民主政体下で政治家をする者の気概と感性(塩野七生)
文芸春秋・塩野七生「日本人へ」第255回”殺し文句の効用について”に紹介された、
ギリシアで民主主義政治を体現したペリクレスの言葉…塩野さんの著作「ギリシア人の物語」第2巻”民主政の成熟と崩壊”より…なおこの言葉は、ペリクレス率いるアテネ軍とスパルタ王アルキダモスが率いるペロポネソス連合軍との戦争が始まって1年たった後の戦没者追悼演説で語られた。ちなみにペリクレスは、大富豪の家に生まれ、紀元前461年から31年間、一人でアテネを”民主的に”指導(支配)したが、その時期、アテネは繁栄を謳歌した。彼は、正妻と離婚し、アスパシアという25歳年下の、今でいうホステスあるいはコンパニオンみたいな女と結婚した。つまり、コメを買ったことがなくても農水大臣は立派に務めることができるし、大金持ちで貴族的で女にだらしのない男でも長年政治をリードできる、ということだ。そもそも市民の了解を得ながら政策実現するなどという絶望的に難しいことを一人で31年も続けたということが信じられない。
アテネは、民主主義なので、市民であれば、平等に政治に参加できた。ただし、市民ではない(つまり人間とはみなされない)奴隷がいた。古代ギリシア以来から数えても、人類は奴隷制をやめるのに、実に2000年以上を要した。
ところで、末尾の奴隷の定義を参照すると、現代は、自分以外に何者かに支配され、働かされている”奴隷”ばかりだ。
以下、ペリクレスの言葉:
我々の国アテネの政体は、我々自身が創り出したものであって、他国を模倣したものではない。名づけるとすれば、民主政(デモクラツィア)と言えるだろう。国の方向を決めるのは、少数のものではなく多数であるからだ。
この政体下では、全ての市民は平等な権利を持つ。公的な仕事への参加で得られる名誉も、生まれや育ちに応じて与えられるのではなく、その人の努力と業績に応じて与えられる。貧しく生まれたものも、国に利する業績を上げたものは、出自による不利によって名誉から外されることはない。
我々は公的な生活に限らず私的な日常生活でも、完璧な自由を享受して生きている。アテネ市民は享受している、言論を始めとして各方面にわたって保証されている自由は、政府の政策に対する反対意見はもとよりのこと、政策担当者個人に対する嫉妬や中傷や羨望が渦巻くことさえも自由というほどの、完成度に達している。
とは言っても市民たちの日々の生活が、これらの渦巻く嵐に右往左往して落ち着かない、という訳ではない。
アテネでは、日々の労苦を忘れさせてくれる教養と娯楽を愉しむ機会は多く、一年の決まった日に催される祝祭や競技会や演劇祭は、戦時であろうとも、変わりなく実施されている。
そしてこのことに加えて次に述べることも、われわれと競争相手の生き方の違いを示す例でもあるのだ。
彼の国は外国人を排除することによって国内に安定を図るが、アテネでは反対に、外から来る人々に対して門戸を開放している。他国人にも機会を与えることで、われらが国のより以上の繁栄につながると確信しているからだ。
子弟の教育に関しても、われわれの競争相手は、ごく若い時期から子弟に厳しい教育をほどこすことによって勇敢な気質の持ち主の育成を目指しているが、アテネでは、彼の国ほどは厳格な教育を子弟に与えていない。それでいながら、危機に際しては、彼らより劣る勇気を示したことは一度としてなかった。
われわれは、試練に対処するにも、彼らのように非人間的で過酷な訓練の末に予定された結果として対するのではない。我々の一人一人が持つ能力に基づいての、判断と実行力で対処する。我々が示す勇気は、法によって定められたり、慣習によって縛られるがゆえに発揮されるものではない。一人一人が日々の生活を送ることによって築き上げてきた、各自の行動原理によって発揮されるのだ。
現在諸君が目にするアテネの栄光と繁栄は、これら多くの無名の人々による成果であり、これこそがこのアテネにふさわしい、永遠の命を与えることになるのである。
我々は美を愛する。だが節度を持って。われわれは知を愛する。しかし溺れることなしに。
我々は、富の追及にも無関心ではない。だがそれも、自らの可能性を広げるためであって、他人に見せびらかすためではない。
アテネでは、貧しいことは恥とはみなされない。だが、貧しさから抜け出そうと努力しないことは恥とみなされる。
私的な利益でも尊重するこの生き方は、それが公的利益への関心を高めることにつながると確信しているからである。私益追究を目的に行われた事業でも立派に応用は可能であるのだから。
このアテネでは、市民は誰にでも公的な仕事に就く機会が与えられている。ゆえに、政治に無関心な市民は静かさを愛する者とはみなされず、都市国家を背負う市民の義務を果たさないものとみなされるのだ。
これが、諸君が日々目にしている、ギリシア人すべての学校と言ってもよいアテネと言う国である。戦没者たちは、このアテネの栄光と繁栄を守るために、その身を捧げたのであった。
この人々の尊い犠牲に国家が報いることは、その犠牲を心にとどめ続けることと、彼らが残した遺児たちの成年に達するまでの養育を、経済面で保証することぐらいしかない。
だが、アテネ市民全員に約束できることは、まだ一つある。それは戦時とて海陸双方の戦力を増強せざるを得ないとはいえ、その一方では、市民の日常生活が以前と変わりなく続けられるよう、全力を尽くす、ということだ。なぜなら、この双方とも成し遂げてこそ、アテネは、アテネの名に恥じない都市国家であることを明らかにすることになるからである。
さあ、遺族たちはまだしばらくの間、肉親を失った哀しみにひたるがよい。だが、そのあとは家路につかれよ。他の人々と同じように。
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ペリクレスの死後アテネは衆愚政治に陥る。塩野さんの言葉:
民主政のリーダー…民衆(デモス)に自信を持たせることができる人
衆愚政のリーダー…民衆(デモス)が心の奥底に持っている漠とした将来への不安を煽るのが実に巧みな人
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古代のギリシアは、市民皆兵の世界である。市民権を持つ20歳以上の成年男子のみが、国政への参与という市民に与えられた権利を行使でき、祖国防衛と言う義務を持つとされていたからである。スパルタではその意味での市民は常に1万前後であったのに対し、アテネでは5万から6万はいた。スパルタでは農業に従事するヘロットや商工業が仕事のペイオイコイには市民権は与えていない。だが、アテネではローマ人がプロレターリと呼ぶことになる、資産がないので生活の糧は日々の仕事で稼ぐしかない最下層の人々にも市民権は与えられていた。
民主政によって、アテネは、どこよりも多くの兵士を徴兵することができた。
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ペリクレスは、批判や非難や中傷には慣れていた。だが、その日の男はしつこかった。公務を続けるペリクレスのそばで、口汚く非難を浴びせ続けたのである。それに対し、ペリクレスは、一言も言い返さず、怒った様子はも見せなかった。ペリクレスが男に一切応じなかったのは、言論の自由を乱用する愚か者に対する、強烈な軽蔑故の振る舞いである。怒りもしなかったのは、この種の愚か者の水準まで降りて行くのを、拒否したからに過ぎなかった。怒りとは、相手も対等であると思うから、起こる感情なのだ。しかし、こうも貴族的でこうも非民主的な男によって、アテネの民主政は、それ以前にもそれ以後にも実現しなかったほどに機能できたのであった。
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COPILOTによれば:
古代アテネには奴隷が存在していました。
🧱 奴隷制度の概要(古代アテネ)
奴隷はアテネ社会の重要な構成要素であり、紀元前5世紀には人口の約3分の1が奴隷だったと推定されています。
奴隷は市民によって個人所有され、売買の対象となっていました。
主な労働は以下の通りです:
家事や育児などの家庭内労働
農業や鉱山での肉体労働
手工業や商業活動への従事(富裕層の作業所など)
📜 奴隷になる理由
戦争捕虜として連れてこられた異民族
借金返済のために自らを奴隷として差し出した市民(借財奴隷)
植民地から商品として売られた人々
⚖️ 法的地位
奴隷は市民権を持たず、政治参加も認められていませんでした。
奴隷の基本的な定義
人間としての権利や自由を認められず、他人の所有物として扱われる人間
所有者の全面的な支配を受け、労働を強制され、譲渡・売買の対象となる
古代ギリシャ・ローマ、近代アメリカの黒人奴隷、中国や日本古代の「奴婢(ぬひ)」などが例
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