「絶対にいけない」で止まっていないか 暴力を冷静に議論する技法を 河野有理・法政大教授に聞く
こうの・ゆうり 1979年生まれ。法政大学教授(日本政治思想史)。偏見かも知れないが、1980年前後に生まれた日本人には”まとも”が多い???
さて、朝日新聞デジタル記載の表題の記事。気に入った個所は:
穏やかでない事柄を語ること自体を物騒なこととして忌避することは、この日本社会では昔からあったのではないでしょうか。
その昔、福沢諭吉は「competition」を「競争」と訳そうとして、幕府の上役から「争」という字が穏やかではないと止められたという体験を自伝「福翁自伝」に書いています。
もちろん、こうした態度が日本に特殊なことというわけではないでしょう。人間誰しも死とか暴力は見たくないはずです。そんな物騒なことをわざわざ聞かせないでよというのは、人間の情としては自然なことだと思います。
しかし、物騒なことについて語ることは、そのことを肯定し、容認することとは違うはずです。それどころか、そうした物騒なものについてこそ、オープンに語ることが必要な場合もある。暴力のような根絶不可能で、そのコストやリスクを冷静に計算しなくてはいけないものについては特にその必要は大きいはずです。
にもかかわらず、それを語ることをそもそも忌避する雰囲気がないでしょうか。悪いことについて語ることが、そうした悪いことを容認し、助長する社会の雰囲気を形成してしまうといった懸念が強すぎるような気がします。
戦争も残念ながら地球上からなくなることはないでしょう。「戦争はよくない」と唱えれば戦争がなくなるわけでもありません。それなのに、いかなる種類の戦争にも反対をとりあえず表明しておくことが良心的なのだという考え方はいまだに根強い。さりとて、自分たちの死も論理的に当然に受忍するという、突き詰めた絶対平和主義というわけでもない。例えばウクライナでの戦争について、安全地帯の日本から「即時停戦」を唱える人も同じ思考コードに陥っているように思います。
1960年代以降、非現実的な理想を唱え続ける3分の1の野党と、対立を先鋭化させることを避け、粛々と現実を処理する3分の2の与党自民党が、共犯関係にあって互いの合意に基づくコンセンサスデモクラシーを維持した。政権交代も起きない「デモクラシーの過小」のようにも思えますが、非常に安定していて、学生運動などでの暴力はあるものの、政治家へのテロはほとんど起きなかった。
さて、俺のフォロー:
福沢諭吉の逸話は日本人の競争嫌い、できれば競争しないで済ませたい、という南方系の血筋から出てきたものだろう・・・そんな日本人に「談合するな」、というのは無理だ。
物騒なこと、縁起の悪い事を口にすると「言霊」の働きでそれが実現してしまう・・・これも日本古来の信仰だ。
突き詰めた絶対平和論、安全地帯:アメリカ様に守ってもらえるから自分は安全地帯にいる。その安全地帯から一歩も出ずに憲法9条を守れ、アメリカ軍は出て行けと・・・
与野党の共犯関係=国防、外交と言った大事なことはアメリカ任せにした「ごっこ」
争いが苦手、嫌いな日本人にとっては戦争回避が得策だろう。絶対平和主義なのか、非暴力抵抗主義なのか・・・
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