編集者・ミシマ社代表 三島邦弘の反新自由主義
編集者・ミシマ社代表 三島邦弘が
新自由主義じゃない経済求む!だから、ファン?客?いやサポーター!
(前略)共有地が必要なのは百も承知。だが、その余裕がない。始めたとて、継続していく余裕がない……。
たとえば、独立系書店の走りである同書店は、創業25年目を迎える。店主の大井実さんは、一見、穏やかそうな風貌(ふうぼう)のなかに超ロックなスピリットを秘めており、さまざまな「共有地的」試みを先駆けてきた。先日、サントリー地域文化賞を受賞したブックオカの創始者の一人で、今では各地で見られる「地方×本」のイベントをまっさきにおこなった人物である。個人的には、敬愛してやまない同志の一人だ。
その大井さんとは幾度も公の場で対談をしてきたが、今回、しみじみと「歳もあるだろうけど、ちょっとつかれた」とおっしゃった。
(つかれた)
火炎地獄さながらだった夏の疲れもあるだろう。むろん、積年の疲れもあるにちがいない。ブックスキューブリックが実践する共有地的な試みのひとつに箱崎店での「トークイベント」があるが、この夏は目白押しだったようだ。イベントはたのしいが、疲れる。私も大いに実感するところだ。そうしたすべてが重なっての疲れだろうが、それだけではない気がする。そのとき、京都で飲食業を営む先輩が夏のある日、渋い表情で語ったのを思い出した。
「なんか、みんな覇気ないよな。運送の人も、商店街の人も、ちょっと前までなかったようなミスをするし、そのことに気づいてもいない。なんか元気がないわ」
もしかすると、私たちが経済活動と呼んでいるものは、底の抜けた大樽(おおだる)へ水を汲(く)む行為のようなものではないか。
そうとは知らずに私たちは日々、せっせと働く。その結果、日本経済という大樽も充実する。個人のがんばりが、大きな経済の発展と直結――。なんてふうになることは決してないというのに。たしかに、そうした幸せな関係性の時期もあったのだろう。だが、今や大樽の底はヒビだらけで、小さな割れ目も片手では収まらない。大樽の中に必要なものをどれだけ汲もうとも、底から漏れ出てしまう。貯まるわけがない。文字どおり、全ての努力が徒労に終わる。
その果ての、覇気のなさなのではないか。つまり、個人や組織の努力だけでは、どうしようもない事態へとすでに陥っている……。
私よりひとまわり上の先達パイオニアの口をついてでた、「つかれた」。それは、私の身にもひと方ならず堪(こた)えるものがあった。
>>>「生きる」ということ自体が、底の抜けた大樽へ水をくむ行為だ、と思う。三島さんは、何のために行きる、と考えるのだろうか??あるいは生きることの意味についてどう考えているのか?
サポーター制度とは何か。今年度の募集の際、私たちはこう記した。
◎ミシマ社サポーター制度は、2013年4月に始まりました。「ちいさな総合出版社」として一冊入魂の出版活動をつづけていくために、そして、次の世代へ紙の本をつないでいくために、私たちの出版活動全般を応援してくださる方々とつくってきた場です。(中略)この制度は、ミシマ社とサポーターさんのあいだのお金やサービスの交換ではなく、いただいた支援をもとにミシマ社が新しい挑戦を続け、結果としてたくさんの読者に「おもしろい本」が届く。そうしたかたちでの経済の広がり、出版活動の広がりをめざしています。(https://www.mishimaga.com/books/mishiman-omise/006429.html
)
今年度のミシマ社のばあい、サポーターさんには「毎月、サポーター新聞」をお送りしている。
とまれ……。
出版社をサポートしたい。そう思ってサポーターになってくださった方々への贈り物のために、出版社内の仕事が圧迫する。
この構図のとおりであれば、本末転倒と言わざるをえない。
実際、ときどき、「毎月送ってくださるの、たいへんじゃないですか」という声をサポーターから頂戴(ちょうだい)する。ある月に、新聞ではなく小冊子をつくって送ったことがあるが、そのときは、「すごい! 感動しました。けど、こんなにすごいのをつくってもらい、皆さんの普段の仕事を圧迫したのでは」と心配してもらった。
いやはや、返礼は実にむずかしい。こうしたら喜んでもらえるかな?と思っておこなう行為が、かえって心配を生む。本来の贈与経済においては返礼は必要ではない。「サポーター→ミシマ社→読者にたいしていい仕事」。これがサポーター制度の基本形である。が、お世話になっているサポーターの皆さんに、「活動報告」というかたちで毎月、サポーター新聞をつくり、お送りする。それだけで十分なのだが、ときおり、思いが高じて過剰になってしまう。
干支(えと)を一周する年月、サポーター制度をつづけてきた。とはいえいまだ、自分たちが「御礼」の気持ちを表すのに使うべき時間とエネルギーとその形の「程度」は、わからないままだ。
それに、という思いもある。それに、労働時間をできる限り減らしていかなければいけない時代にあって、御礼を形にする時間はどこにあるのだろうか。そうでなくても、底が抜けた経済下で、本業そのもので成果を出すことだって簡単ではなく、必然、そのための時間確保もむずかしくなっているというのに。結局、共有地的なるもの、そうした余白や余分やスキマはなくしていくしかないのだろうか。
>>他人を喜ばせようとする行為は「労働」ではない。大樽に底を付けようとする努力だ。つまり、空しい「生きる」という行為の空しさから目をそらし、充実感を与えるものだ。成長と呼んでもよい。三島さんの言う「共有地」を維持する行為はそういうものだろう。だから「働き方改革」に縛られるものではない。目的を設定し、その目的実現を最小限のエネルギー、時間で行うのが新自由主義だとすれば、働き方改革も同じ土俵にある。働き方改革では大樽に底を張れない。以下にあるように、大樽に底を張ることができるのは、「おもしろい」ことに夢中になることだ。言い方を変えれば、働くことに金以外の目的(たとえば面白さ・楽しみ)を見出すことだ。
■おもしろいことをやっていればどうにかこうにか
この日、ジョさんの発言にもうひとつハッとすることがあった。実は、UU出版さんは、拙著『ここだけのごあいさつ』の韓国語版の版元でもある。なぜ、私の本を翻訳して出そうと思ったか。ジョさんは、こう説明した。
「内田樹先生の本やタルマーリー(自家製天然酵母のパン屋)の渡邉格さんの『腐る経済』など、韓国でよく読まれています。それは、新自由主義が加速する社会で、そのアンチテーゼを打ち出す方々の思想を学びたい(と韓国の人たちが思っている)からです。その渦の中心にミシマ社があるように感じていました。この本の翻訳を出すことで、その理由を学びたいと思ったことが(刊行の)理由にあります」
(そっか、そうだったのか)
このとき、大井さんの「つかれた」発言と、「底の抜けた経済」「サポーター制度運営の困難」といった、バラバラに感じていたそれぞれの事象が一本につながった。
新自由主義――。その大きな台風のような勢力にのみ込まれずになんとか、自分たちが主体性をもって動ける、生きていける場所を確保する。そのひとつの実践として、サポーター制度がある。
韓国という目を通すことで、あらためて、その必要性を実感した。と同時に、底が抜けた外的環境下にあって、自分たちが出版という経済活動を維持できているのは、サポーター制度を運営しているからこそなのだ。こう思えた。
サポーターという共有地が社内にある。それによって、新自由主義がもたらす不毛感や多大なる疲弊感やそうした負のいっさいから、自分たちは守られている。
言うまでもなく、返礼のあり方や運用方法などは、時代の変化に応じて、変えていかなければいけない。その方法はこれからの課題だ。答えがあるわけではない。
だが、と思う。だが、サポーター制度運営に充てる時間がきびしくなってきていることと、サポーターという存在の大きさは、比較の対象にならないのだ。
そのことを、韓国の方々との交流を通じて教えてもらった。大きな贈り物をいただいた気がしてならないのだ。たとえばそれは、UU出版から出た拙著のタイトルにある。社員の皆さんで考え、つけてくださったのがこれだ。
『おもしろいことをやっていればどうにかこうにか回る』
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