俺を否定してもらって結構…会社で一番嫌いだったのは「全員参加」だった。アメリカ人だったら「自由の侵害だ」と言って怒るだろうが、俺は怒らず、やってるふりをした。(会社は様々な馬鹿なことを命じたが、これを俺は「税金」と呼んだ。税金とは:会社からお給料をいただく代わりに果たさなければならない義務…ISO、成果主義、5S…)

オギャーと生まれたからには、自分の頭で考えて自分の心で感じて自分の言葉で語らずに何の人生か?

さて、高校3年生になった俺は暗記という砂をかむような作業に対する反発から、様々な自由な人種と遊び始めた。タバコ、酒(酒は飲めるようにならなかったが)、授業をさぼって映画を見に行く、といったたわいのないことだが、ものすごく自由を感じた。友達の家に泊まってタバコでも吸いながらレコードを聴いた。ビートルズ(ジョン・レノン)、エルトン・ジョン、キャロル・キング、B.B.キング、マイルス・デイビス、アルバート・アイラー、ジョン・コルトレーン等々。一番はまったのはまずビートルズ、それからマイルス、アイラー、コルトレーンといったジャズだった。東京にある大学に入ろうと思って入ったが、東京にはジャズ喫茶やジャズレコード屋がたくさんあって足しげく通った。ジャズレコードの蒐集は大学時代から結婚するまでは熱心に、結婚してからコロナ騒ぎの前までは年に何回かレコード屋に行く程度だが、続いた。

進学校の成績上位だから東大に行くことも考えたが、受験科目に苦手な理科系の科目から2つ選ぶ必要があり、東大受験はやめ、理科系科目1つですむ学校を受験した。

*実際、業務遂行上で何回か失敗はあり、”責任”を取った。俺のいた会社では「すみませんでした」と謝って頭を下げることが責任を取ることを意味した…皆さん、プライドが高くて「すみませんでした」と頭を下げられない。「どうやって責任取るんだ」が殺し文句で、この言葉で黙ってしまう奴は多かった。逆に言えば頭を下げることさえ厭わなければ色んなことができた…悪意や故意でもない限り、失敗したらタイミングを計りながら出向いて行って「この度はご迷惑をおかけし、すみませんでした」と頭を下げる。これで片が付いた。こうやって「責任を取る」ことが俺の仕事と割り切っていた(もちろん「再発防止策」なんてものを耳障りよく作ることは求められたが、そんな面倒なことは部下に任せた)。無責任と言えば無責任だが、バブル崩壊以降の日本には「このまま行けば日本(会社)は滅びるんだから、なんか変わったことをやってみよう」みたいな雰囲気があった。それが国政レベルでは「小泉改革」につながり、企業レベルではM&Aにつながった。

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