「人間のAI化」を防ぐ

11月23日付け朝日に

進む「人間のAI化」防ぐには 「大切にすべきなのは五感や肌感覚」

と題して山口大の小川仁志教授(哲学)へのインタビュー記事

――哲学者の立場で、7年前からAIと人間の思考の関係について言及していました。変化を感じますか。

 今ほどではないですが、AIが注目を集めるようになっていたころでした。私が専門としている哲学とは、思考する営み。AIが人間の思考に取って代わるのではという問いに、批判的な立場から訴えたかったという意図がありました。

 その後、対話型AI「ChatGPT(チャットGPT)」の登場もあり、状況は大きく変わっています。それでも私は、やはりAIが人間の思考と並ぶことはないと思っています。

>>その通り。AIは思考しない。単に、デジタル化された過去のデータというか情報をむやみやたらに記憶して、その膨大な蓄積から都度データ、情報を引っ張り出すだけだ。それは「思考」ではない。一方、疑問を感じ、その疑問に一発で適切に答えてもらうべく、AIにどういう風に聞いたらいいのか考えることが「思考」だ。そのうち、「AIにどう聞いたらいいの?」という質問を別のAIに聞くことになるのかな?しかし、むやみやたらに網羅的にデータを記憶するためにデータセンターなるところで莫大なエネルギーを使う。いかにもアングロサクソンあるいはユダヤ的なやり方。もっと無駄のないスマートなやり方はないのか????

過程はブラックボックス

――AIと人間の思考の違いとはなんでしょうか。

 AIが人間のやっているほとんどの営みを代替することは可能になると思います。それ自体がいけないことだとは考えていません。

 では、人間は何をすべきなのか。ここをしっかり考えなければいけない。AIに質問を投げると、すぐに答えが返ってくる。けれど、その過程はブラックボックスです。あくまでAIは道具であり、計算をしているに過ぎない。

 私たち人間は、何かを考えるとき、10年前の思い出と今の経験を混ぜ合わせたり、五感や「肌感覚」を用いたりする。「あいまいさ」や「感情」とも言えますが、この思考の過程こそがAIになくて人間にあるものであり、大切にすべきだと考えます。

>>

「科学」について人間はAIにかなわないからAI任せ、ということだ。つまり、エヴィデンスとか、ルール・法則・理屈とか、「あなたは、○○年▽月▽日、こう言いましたよね。矛盾してますよ」といった揚げ足取りは人間のなすべき仕事でなくなる。「昔はこうだった」もAIに任せて、人間は過去や事実にとらわれず、トランプ並みの朝令暮改で行くのだ・・・そんなの嫌だから、俺は早く死にたいんだ。


――いま、「とりあえずAIに聞いてみる」という人が増えています。

 AIが道具だという前提に立てば、これまでは単に使いすぎに注意していればよかった。しかし、生成AIの浸透で「AIがもう一人の自己」のようになってきている人もいるのではないでしょうか。

 例えば、大学で学生たちに課題を出すとき、一昨年ぐらいまでは「AIを使っても良いでしょうか」というような質問が学生から出たものですが、今や、そんな質問をする学生はいません。なぜなら、AIを使うことは当たり前で、あえて自分の思考と切り離して考えるということもなくなっているからです。

 現代の人間にとって、服を着て出かけるのと同じくらい、AIを使うことも当たり前になっていくのでしょう。自分の生活や思考の中にAIが入り込むことによって、私たちのものの考え方や生き方までもがAIに影響されてしまう。言うなれば、「人間のAI化」が起きている。

>>

ここは、かなり「哲学的」だ。服を着て出かけるのって、当たり前か?服なんて、せいぜい何千年の歴史だろう。人間は、その前何万年も服なんて着ないで暮らしていたのだ。どっちが当たり前なのか?

自分と異なる人間に触れる

――人間が人間らしさを失わないためにはどうしたらよいのでしょうか。

 人間がAI化していると言いましたが、それで良いという人もいるでしょう。しかし私は、それは嫌だという価値観です。

 哲学の世界では「非思考的要素」と呼ばれる、意思や欲望、経験といった人間にしかない要素にもっと意味を見いだすことが大切だと思います。

 人間はその意味を、自身の持つ価値の体系の中に位置づけることができますが、AIにはできない。今のところ、AIには意思や欲望、経験はありませんから、もっともらしいことは言っていても、それらを価値の体系の中に位置づけることはできていないのです。これこそが人間がAI化する防波堤になりうると思っています。

 ――日常生活で意識して「人間のAI化」を防ぐことはできるでしょうか。

 自分と異なる人間に触れる場を、積極的につくることが大切だと思います。私は「哲学カフェ」の実践を20年ほど続けています。哲学カフェは1990年代のフランス発祥で、特定のテーマについて結論を求めることなく対話を重ねるという場です。

 疑問があればまずAIに聞く時代、大人が子どもの話を聞く、子どもが大人の話を聞くという機会は減っていると思います。大人は、経験の少ない幼い子どもの考えに耳を傾ける必要はないと思うかもしれない。子どもも何でもAIが教えてくれる時代に、わざわざAIより知識の劣るおじいちゃんおばあちゃんの話を聞いて何になるの?と思うかもしれない。

 でも、哲学カフェの場では、深いうなずきが見られる場面が多々あります。他者の考えに対する納得のうなずきであり、共感ですね。この共感には、うれしさや恥ずかしさが含まれると思いますが、人間に特有の感情ではないでしょうか。

 多くの人間は、いつか死ぬということを自覚して生きています。いかに生き、いかに死ぬか。死という人間にとって不可避な運命を受け入れるために、私たちは日々、悩みながら生きています。この感覚はAIには絶対に分からないはず。だからこそ、いくらAIと話せる時代でも、やっぱり人は人間と話したいと思うものではないでしょうか。

>>

死という人間にとって不可避な運命を受け入れるために、私たちは日々、悩んでいるのか?俺は、生とは死に向かうクソつまらない過程だと思っていて、死にたくないとも死が怖いとも思わない。生きることが面倒だ。どうしたら生きるのが面白くなるのか?それが悩みだ。俺はどうしたら面白く生きることができるのか、意地でもAIに聞くつもりはない。でも、この質問に対して、AIはいくらでも答えてくれるだろうな。

人間らしさはスロー思考と割り切る

――AIはすぐに返答してくれるというスピード感があります。

 テクノロジーの進化で、あらゆるものにスピードが求められていると思います。でも、人間の思考のスピードには限りがある。

 けれど、切迫感を覚えたり、プレッシャーを感じたりする必要はない。私はあえて、スロー思考を勧めます。速さはコンピューターに任せ、人間らしさはスロー思考と割り切ってしまえばいい。人間がコンピューターに合わせる必要はない。

 我々人間は睡眠時間も必要だし、例えば1時間に読める文章の量にも限りがある。人間らしさとはなんなのかを考えると、互いの失敗談で笑い合えたりしますよね。時につまずきながら、失敗しながら、予定通りにいかないということを身をもって知っている。だからこそ共感できる。そうした対話の過程を大切にするスロー思考をもっと重視するとよいのではないでしょうか。

>>

人間のAI化を防ぐにはスロー思考・・・もう間に合わないだろう。

AIの出てくる前、もっと言えばネットが登場する前、紙メディアからデジタルメディアに変わってから、人間(当時の若者・子供)は鉛筆やペンで書くことをやめると同時に、電子辞書みたいなものに聞けば答が出て来ることに適応・順応してしまった。ややこしい事前の準備や調査抜きで「いつでもどこでも(モバイルな自動販売機のように)」ボタンを押せば答えがすぐ出てこないと満足しなくなってしまった。記憶することもやめて、わからなくなったら、ボタンを押せばすぐ教えてくれるメディアなしには何もできなくなった。これをタイパなどと言うが、すでに「自分の頭で考えようとしなく」なっていたのだ。生成AIが普及する前に、AI化はすでに抜きがたく人間を犯してしまっている。憎むべきパワポも同根。パワポが誘い導くのは、冷静な思考ではなく、嗜好であり、好悪の感覚・感情だ。刺激されるのは、脳みそではなく神経だ。つまり、エンタテインメントのツールだ。”受ける”かどうかが大切になる。YouTubeその他SNSは受ければ金になって、それで飯を食うものが現れる。益々受け狙いとなる。SNSで発信、拡散される動画はスロー思考に反する。スロー思考は本を読むことで行われる。

正しいか、いいか、有益か、なんて無関係。「受ければいい」はニヒリズムだ。その行きつく先は・・・あまり面白くなさそうだ。

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