皇道派と統制派
皇道派と統制派は一夕会(いっせきかい)が分裂してできた。
一夕会は、1929年にでき、1933年皇道派と統制派に分裂する。あくまで陸軍内部の派閥だったが、一方で、第一次世界大戦を目の当たりにした陸軍軍人たちが国民全体を総動員し、また戦争遂行のために豊富な資源を確保することが必須、と考え、
1.日露戦争で獲得した満蒙での権益を拡大しようという対華21か条要求に対する反発を押さえ込んで権益を維持拡大し資源を確保する
2.総力戦など考えられない古い長州閥を一掃し、荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎を盛り立てる
ことを目標とした。
この会には、張作霖事件を起こした河本大作、後に統制派の中心となり、1935年に殺される永田鉄山、1931年に満州事変を起こす板垣征四郎、石原莞爾、後に首相となる東条英機、戦後フィリピンで死刑にされる山下奉文、盧溝橋事件やインパール作戦などを指揮した牟田口廉也などが陸軍の錚々たるメンバーがおり、1931年の満州事変勃発当時には陸軍省、参謀本部の課長・班長は一夕会メンバーが多かった。そして1931年から1932年にかけ、荒木貞夫は陸軍大臣に、真崎甚三郎は参謀次長に、林銑十郎は教育総監になった。
ところが、トップに担がれた荒木に政治力がなく、海軍に丸め込まれて陸軍予算を減らし、一夕会メンバーの多くに馬鹿にされた。(石原莞爾は無能・無責任と罵倒した)一方で下剋上も許すような言動をする荒木は昭和維新を目指し、のちに皇道派となる若手将校からは慕われた。この若手将校が1936年、226事件を起こし、荒木は予備役となって陸軍軍人としては終わった。(荒木は若手将校に自重を求めたが、それまでの彼の言動が若手将校をつけあがらせたことは否定できない。)ところが、1938年第一次近衛内閣で文部大臣となって皇道教育を行い、総動員体制のプロパガンダを推し進め、これで終戦後東京裁判にかけられ、危うく死刑を免れて終身刑となった。死ぬ間際に当時の佐藤首相に「明治維新の五箇条の御誓文を達成すべし」という遺言を送った。
さて、1933年5月、一夕会は荒木に従う皇道派と反荒木の統制派に分裂する。
皇道派:
大正デモクラシー、政党政治に対する絶望・反動から明治維新と同じく、昭和維新を起こして君側の奸を除いて天皇を前面に押し出した体制を作ることを目指したが、維新後の政治体制や政治組織を具体的に描いてはいなかった。
統制派:
総動員体制を作ることを目指し、力のある皇族、実業家、政治家などに近づき、監視し、脅したりすかしたりしててなづけ、徐々にそして合法的に陸軍支配を推し進めた。
閑話休題:
高松宮日記第6巻、昭和18年7月15日に、近衛文麿が「天皇は皇道派の方が統制派より危険だと考えているが、自分は反対に、皇道派は素朴でいっぺんに国体変革しようとするから扱いやすい、統制派はインテリで、改新案を小出しにして画策するから危ない。」と言い残して行ったと。
荒木貞夫という男は興味深い。戦後何をしていたのか、情報が少ない。
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