明治維新は、大東亜戦争(の敗戦)をもたらした

明治維新で、 討幕のスローガンとなった「尊王攘夷」。尊王は江戸幕府より天皇親政の方が正統性があるという屁理屈。攘夷については、尊王の志士が信奉した水戸学あるいは吉田松陰が、攘夷のためには征韓が必要だとし、松陰などは「取易き朝鮮・満州・支那を切り随へ、交易にて魯国に失ふ所は又土地にて鮮満にて償ふべし」とした。日清・日露の戦争で朝鮮・満州・支那(台湾)を”切り随へた”日本では、1920年代恐慌に何もしようとしない政治家官僚に代わって、軍部が昭和維新などと言って独走、更なる満州・支那への侵攻を始める。

つまり、明治維新を可能にした尊王攘夷は朝鮮・満州・支那への侵攻をももたらしたのだ。結局これが大東亜戦争となり、敗戦に繋がった。

明治維新は下級武士、公家が協力して行われたが、維新が成功した後は内紛が始まった。維新の十傑とよばれる人たちがいる。

薩摩藩の 西郷隆盛大久保利通小松帯刀(小松清廉)

長州藩の木戸孝允大村益次郎前原一誠広沢真臣

肥前藩江藤新平

肥後藩横井小楠

公家岩倉具視 だ。

明治4年に西郷、大久保、西郷従道大山厳、木戸、井上薫、山縣有朋の7名の薩長の要人が木戸邸で案を作成し、その後に、公家、土佐藩佐賀藩出身の実力者である三条実美岩倉具視板垣退助大隈重信らの賛成を得て。廃藩置県を行った。

この頃には内紛が起こり、薩長の大久保、木戸の不仲もあった。

明治4年大久保・木戸・伊藤博文ら岩倉使節団が外遊に出発した。留守政府は三条、西郷、大隈、井上、山県、板垣、大隈、江藤らであった。

江藤は司法省を使って長州閥の汚職を摘発させた。

朝鮮は新しく誕生した明治政府を認めず、外交を拒否した。留守政府では征韓論が盛んになった。西郷は自分が使節となって朝鮮に出向き、万一のことがあったら朝鮮に戦争を仕掛ける大義になるなどと考えた節がある。江戸幕府を潰した西郷は自分を武士であって政治家ではない、と自覚しており、権力闘争を嫌って、自分にはもうすべきことがない、という認識があったように思う。

岩倉使節団が帰国したのは明治6年だったが、大久保・木戸・伊藤らは攘夷のためには外国に追いつくの(富国強兵)が最優先と考えるようになっていた。帰国した岩倉使節団は内政を優先し、朝鮮出兵にはもちろん、使節を送るのにも反対した。東京で政治ごっこをするのに飽き飽きしていた西郷は下野し、板垣、江藤らも続いた。

翌明治7年、台湾出兵が行われ、韓国には派兵しなかったのに台湾に兵を出すのはおかしい、と言って木戸も下野した・・・翌年大久保・伊藤・井上らに説得され復帰したが、明治10年西南戦争が始まった直後に病死した。木戸も西郷同様、農民と不平士族を守ろうとはしたが、政治家として権力闘争する者ではなかった。

江藤は佐賀の乱、西郷は西南戦争で死ぬ。いずれも不平士族の起こした反政府の反乱であった。

このように明治維新の英雄たちは病死したり、権力闘争に負けあるいは権力闘争を避け下野したあと反乱を起こして殺され、数が減り、西南戦争後に、生き残ったのは大久保、伊藤、山縣、大隈、岩倉くらいだった・・・その後、大久保は明治11年暗殺され、大隈は明治14年伊藤の策略で罷免され、岩倉は明治16年病死する。伊藤は明治42年(1909年)暗殺され、山縣、大隈は大正11年(1922年)まで生きたが、明治維新1代目の生き残り山縣、大隈には1920年代の日本の軍部の暴走を止める力はなかった。明治維新2代目世代は当時軍の大将クラスになっていたが、昭和維新を叫ぶ若手将校(3代目)をおだて煽ってテロをやらせ、権力闘争に利用した。

明治天皇は、1852年に生まれ、1912年(明治45年)に没する。父帝・孝明天皇は公武合体論者であり、頑迷な攘夷論者であったが1867年に亡くなる。その後、討幕・開国の明治維新が実現する。徳川幕府でもその前年の1866年、将軍・徳川家茂が死んで、慶喜が将軍になった。家茂は公武合体派の計らいで孝明天皇の妹を嫁とし、天皇に攘夷を要求され、いやいや約束させられた。慶喜は尊王開国であり、この絶妙なタイミングで天皇も将軍も尊王開国派に代わったことが明治維新実現に大きく寄与した。家茂が将軍になる時から家茂派と慶喜派は争っており、家茂の死には暗殺説がある。

明治天皇はかび臭い京都御所に閉じ込められているより開国して新しい文明に触れることを好んだ節がある。また、維新を行った武士たちに担ぎ上げられていることにも違和感はなかったのではないか?そして武士たちの中でも権力闘争や政治から一歩引いて、不平士族に配慮した西郷や木戸を愛したようだ。

明治天皇から国体について尋ねられた時、木戸は「むかし天皇はその権力を外戚である藤原氏に,その後武家にゆだねた。この事は国の中のことで皇統の連続に支障はなかった。いま世界の国々は富強を争っている。このときに国の中心が定まらなければ政権が外国に奪われとりかえしがつかないことになる。このことを防ぐのががわたしの責務と日々自分を叱咤しているところです」と答えたとされる

明治天皇がなくなった1912年は、日本が「坂の上」から転げ落ち始めたタイミングか?

外見上は、1920年発足の国際連盟で戦勝国として常任理事国になった頃が日本のピークかもしれない。植民地になる恐れもあった日本が50年の間に奇跡的に一等国に成り上がったのだ。この成功体験が1920年代の恐慌を経て昭和維新という下級武士(=若手将校)による革命というアイデアに繋がった。

戦後も40年たった1980年代は日本が一つのピークを迎えた時期だった。そして45年後の1990年、バブルは弾け始める。日本は再び下り坂を転げ落ちた。”昭和維新”に代わりに”新自由主義””グローバリゼーション”が日本はおろか、世界中を破壊した。

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