この国の基礎・国柄

 自然の求めに応じ、何十年何百年の昔から繰り返してきた通り、同じタイミングで同じように作業をして稲を育てる。

自然は時々地震や台風などでご破算をもたらすが、それは例外・一時的で、歯を食いしばってご破算をやり過ごせば元に戻る。

自然が与えてくれるものは、ご破算に比べ恵みの方が圧倒的に大きい・・・そこらにある山や石や木・・・自然・・・は神となり、人々は神にご破算の回避・恵みを願い、また授けられた恵みのお礼をする。

稲作のKnow-how・・・いつ、何をすればいいのか・・・を知ってる人はそれを数少ない身内にこっそり口で伝える。「いつ」を知らせる暦は重要な情報だ。文字がないから秘事口伝となって普遍的な技術、セオリーにはならないし、多くの人に共有されて洗練されることもない。

秘事口伝はどれだけ古くから伝わっているかどうかが評価基準になる。長い間使われてきたものほど信頼できる・・・それが身内=家で伝承されるうちに、「神託」となる。古い口伝(神)ほど信頼でき、尊い。

古くからの口伝(神)を伝えた有力な家(一族)がいくつか現れて覇を争う。4,5世紀には今、「天皇家」と呼ばれる一族が大和地方で権力闘争に勝ち、仲間の豪族と組んで、西に東に版図を広げる。

天皇家は、血縁(純粋・厳密な血のつながり)にこだわっていては家が途絶えてしまうから「家というフィクション」を発明し維持する。天皇の後継ぎは建前上世襲で、新生児の死亡率が高いことを考えると複数の後継候補を確保する必要があった。一夫一妻ではなかったから、腹違いの後継候補も存在した。実子ができなかったり、出来が悪かった場合は養子を取ることもあった。

天皇の後継問題は大きな揉め事・政変の原因となったが、6世紀には蘇我氏が娘を天皇に嫁がせて、娘の産んだ子を次の天皇の本命にし、自らは政治の実権を握る、というシステムを編み出した。

天皇家は他の豪族たちを抑えて政治的安定を得るため、6世紀から7世紀にかけては蘇我氏、7世紀後半から蘇我氏に代わって藤原不比等と組む。蘇我氏や藤原不比等は天皇人事を仕切り、8世紀に入ると不比等は天皇制を支える大宝律令や日本書紀の編纂に尽力した。藤原氏は武力ではなく、娘を天皇に嫁がせて孫を天皇にするという手法で以降何百年間も朝廷を牛耳った。(藤原氏の内部でも主導権争いがあった)

文字(漢字)は4,5世紀に日本に伝わったとされるが、当初は剣や鏡に地名・名前を書くくらいだった。6世紀から7世紀、日本でも歴史書が書かれ始めた。8世紀の初め、日本国内・中国向けに天皇家の正統性を訴えるべくそれまで口伝されていた神話や言い伝えを文字起こししたのが、藤原不比等の時代に作られた古事記、日本書記だ。日本を生んだイザナギ・イザナミの夫婦神の子供である天照大神の子孫が天皇家であり、またその血筋はずっと絶えることなく続いてき、また永遠に続く(万世一系・天壌無窮)という神話だ。この神話は天皇家が日本で一番古く、日本人全員の祖先である、というフィクションで、祖先や古い家、その中でも「一番古い家を一番偉い神」とするという筋書きなので、日本人には受け入れやすいものだった・・・これが、作られてから1000年以上経て明治維新で蘇ったが、多くの日本人は、これを素直に信じた(信じ込んだふりをした)。

古いものを無条件に大事にし、神(=お上)と考え、長い間同じことを繰り返して道を究めることに価値を見出し、進歩変革より安定を好み、進歩変革は「お上」に任せて自分の頭で考えることなくお上について行く・・・これが日本の国体であり、国柄、日本の国の基礎だろう。

これで4,5世紀以降の古墳時代から始まり大東亜戦争敗戦まで続く、政治の実権はあまり持つことはあまりなかったが、それでも「象徴」として人臣の上に君臨した天皇中心の国体は説明がつく。敗戦後数年間、占領軍が「お上」になり、憲法を作った。天皇は憲法上、古いからとか長く続いているからという理由ではなく、”主権の存する日本国民の総意”を根拠に「象徴」となった。日本人は憲法を含めて文字に書かれた文書を軽視する。憲法上は”国民の総意”が天皇の地位を担保するのだが、誰一人、天皇の地位を巡る国民の総意を問うた者はいない。この憲法の規定は、「改めて聞くような野暮は抜きで、天皇は昔から別格に偉いんだよ」と言う意だろう。

閑話休題:

史上、重祚した天皇は二人しかいない。二人とも女。二人とも前任天皇が男子後継者をしっかり決めないまま死んだので蘇我氏や藤原氏の意向を踏まえて女性天皇誕生となったと思われる。重祚したのは、身内や蘇我氏、藤原氏との争い・揉め事が原因だった。

以下の通り、「万世一系」などときれいごとは言うものの、天皇の後継を巡ってどろどろした争いが行われた。天皇は一皮めくれば豪族だから、結構好戦的で権力闘争にも熱心な人が多かった。

重祚した天皇の一人は35代・皇極天皇(重祚して37代・斉明天皇

皇極は舒明天皇の皇后。在位は642年~645年。舒明天皇死後、子の中大兄皇子(天智天皇)が成長するまでの中継ぎとして即位。この人事には蘇我氏の意向が反映されていると思われるが、645年の大化の改新で蘇我入鹿が殺され、蘇我氏の専横は弱まり、大化の改新の立役である中臣鎌足(後の藤原氏)が台頭してくる。

斉明の在位は655年~661年 36代・孝徳天皇の死後、政治の実権は皇太子の中大兄皇子に任せ、37代に即位。(孝徳には息子がいたが658年、斉明に対する謀反を疑われて殺される。)斉明は朝鮮出兵のため西征中、白村江の戦いの前661年に死亡。中大兄皇子は668年まで即位せず、天皇空位だった。中大兄皇子(天智天皇)が孝徳の死後に即位しないで母親が重祚した理由、母親の死後なかなか即位しなかった理由は諸説あって謎。天智は大化の改新で蘇我入鹿を殺したが、蘇我氏はまだ力があって無視できず、互いに頼り合った。

あと一人は46代・孝謙天皇重祚して48代・称徳天皇):

聖武天皇と公明皇后(藤原不比等の娘で、人臣出身で初の皇后)の子。聖武の時代、政治の実権を巡って藤原氏とその他の貴族との間で激しい争いがあった。聖武が突然出家して娘の孝謙が即位。この人事も藤原家がからんでいると思われる。

孝謙の在位は749年~758年 藤原家との政略結婚を拒否したが、実権は藤原仲麻呂が握った。

756年出家していた聖武が死に、皇太子を指名した遺言を残したが、孝謙・仲麻呂の意向で別の皇太子を立て、758年淳仁天皇とした。孝謙は太上天皇(上皇)になり、実権は相変わらず仲麻呂(恵美押勝)が握った。760年仲麻呂は皇族外初の太政大臣となったが、上皇は道鏡を寵愛、天皇・仲麻呂と上皇・道鏡で争うようになり、764年藤原仲麻呂が挙兵して敗れ、殺された。

上皇は淳仁を流刑とし、重祚し、称徳天皇となる。在位は764年~770年。770年の称徳の死後、道鏡も力を失った。

称徳は子がなく、その死後、後継でまた揉めたが、藤原百川が光仁天皇を誕生させる。光仁天皇は、藤原仲麻呂の乱鎮圧に貢献し、称徳の信任は厚く、称徳も遺言で後継指名したとされる・・・遺言は百川の偽造だという説あり・・・。光仁は62歳という高齢での即位だった。(在位:770年~781年)

光仁の後継は光仁と百済出身の和新笠との間に生まれた桓武。桓武も母親の出自から天皇候補としてはランクが下だったが、藤原百川の働きで皇太子になった、とされる。(在位781~806年)桓武は百川の娘や姪との間に子を作り、後継の平城天皇もその一人。

以下、53代・淳奈天皇(在位:823~833年)までは藤原百川の系統の天皇が続く。

淳奈は兄で先代の嵯峨天皇の息子の仁明・・・母親は藤原氏ではない・・・を後継にした・・・54代・仁明天皇(在位:833~850年)。淳奈は嵯峨と語らって息子を皇太子とし、仁明の後継にするつもりだったが、840年死ぬ。842年、嵯峨も死ぬ。その2日後、皇太子の取り巻きが謀反を企んだと逮捕追放され、皇太子も廃される。(承和の変)この事件は藤原良房が藤原百川(式家)や藤原家以外の貴族を排斥する結果となった。合わせて良房は、自分の妹・順子と仁明との間にできた息子を皇太子(後の55代・文徳天皇)とした。良房は文徳が30歳そこそこで早死にすると幼い外孫を天皇にし、人臣で初めて摂政となる。以降、藤原良房の藤原北家が200年以上にわたって摂関政治で朝廷を支配する。

7,8世紀の天皇は、娘を皇后にした蘇我氏や藤原氏に実権を握られており、上述のように天皇後継人事に絡んで子供や蘇我・藤原とも争った。

藤原氏は、不比等の長男~四男の系統で南家北家式家京家の四家に分かれる。仲麻呂は南家出身。百川は式家出身。

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