江藤淳さん、読むべし
「諸君!」1980年8月号に掲載された、江藤淳「1946年憲法・・・その拘束」より抜書き:
憲法草案の起草を総司令部民生局に命じた1946年2月3日付けのマッカーサー・ノート:
1.天皇は国家元首の地位にある。皇位は世襲される。天皇の職務と権能は憲法の定めるところにしたがって行使され、憲法に示された国民の基本的意思に応えるべきものとする
2.国家主権の発動としての戦争は、廃止される。日本は紛争解決の手段としての戦争のみならず、自国の安全を維持する手段としての戦争をも放棄する。日本はその防衛と保全とを、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を維持する権能は、将来共に許可されることがなく、日本軍に交戦権が与えられることもない。
・・・ここで最も注目すべきことは、「自衛権」と「交戦権」の否定が、なによりもまず国家主権に対する決定的な制限として規定されていることであろう。”戦争放棄条項”を”非戦条項”あるいは”平和条項”と解釈するのは実は問題のすり替えであって、それは正確には、”主権制限条項”と理解されなければならない。そのことを、このマッカーサー・ノートは最も明確に、かつ露骨に示している。
単なる”戦争放棄”の原則については、日本はすでに第二次大戦前、1928年に、パリ不戦条約(ケロッグ=ブリアン条約)の署名国となっていた。
第一条:【戦争放棄】締結国は、国際紛争解決の為戦争に訴えること非となし、且つその相互関係において国家の政策の手段としての戦争を放棄することをその各自の人民の名において厳粛に宣言す
アメリカ合衆国は一つの保留条件をつけた。当時発出された合衆国政府公文は、次のように述べている。<不戦条約の米国案は、いかなる形においても自衛権を制限しまたは棄損する何物も含むものではない。この権利は各主権国家に固有のものであり、すべての条約に暗黙に含まれている。各国は、いかなる場合にも、また条約の規定に関係なく、自国の領土を攻撃または侵入から守る自由をもち、また事態が自衛のための戦争に訴えることを必要とするかを独自に決定する権限を持つ
>>マッカーサーの憲法原案は日本の自衛権も否定するものだった。マッカーサーの言う「国家主権の発動」、憲法に言う「国権の発動」は同義か?しからば、不戦条約に言う「国家の政策の手段」とはどう違うのか?
昭和26年9月8日、サンフランシスコで対日平和条約が締結された時、日本が連合国によって、「主権国として国際連合憲章第51条に掲げる個別または集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取極めを自発的に締結することができること」を承認されたのは、パリ不戦条約以来、一貫した米国の「自衛権」に関する考え方を反映するものと解釈することもできる。この平和条約によって、日本は国際法上少なくとも「自衛権」を保有する主権国家であることを確認された。換言すれば、対日平和条約の締結によって、<日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する>という現行憲法第9条1項は、かならずしも国家主権を制限または拘束する条項ではなくなり、パリ不戦条約と同等の拘束力を持つに過ぎない条項となったことが、国際的には確認されたのである。
しかし、対日平和条約と同じ日に締結された日米安全保障条約は、「日本国は、武装解除されているので、平和条約の効力発生の時において固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない」とし、日本が、「その防衛のための暫定措置として、日本国に対する武力攻撃を阻止するため日本国内およびその付近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望する」旨を明らかにした。
一方、これに対して米国は「平和と安全のために、現在、若干の自国軍隊を日本国内およびその付近に維持する意思がある」ことを認めた。そして、それと同時に「日本国が、攻撃的な脅威となり又は国際連合憲章の目的及び原則に従って平和と安全を増進させること以外に用いられうべき軍備をもつことを常に避けつつ、直接及び間接の侵略に対する自国の防衛のため漸増的に自ら責任を負うことを期待する」旨を公にしたのであった。
サンフランシスコ平和条約が日本の「自衛権」を認めたのに呼応して、日米安全保障条約は憲法9条第2項の「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」が規定している「戦力」保持に関する主権上の拘束を撤去した。だが、それにもかかわらず、同じ9条2項の最後の一行「国の交戦権は、これを認めない」については、この条約は何ら触れる所がないばかりか、逆に日本が「攻撃的な脅威となり又は国際連合憲章の目的及び原則に従って平和と安全を増進すること以外に用いられるべき軍備を持つことを常に避け」ることを強調している。つまり、サンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約によって、憲法9条が日本の主権に及ぼしている制限と拘束は、実質上「国の交戦権は、これを認めない」という最後の一行に縮小された。
>>この時、憲法も「戦力は持てるけど交戦はできない」と変えときゃあよかったんだが…日本人には無理だったかな???
防衛負担の増大を要求しつづける米国と、その声に応じて兵器・航空機等を米国から購入し、自衛隊の漸進的強化に努めて来た保守党政権、これに終始反対して非武装中立・護憲・安保破棄を叫び続ける革新野党、という見慣れた構図・・・この構図の原点には旧安保条約の、日本が「直接及び関節の侵略に対する自国の防衛のため漸進的に自ら責任を負うことを期待する」という文面があり、さらにいえばその翌年、1953年12月に、講和後初の国賓として来日した副大統領ニクソン(当時)の、日米協会における演説があるといってもよい。そのときニクソンは、戦後初めて公式に、米国が日本の非武装を企図したことの誤りを認め、次のように述べたのである。
「さて、もし1946年において非武装化が正しかったとすれば、なぜにそれが1953年の現在誤りであるのか!そして。もしそれが1946年においてのみ正しく、1953年の今日においては誤りであるとすれば、何故に合衆国は潔くその誤りを認めないのでしょうか。私はこれから、公務についている人間が果たさなければならぬ務めを一つ果たそうと思います。今日只今この場所において、私は合衆国が1946年に誤りを犯したことを認めます。」
>>時のアメリカ副大統領が日本の非武装化は誤りだったと認めていた。この事実は意図的に?拡散されなかった。護憲派とその意を戴したメディアの仕業?
だが、しかし、これは、憲法9条2項の「交戦権」否認が、日本に課し続けている決定的な「主権制限」の問題を隠蔽し、あたかも日本が現実に「固有の自衛権を行使」できるかのようによそおった、虚構の構図以外のものではありえない。
表向き防衛負担の増額を求めている米国は、決して日本が実際に「固有の自衛権を行使」できないことを知っており、三次防から四次防へと、着々自衛隊の増強をはかりつつあるかのような日本政府は、対米貿易の黒字減らしを期待しているとしても、ゆめにも米国から買い入れたF15等を用いて戦うことを予期していない。全く同様に、非武装中立・安保破棄を訴える革新側もまた、日本の保有する「戦力」が、その「自衛権」と同じ抽象的な「戦力」に過ぎず、実は物の役に立たちかねることを百も承知してるはずなのである。
>>日本が防衛装備を拡充するのはアメリカに対する接待費。1980年当時、日米とも日本がその装備を自発的に使う意思も能力もないことは承知済み。アメリカは日本の戦争遂行の能力やガバナンス力を信用していない。自衛隊が実際に交戦するに必要な法整備も日本にさせない。つまり、実際に自衛隊が戦うときにはアメリカ軍の指揮命令下にはいること前提。
この黙契と親和力の世界では、保守改憲派は、表面上1946年憲法が改正を要するという立場をとり続けているが、サンフランシスコ条約と日米安保条約が国際的に「自衛権」と「戦力」保有を認めたという抽象的事実に満足して、決して「交戦権」の問題を持ち出さず、そのことによって「主権制限」の現状変更を求めようとしないことにしている。
一方、革新護憲派は安保破棄、非武装中立を主張し、きわめて反米的に終始一貫しているように見えながら、ほとんどマッカーサー・ノートに線を崩していない。このことは、「この保証と誓約によって、日本は本来その主権に固有の諸権利を放棄し、その将来における暗然と存続自体を、世界の平和愛好諸国民の誠意と公正に委ねたのである」という1946年3月6日のマッカーサー声明が、革新陣営が国民に示そうとして来たあらゆる世界像に反響し続けていることを見れば、更に明らかである。つまり、革新護憲派は、一見「1946年憲法の正義」を主張し続けることに拠って、米国を当惑させているかのように見えるが、実はそのことによって、「交戦権」を否認し続け、日本が現実に「固有の自衛権を行使」できないようにしておくという米国の対日基本政策に少なからず貢献している。それのみならず、護憲イデオロギーは、期せずしてCCDの検閲を、事実上今日まで存続させるのに役立ちさえしている。いうまでもなく、現行憲法の中には、既述の通り、CCDの検閲指針が巧妙に織り込まれているからであり、憲法についてつねに文字通りの原則論を振りかざす革新派は、意識するとしないとにかかわらず、おのずから仮借ない検閲官の役割を果たし得るからである。
>>GHQが検閲していることを隠し、自粛する…当然メディアの協力が必要になる。新聞やTVがメディアの中心だった時代はメディア自身に自粛させるのは比較的簡単だったし、2020年頃までは電通が広告宣伝を使ってアメリカや日本政府の意を戴してコントロールしていた。この、保守政党、革新政党、メディアのトライアングルが2020年以降「オールド」と呼ばれるに至った・・・これが日本のディープステート。
この黙契と親和力の不思議な世界における米国の立場はどのようなものだろうか。それは、要約すれば「1946年の正義」も「1953年の正義」も共に正しく、同時に行われなければならない、という立場である。この意味でニクソン演説は、やはり事柄の半面にしか触れていないといわなければならない。ニクソンは日本の「非武装化」は誤りだったと言っているが、憲法第9条が誤りだったとは一度も言っていない。「1946年の正義」も「1953年の正義」も共に正しく、同時に行われなければならない、という立場を満足させる唯一の条件が、憲法第9条2項の最期の一行「国の交戦権は、これを認めない」にあり、それ以外のどこにもないことは、改めて指摘するまでもない。「交戦権否認」というこの一点を認め合うことによって、保守・革新両派はともに日本の固有の主権への拘束と制限を黙認し合い、米国はそのことによって、統一社会党結成、保守合同後の日本をまるごとその傘下に収め得た。これが不可思議な親和力の作用と黙契によって成立した”密教”の世界に他ならなかった。池田内閣とケネディー政権の時代に成立したこの”密教”の世界が続く限り、憲法改正問題が表面化しなかったのは当然であった。
1978年夏、防衛庁の丸山次官(当時)は、現行憲法の下では日本は「交戦権」を持たず、万一奇襲攻撃を受けた場合には、自衛隊は、個人の正当防衛を規定した刑法第36条を法的根拠として戦うほかない、との見解を明らかにした。それは、現在日本の主権は、個別的または集団的「自衛権」を承認される程度までには回復しているが、完全に「交戦権」を認められる程度までには回復し切っていない、という主旨に他ならない。
このように「交戦権」を否認または剥奪された国が、有事の際にどれほど深刻な事態に陥らなければならいかは、誰にでも容易に想像できる。例えば、戦時において、陸上自衛隊は敵国から戦時国際法の適用を受ける正規軍とは看做されないかも知れず、不正規のパルチザンとしての扱いしか受けないかもしれない。”専守防衛”の拘束が強いために、どれほど事態が切迫し、戦略・戦術上それがどれほど有利な作戦であることが自明であっても、航空自衛隊は、敵艦隊が領域内に侵入するまでは戦端を開くことができず、みすみす敵に本土侵略の機会を与えかねない。今日の自衛隊は、旧軍に数倍する火力を有し、最新式の装備を誇り、士気もまた旺盛かもしれない。だが、それにも関わらず彼らは、戦う前から、第二次世界大戦末期の日本陸軍将兵以上の絶望的な状態に追い込まれている。もし現状のままで、自衛隊三軍の士官たちにその心情を質せば、彼らは恐らく「自分たちは現行法規に従って戦い、黙って死んで行きます。自分たちが死ねば、きっと分ってもらえるでしょうから」と、微笑をうかべながら、もの静かに語るに違いない。私は現実に、そういう士官たちを何人かは知っている。米国の日本占領は、憲法9条2項によって、日本から「交戦権」を剥奪し、世界のどの国にも通用しない防衛上の虚構を強制した。
>>40数年たった今でも「現行法規に従って黙って死にます」と笑って言う自衛隊士官はいるのか?今でも、それほどの知力・胆力をもった自衛隊員が採用出来ているのか???逆に言うと、有事の際、コントロールが効かず、おかしな言動に走る自衛官がいるのでないか?
日本に対するいかなる侵略に対しても、米国が必ず核攻撃を含む報復を行うことが明らかでない限り、”核の傘”は決して絶対的に日本の安全を保障し得ない。
>>この不確かな期待を少しでも確かにすべく、アメリカの武器を買って接待し、自衛隊はしっかりコントロールできる、とPRする。
核武装について言えば、日本のように細長い島国が核を持つことに、戦略的利点があるとは思われない。もし仮に核を保有しても、日本には、、地理的条件からして、”セカンド・ストライク”の能力がない。そして、”セカンド・ストライク”の能力がないかぎり、核は抑止力としての機能すら発揮できない。
>>地理的にも日本は戦争に向いていない。その上、東京一極集中・・・東京一極集中も、もしかしたら、いざとなったら日本を機能不全に陥れやすいように、というアメリカの意図ではないか?
交戦権を回復して、日本は米国にとって強制されたパートナーではなくなり、一個の自由なパ-トナーに変質する。そのときはじめて、日米同盟は、当初からの占領の継続という色彩を一切払拭して自由な主権国家間の同盟に変質することができる。防衛負担をGNPの何パーセントにするかという議論は、本質的には日米間の経済問題にすぎず、日本の防衛とは直接何のかかわりもない。F15を何機買い足したところで、「交戦権」のない航空自衛隊にとってみれば、ゼロに大きな数字を掛けるようなもので、現実のF15自体がたちまち虚像に変質してしまうからである。
>>いくら金を使っても魂が抜けた自衛隊員や装備は無意味。(それを狙い、期待するのがアメリカであり、革新野党)。この部分、コメの値段が高くなった、という非本質的な騒ぎと軌を一にする。米の価格が安いとか高いとかではなく、まずはお百姓にあるいは農政に魂を入れることだ。
保守陣営は、「交戦権」が、もし憲法の解釈と行政上の慣行によって回復可能であると主張するのであれば、そのことを委曲を尽くし、納得の行くように、国民の前に明らかにしなければならない。そうでなければ憲法9条2項の虚構と現実との間の乖離はますます甚だしくなり、殊に有事に際して、実際に戦わなければならぬ若い国民のあいだの支持を得ることが、いよいよ難しくなるに違いない。そして、もし逆に、憲法の解釈と行政慣行のみによっては、到底「交戦権」の回復が不可能だ、というのであれば、保守派はそのことを率直に認め、いつ、どのようにして憲法の改正を行うのか、もし憲法改正を行わないとすればいかなる理湯で行わないのかを、やはり充分に委曲を尽くし、納得のいくように国民に説明しなければならない。言い換えれば、主権はいつ完全に回復されるのか、主権の制限をなお忍ばなければならないのであれば、それは何故なのかを、つとめて明確にしなければならない。
同じことは革新陣営に関しても、そのまま妥当する。革新派が、もし依然として護憲を主張し続けるのであれば、世界のあらゆる国の中で、日本だけが「交戦権」に関して主権を制限されていることに、果たしてどのような利点があるのかを、わかりやすく国民に説明しなければならない。またもし革新派が、外交努力のみによって有事を回避できると主張するのであれば、「交戦権」を否認され、、主権の行使に重大な制限を受けている国の外交努力が、そうでない国の外交努力と比較して、より大きなバーゲニング・ポジションを獲得できる所以を証明しなければならない。さらにそれにもかかわらず、有事に際会した場合、革新派が以前として非武装中立・安保破棄を唱え続けるつもりなら、中立の侵略にどう対処し、どのような条件によって降伏し、その帰結として日本がどうなるのかという筋書きを、どの国が日本侵略を行う可能性をより多く有するかという見通しとともに、やはり国民の前に明確に示さなければなるまい。誰に、何時、どのような条件で降伏するかという問題は、35年前に日本の指導者たちが、日夜心血を絞り続けた問題であった。
もし米国人に、日本に対する不信感を払しょくし、より強力でより少なく米国に依存するようになった日本に耐え、それを受け入れ、そのような日本と同盟し、共存する決意が生まれれば、疑いなく日米関係の将来は明るいにちがいない。
>>俺は「安保反対」だ。日本を子供扱いのままだ。あるいは「日本アメリカの妾」条約だ。明るい日米関係の前に、日本人が自分の頭で日本国を考え、自国の運命の主人公になるために、どうしたらいいか?…憲法の読み合わせなんてどうか?いや、憲法の前に「国家の必要性」を論ずるべきか?
コメント
コメントを投稿