プラトン「国家」(藤沢令夫訳)
この本、 1979年初版が出た。1970年代はまだまだ、翻訳が未熟だった。俺も1970年代、マルクスやらウェーバーやらを読もうとした。当然、翻訳ものだ。日本語として徹底的に悪文だった。これを読み続けるのは拷問だった。それで、日本人が書いたマルクスやウェーバーの解説の文庫本を買っては読んだ。
翻訳者に「読者に理解してもらおう」という意識はあったのか???もっと言えば、翻訳者は原文を理解していたのか???
さて、この「国家」も理解しにくい日本語だ。その上、対話という形式でソクラテスが弟子その他と対話する形式だ。たとえ話、レトリックが多く、そのたとえ話やレトリックを理解するにはギリシア文化に対する理解が必要なので、ますます難解になる。「ソクラテスはこう言いたかった(こう言った)」と、エッセンスだけを書いてくれれば、文章は大分短くなる。そういう不満を感じながら1回読み終わり、投げ出そうと思ったが、もう1回読み返す。すると「ソクラテスはこう言いたかった」という箇所に見当がつくようになって、かなり理解は進んだ。タイパは最悪だネ。
さて、以下抜粋:
もしすぐれた人物たちだけからなるような国家ができたとしたら、おそらくは、ちょうど現在、支配者の地位に就くことが競争の的になっているのと同じ仕方で、支配の任務から免れることが競争の的になっていることだろう。そしてそのときこそ、真の支配者とはまさしく、自分の利益ではなく被支配者の利益を考えるものだということが、はっきりと分かるだろう。だからこそ、識者ならば誰しも、他人を利するために厄介なことを背負い込むよりも、他人から利益を受ける方を選びたがるのだ。
魂には、およそ他の何物によっても果たせないような働きが何かあるのではないか?たとえば配慮すること、支配すること、思案すること、およびこれに類することすべてがそうだ。はたして魂の他にこれらのはたらきをすると考えて然るべきもの、これらがその固有の仕事であると言いうるものが何かあるだろうか?さらに、生きることはどうだろう。それをわれわれは、魂の働きであると言わないだろうか?劣悪な魂は必ず劣悪な仕方で支配したり、配慮したりするし、すぐれた魂はすべてそうしたはたらきを善くおこなう。正義は魂の徳の優秀性であり、不正は魂の悪徳(劣悪性)だ。善く生きる人は祝福された人間であり、そうでない人はその反対だ。従って正しい人は幸福であり、不正な人はみじめである。
そもそも国家というものがなぜ生じて来るかと言えば、それは、我々が一人一人では自給自足できず、多くのものに不足しているからなのだ。ある人はある必要のために他の人を迎え、また別の必要のためには別の人を迎えるというようにして、われわれは多くのものに不足しているから、多くの人々を仲間や協力者として一つの居住地に集めることになる。このような共同居住に、われわれは「国家」という名前を付ける。必要の内第一で最大のものは、生きて存在するための食糧の備えだ。そして第二は住居のそれ、第三は衣服類のそれだ。それぞれの仕事は、一人の人間が、自然本来の素質に合った一つのことを、正しい時期に、他の様々なことから解放されて行う場合にこそ、より多く、より立派に他の様々なことから解放されて行う場合にこそ、より多くより立派により容易になされるということになる。
我々の国の守護者たちは、他のすべての職人仕事から解放されて、もっぱら、国家の自由を作り出す職人としてきわめて厳格な腕を持った専門家でなけれならず、およそこの仕事に寄与することのないようなほかに一切の営みに手を出してはならないという、この原則を我々が守り通そうとするならば、彼ら守護者たちは、ほかのことを何一つ仕事として行ってはならないのと同様に、真似することも許されない。そしてもし真似するのであれば、彼らにふさわしいもの、すなわち勇気ある人、節度ある人、敬虔な人、自由精神の人、そしてすべてこのような性格の物をこそ、早く子供のときから真似すべきであって、逆に賤しい性格のものごとは、実際に行ってもならないし、それを真似るのが上手であるような人間であってもならないのだ。
それでわれわれが気にかけて育成し、すぐれた人物とならねばならぬと言っている人々が男でありながら女の真似をすることをー若い女であれ年取った女であれ、あるいは夫を罵ったり、自分が幸福であると思って神々に対して争ったり驕り高ぶったりしている女にせよ、あるいは災難のうちに悲しみと嘆きにくれている女にせよ-決して許さないだろう。
神は君たちを形作るに当たって、君たちのうち、支配者として統治する能力のある者には誕生に際して金を混ぜ与えたのであって、それゆえにこの者たちは最も尊重されるべき人なのである。またこれを助ける補助者としての能力ある者たちには銀を混ぜ、農夫やその他の職人たちには銅を混ぜ与えた。国を支配する者達に神が告げた第一の最も重要な命令は、彼らが優れた守護者となって他の何よりもまして見守らなくてはならぬもの、他の何よりも注意深く見張らなければならぬのは、これら子どもたちのこと。すなわち、子供たちの魂の中にこれらの金属のどれが混ぜ与えられているか、ということである。そしてもし自分の子供として銅や鉄の混ぜ与えられた者が生まれたならば、いささかも不憫に思わず、その生まれつきに適した地位を与えて、これを職人や農夫たちのなかへ追いやらねばならぬ。またもし逆に農夫や職人たちから金あるいは銀の混ぜ与えられた子供が生まれたならばこれを尊重して昇進させ、それぞれを守護者と補助者に地位につかせなければならない・・・鉄や銅の人間が一国の守護者となる時はその国が滅びる・・・
守護者はまず第一に万やむを得ないものを除いて、私有財産と言うものを一切所有してはならない。つぎに、入りたいと思うものが誰でも入っていけないような住居や宝蔵は、一切持ってはならない。暮らしの糧は、節度ある勇敢な戦士が必要とするだけの分量を取り決めておいて、他の国民から守護の任務への報酬としてちょうど一年間の暮らしに過不足のない分だけを受け取るべきだ。ちょうど戦地の兵士たちのように、共同食事に通って共同生活をする。金や銀については、彼らはその魂の中に神々から与えられた神的な金銀をつねにもっているのであるから、このうえ人間世界のそれを何ら必要としないし、それに、神的な金銀の所有をこの世の金銀の所有によって混ぜ汚すのは神意にもとるものだ。国民のうちで彼らだけは金や銀を取り扱い振れることを許されないし、また金銀をかくまっている同じ屋根の下に入ることも、それを身に着けることも、金や銀の器から飲むことも、禁じられなければならない。
国家が一つであることをやめることなしに増大できるところまで増大させ、その限度を超えて増大させてはならない。守護者たちは、国家が小さくもならず、見掛けだけ大きくなることもなく、十分であり、かつ一つであるようにと、あらゆる手段をつくして見張らなければならない。
若い者は年長者の側では、しかるべく沈黙していることとか、立ち上がって席を譲ることとか、両親に仕えて世話することとか、さらには髪の切り方や服装や履物などの身だしなみ全般のことなどは法律によって規定するのは愚かなことだ。そんなことを言葉や文字で立法化してみたところで、効果もないし、長続きもしない。
誰が支配しなければならないかについて、支配している人々と支配されている人々の間に同一の考えが成立しているような国家・・・節制はその国家全体に絃の全音域に行き渡るように行き渡っていて、最も弱い人々にも最も強い人々にも、またその中間の人々にも、完全調和の音階のもとに同一の歌を歌わせるようにするものなのだ。ここで言う強い人々と弱い人々とを区別する点は、知恵であれ、力であれ、人数の多少であれ、財産であれ、その他君の望む観点であってよい。いずれにせよこのようにして、我々は、まさにこのような合意こそが節制に他ならないと、きわめて正当に主張することができる。すなわちそれは、国家の場合であれひとりひとりの個人の場合であれ、素質の劣ったものと優れた者の間に、どちらが支配すべきかということについて成立する一致協和なのだ。
生まれつきの素質において職人であるのが本来の人、あるいは何らかの金儲け仕事をするのが本来である人が、富なり、人数なり、躰の強さなり、その他これに類する何らかのものによって思い上がった末、戦死の階層の中に入って行こうとしたり、あるいは戦士に属する者がその素質もないのに、政務を取り計らって国を監視・守護する任に着こうとして、これらの人々がお互いの仕事を兼ねて行おうとするような場合は、こうした階層同士のこのような入れ替わりと余計な手出しとは、国を亡ぼすものである。これが国家に対する不正である。逆に金儲けを仕事とする種族、補助者の種族、守護者の種族が国家においてそれぞれ自己本来の仕事を守って行うことは正義に他ならず、国家を正しい国家たらしめる。
最もすぐれた男たちは、最もすぐれた女たちと、できるだけしばしば交わらなければならないし、最も劣った男達と最も劣った女たちは、その逆でなければならない。また一方から生れた子供たちは育て、他方の子供たちは育ててはならない。そしてすべてこうしたことは支配者たち自身以外には気づかれないように行われなければならない。若者たちの中で戦争その他の機会にすぐれた働きを示す者達には、他の様々な恩典や褒美と共に、特に婦人たちと共寝をする許しを、他の者よりも多く与えなければならない。そしてその都度生れて来る子供たちは、そのために任命されている役職の者に引き渡される・・・<君主制=優秀者支配制>
優れた人々の子孫は、その役職の者たちがこれを受け取って保育所へ運び、国の一隅に隔離されて住んでいる保母たちの手に委ねるだろう。他方、劣った者たちの子孫やまた他方の者達の子で欠陥児が生まれた場合には、これをしかるべき仕方で秘密のうちに隠し去ってしまう。だが、やがて彼らの目を逃れて元々がその任に値しない者達が父親たちに代わって権力の座につく。鉄と銅の種族は金儲けと土地や家や金や銀の所有の方へと引っ張り、他方、金と銀の種族は生まれつき貧しくはなく魂において富んでいるから、徳と昔からの制度の方へと導こうとした。やがて彼らは妥協して土地や家を分配して私有することに同意し合う。
いろいろのものを聞いたり見たりすることの好きな人達は、美しい声とか、美しい形とか、またすべてこの種のものによって形作られた作品に愛着を寄せるけれども、美そのものの本性を見極めてこれに愛着を寄せるということは、彼らの精神にはできないのだ。いろいろの美しい事物は認めるけれど、美それ自体は認めもせず、それの認識にまで導いてくれる人がいても、ついて行くことができないような者は、夢を見ながら生きている。それは何かに似ているものをそのままに似像であると考えずに、それが似ているところの当の実物であると思い違いすることだ。反対に美そのものが確在すると信じ、それ自体と、それを分け持っているものとをともに見て取る能力を持っていて、分け持っているものの方を元のもの自体と考えたり、逆に元のもの自体をそれを分け持っているものであると考えたりしないような人、このような人は目を覚まして生きている。そのような人はほんとうに知っている人であるから、われわれはその精神のあり方を知識であると言うのが正しい。これに対して他方の人は、思わくしているにすぎない。それぞれのもの自体を・・・恒常不変に同一の在り方を保つものを・・・観得する人たちこそは知っているのであって思わくしているのではない。そういう人たちを愛知者・哲学者と呼ぶ。
たしかに哲学をしている最もすぐれた人々でさえ、一般大衆にとっては役に立たない人間なのだ。ただし、役に立たない事の責めは、役に立てようとしない者たちにこそ問うべきであって、優れた人々自身に問うべきではない。なぜなら、舵取り人の方から水夫たちに向かってどうか自分の支配を受けてくださいとお願いするというようなことは本来あるまじきことだからだ。知者たちの方から金持ちの家の門をたたくというのも同様。本来から言えば、金持ちであろうが貧乏であろうが病気になれば医者の門をたたかなければならないし、一般に支配を受ける必要のある者はすべて、支配する能力のあるものの門をたたかねばならぬ。いやしくも真に有為の支配者であるならば、支配者の方から被支配者に向かって、支配されてくれなどと願うべきではない。
心底から学ぶことを好む者は、真実在に向かって熱心に努力するように生まれついているものであって、一般にあると思われている雑多な個々の事物の上にとどまって、ぐずぐずしているようなことはないのだ。そのような人は、真実在に触れることがその本来の機能であるような魂の部分、真実在と同族関係にある部分・・・によってまさに何々であるところのものと呼ばれるべき、それぞれのものの本性にしっかりと触れるまでは、ひたすらに進み、勢いを鈍らせず、恋情をやめることがない。彼は魂のその部分によって真の実在に接し、交わり、知性と真実とを産んだうえで、知識を得て、まことの生活を生き、育まれて行く、そのようにしてはじめて、彼の産みの苦しみはやみ、それまではやむことがないのだ。
この動物にはどのようにして近寄り、どのようにして触れなければならないか。どういう時に一番荒々しく、あるいはおとなしくなり、何が原因でそうなるのか。逆にこちらからどういう声をかけてやれば穏やかになったり猛り立ったりするか、等々・・・こういったすべてのことを、長い間一緒にいて経験を積んだおかげで、よく呑み込んでしまうと、彼はこれを「知恵」と呼び、ひとつの技術のかたちにまとめ上げた上でそれを教える。その動物が考えたり欲したりする、そういったさまざまのもののうち、何が美であり醜であるか、何が善であり、悪であるか、何が正であり、何が不正であるかについて、真実には何一つ知りもしないで。こうした呼び方のすべてを、彼はその巨大な動物の考えに合わせて用いるのだ。つまり、その動物が喜ぶものを「善いもの」と呼び、その動物が嫌うものを「悪いもの」と呼んで、ほかにはそれらについて何一つ根拠をもっていない。要するに必要やむを得ざるものを「正しい事柄」と呼び、「美しい事柄」と呼んでいるだけだ。種々雑多な人々の集まりからなる群衆の好みや気質をよく心得ていることをもって、「知恵」であると考えている人々。そういう者は、いま述べたような動物飼育者とくらべて、いささかでも違うところがあるだろうか?実際、もし誰かがそういう群衆と付き合って、自分の詩その他の制作品や国のための政策などを披露し、その際必要以上に自分を多数者の権威に委ねるならば、そのような人は、何でも多数者がほめる通りのことを為さざるを得ない。けれどもその多数者がほめることが、ほんとうに善いことであり美しいことであるという理由付けの議論となると、噴飯ものだ。
若者や子供の頃は、若い年ごろにふさわしい教育と哲学を手掛けるべきだし、身体が成長して大人になりつつある間は、身体のことをよく配慮して、哲学に奉仕するだけの基礎を作らなければならない。年齢が長じて魂の発育が完成期に入り始めたら、こんどはその方の知的訓練を強化すべきである。そして、やがて体力が衰えて政治や兵役の義務から解放されたならば、その時こそ初めて聖域に草はむ羊たちのように自由の身となり、片手間の慰み事をのぞいては他の一切をなげうって、哲学に専心しなければならない。そうしてこそ人は幸せに生きることになり、死んで後はあの世において自分の生きて来た生の上にそれにふさわしい運命を付け加えることになろう。
現在多くの国々を統治しているのは影を巡ってお互いに相戦い、支配権力を求めて党派的抗争にあけくれるような人達であり、彼らは支配権力を握ることを、何か大変善いこと(得になる事)のように考えているのだ。しかしおそらく真実はその国において支配者となるべき人たちが、支配権力を積極的に求めることの最も少ない人間であるような国家、そういう国家こそが最もよく、内部的な抗争の最も少ない状態で、治まるのであり、これと反対の人間を支配者としてもった国家は、その反対である。
天空にあるあの多彩な星は、それが目に見える領域にちりばめられた飾りであるからには、このような目に見えるもののうちではたしかに最も美しく、最も正確ではあるけれどもしかし、真実のそれと比べるならば、はるかに及ばないものと考えざるを得ない。真実のそれとはすなわち、真に実在する速さと遅さが、真実の数とすべての真実の形のうちに相互の関係において運行し、またその運行の内に内在するものを運ぶところの、その運動のことであって、これらこそはただ理性(ロゴス)と思考によってとらえられるだけであり、視覚によってはとらえられないものなのだ。
言論の修練にあずかる期間としては5年ということにして、その期間が終わった後で、戦争に関する事柄の統率などの、若いものに適した役職を義務として課さなければならない。そうした実務の中で更にもう一度、あらゆる方向への誘惑に対して確固として自己の分を守り続けるのか、それとも動揺してわきへそれることがあるだろうかということを、試されなければならない。その期間は15年で、そうして50歳になったならば、ここまで身を全うし抜いて実地の仕事においても知識においても、全てにわたってあらゆる点で最も優秀であった者達を、いよいよ最後の目標へと導いていかねばならない。それはつまり、これらの人々をして、魂の眼光を上方に向けさせて、全てのものに光を与えているかのものを、直接しっかりと注視させるということだ。そして彼らがそのようにして善そのものを見て取ったならば、その善を模範として用いながら、各人が順番に国家と個々人と自分自身とを秩序づける仕事のうちに、残りの生涯を過ごすように強制しなければならない。すなわち、彼らは、大部分の期間は哲学することに過ごしながら、しかし順番が来たならば、各人が交替に国の政治の仕事に苦労を捧げ、国家のために支配の任につかなければならないのだ。そうすることを何か素晴らしい仕事と見なすのでなく、やむを得ない強制的な仕事と見なしながら・・・そしてこのようにしはがら、常にたえず他の人々を自分と同じような人間に教育し、自分に代わる国家の守護者を後に残したならば、彼らは幸福者の島へと去ってそこに住まう。
現在国の中にいる10歳以上の子供を全て残らず田舎へ送り出してその子供たちを引き取って、いま親たちがもっているさまざまの習性から引き離した上で、まさに我々が先述したようなやり方と法のなかでこれを育てる。このようにすれば、われわれが説いたような国家と国制は最も速やかにかつ最も容易に確立されて国自身が幸福になるとともに、国を成立させている民族も最も多くの恩恵に浴することになる。<名誉支配制>
金の一杯入った宝蔵が、国制を名誉支配制から寡頭制へと変化させた。すなわち、彼らは自分自身のための金の使い道を見つけ出してそれに都合の良いように法を曲げるのだ。彼らはお互いのやり方を見て競い合うことにより、自分たちのところの大多数のものを、同じそのような人間に仕上げることになる。彼らは殖財の道をひたすら前進して、金を作ることを尊重すれば尊重するほど、それだけますます徳を尊重しないようになる。富と徳とは元来そういう対立関係にあるのではないだろうか。だから一国のうちで富と金持ちの人々が尊重されるのに応じて徳と優れた人々は、尊重されなくなるのだ。こうして彼らは勝利を求め名誉を愛する人間であることをやめて金儲けを求め金銭を愛する人間になり、そして金持ちの人を賞賛し讃嘆して支配の座につけ、貧乏な人を軽んじることになるのだ。まさにこの時点において、彼らは寡頭制の基準を規定した法律を制定する。すなわち、財産が規定額に達しない者は支配の役職に参加できないことを宣告するのだ。
寡頭制では自分の持ち物をすべて売り払うことができて、他人がそれを手に入れることが許されるということ、そして売りつくした後、国の構成員としてのなんらかの役割も果たすことなしに、国家のうちに住み続けることが許されるという点だ。商売人でもなければ職人でもなく、騎兵でもなければ重装歩兵でもなく、ただ貧民・困窮者と呼ばれながら。
寡頭制の、出来るだけ金持ちとならなければならないという善として立てられたこの目標のあくなき追及こそが、寡頭制から民主制への変化の因となる。寡頭制の支配者たちは、子供を贅沢に甘やかし、身体的にも精神的にも苦労を嫌がる人間にし、また快楽に対しても苦痛に対しても抵抗力のない、柔弱な怠け者にする。そして自分たち自身を、金儲け以外のことには一切心を向けないような人間となし、徳への配慮についても貧しい人々と比べて何らまさるところのない人間にしてしまう。そして貧乏な人々は段々、自分たち貧乏人が臆病だからこんな連中が金持ちでいられるのだ、と考えるようになる。内乱の結果、貧しい人々が勝って金持ちのあるものは殺し、ある者は追放する。そして残りの人々を平等に国制と支配に参与させるようになった時、民主制が生まれる。
民主制国家は自由が支配しており、人それぞれがそれぞれ気に入るような自分なりの生活の仕方を設計することになる。この国制のもとでは他のどの国よりも最も多種多様な人間たちが生まれて来る。たとえ支配する能力があっても支配者とならなければならない何らの強制もなく、さりとてまた望まなければ支配を受けなければならないという強制もない。また他の人が戦っているからといって、戦わなければならないということも無ければ、他の人々が平和に暮らしていても、平和を欲しないなら無理に平和に過ごさなければならないということもない。このような国制の国では、人々が死刑や追放の判決を受けた後も相変わらずそこにとどまって、公然と歩きまわっている。特にずば抜けた素質を持つものでない限り、早く子供の時から立派で美しいことの中で遊び、すべて立派で美しい仕事に励むのでなければ、決して優れた人物とはなれないだろう、といった考えは高邁なおおらかさで足下に踏みにじられる。ここでは、国事に乗り出して政治活動をする者が、どんな仕事と生き方をしていた人であろうと、そんなことは一切気にも留められず、ただ大衆に好意を持っていると言いさえすれば、それだけで尊敬される。民主制は、快く、無政府的で、多彩な国制であり、等しい者にも等しくない者にも同じように一種の平等を与える国制だ、ということになる。
民主制の青年は慎みをお人好しの愚かしさ、と言い、節制を勇気のなさと呼ぶ。程の良さとしまりのある金の使い方を野暮だとか自由人らしからぬ賤しさだとか理屈をつける。次に傲慢を育ちの良さ、無統制を自由、浪費を度量の大きさ、無恥を勇敢と呼ぶ。こうして、その時々に訪れる欲望に耽ってこれを満足させながら、その日その日を送って行く。ある時は酒に酔いしれて笛の音に聞きほれるかと思えば、次は水しか飲まずに身体を痩せさせ、あるときはまた体育にいそしみ、ある時にはすべてを放擲してひたすら怠け、あるときにはまた哲学に没頭して時を忘れるような様子をみせる。しばしばまた彼は政治に参加し、壇に駆けあがって、たまたま思いついたことを言ったり行ったりする。ときによっては軍人たちを羨ましく思うと、そちらの方へ動かされるし、商人たちが羨ましくなれば、こんどはその方へ向かって行く。こうして彼の生活には、秩序も無ければ必然性もない。しかし彼はこのような生活を、快く、自由で、幸福な生活と呼んで、一生涯この生き方を守り続ける。
寡頭制国家がそれゆえに成立したところの要因、それは富であった。そして富へのあくなき欲求と金儲けのために他のすべてをなおざりにすることが、寡頭制を滅ぼした。民主制国家が善とするところのものがあって、そのものへのあくなき欲求がこの場合も民主制を崩壊させた。それは自由だ。生まれついての自由な人間が住むに値するのは、ただこの民主制国家だけである。民主制国家が自由を渇望したあげく、たまたまたちの良くない酌人たちを指導者に得て、そのために必要以上に混じりけのない強い自由の酒に酔わされるとき、国の支配の任に当たる人々があまりおとなしくなくて、自由をふんだんに提供してくれないような場合、国民は彼ら支配者たちをけしからぬ連中だ、寡頭制的なやつだ、と非難して迫害するだろう。すなわち、このような状態の中では、先生は生徒を怖れてご機嫌を取り、生徒は先生を軽蔑し、個人的な養育係の者に対しても同様な態度をとる。一般に、若者たちは年長者と対等に振舞って言葉においても行為においても年長者と張り合い、他方、年長者たちは若者たちに自分を合わせて面白くない人間だとか権威主義者だとか思われないために、若者たちを真似て機知や冗談で一杯の人間となる。こういうことが蓄積されて、国民の魂はすっかり敏感になって、ほんのちょっとでも抑圧が課せられると、もう腹を立てて我慢が出来なくなる。最後には法律さえも、顧みないようになる。絶対にどんな主人をも、自分の上にいただくまいとして。
寡頭制の中に発生してその国制を滅ぼしたのと同じ病が、ここにも発生して、その自由放任のために、さらの大きく力強いものとなって、民主制を隷属化させることになる。まことに何事であれ、あまりに度が過ぎるということは、その反動として、反対の方向への大きな変化を引き起こしがちなものだ。季節にしても、植物にしても、身体にしても、みなそうであって、そして国家のあり方においても、いささかもその例外ではない。最高度の自由からは、最も最高度の野蛮な隷属が生まれてくるのだ。民主制の元では、国の先頭に立つ指導者層の中で最も激しいのが演説し行動し、他の者は演壇のそばに席を占めてぶんぶんとうなり、違った意見を述べるものを許さない。
そして第三の層を形成するのは、民衆ということになろう。これは自分で働いて生活し、公共のことは手出ししたがらず、あまり多くの財産をもっていない。民主制の元ではこの階層は最も多数を占め、いったん結集されると最強の勢力となる。先頭に立つ指導者たちが、持てる人々から財産を取り上げて民衆に分配しながらも、なお大部分を自分で着服できる、その範囲内で。財産を取り上げられる方の人たちは、民衆の集まり(国民議会)で演説したり彼らにできる何らかの方法で行動にでたりすることによって自分たちを防衛せざるを得なくなる。そうすると彼らは、別に変革を起こそうとしているのではなくても、他方の側の者達から、民衆に対して陰謀を企んでいるとか、寡頭制を目論んでいるとかいう非難を受ける。こうして彼らは、最後には民衆が自分の意志によってではないが、無知ゆえに中傷家たちに騙されて彼らに危害を加えようとするのを見ると、そのときはもはや、欲すると欲しないとにかかわらず本当に寡頭制的な人間になってしまうのだ。こうして様々な弾劾や裁判や係争がお互いを巡って行われることになる。そして民衆の常として誰か一人の人間を特別に自分たちの先頭に押し立てて大きく成長させる。僭主(独裁者)が生まれるときは、そういう民衆指導者を根として芽生えて来る。民衆の指導者となった者は、同胞の血を流すことを差し控えることなく、不正な罪を着せては法廷に引き出しては殺し、こうして一人の人間の生命を消し去り、更に人を追放したり死刑にしたりしながら、負債の切り捨てや土地の再配分のことなどをほのめかすならば、このような人間は、その次には敵対者によって殺されるかそれとも僭主(独裁者)になって人間から狼に変身するかのどちらかの道を選ばなければならない。こうしてこのような者こそは財産を持つ人々に対する反乱の首謀者となる。彼はこのような状況に対処すべく、身体を守ってくれる護衛隊を民衆に要求する。敵対者たちをなぎ倒した後、彼は民衆の指導者から僭主(独裁者)になる。
このような人間は、僭主になった当初、はじめの何日かは出会う人ごとに誰でも微笑みかけて優しくあいさつし、自分が僭主であることを否定するだけでなく、私的にも公的にもたくさんの事を約束する。そして負債から自由にしてやり、民衆と自分の周囲の者達に土地を分配してやるなどして、全ての人に情け深く穏やかな人間であるという様子を見せる。しかしながら、一旦外なる敵たちとの関係において、そのある者とは和解し、ある者は滅ぼして、その方への気遣いから解放されてしまうとまず第一に彼のすることは、たえず何らかの戦争を引き起こす。民衆を指導者を必要とする状態に置くためだ。更にその目的はまた、人々が税金を支払って貧しくなり、その日その日の仕事に追われるようになる結果、それだけ彼に対して謀反を企むことができにくくするためでもある。また、誰か自由な考えを持つ者がいて、彼に支配を許さないのではないかという疑いがある場合、そういう者たちを敵の思うようにさせて消してしまうための口実も得られようというものだ。こうしたすべての理由のために、僭主というものは、たえず戦乱の状態を作り出さざるを得ない。
しかし、このようなことばかりしていれば、どうしても国民から次第に嫌われるようになってくる。また、彼を擁立することに協力して現在権力ある地位にある者達の中からは、彼に対してもお互いに対しても自由にものを言い、事態をとがめる者が何人か出て来る。そこで僭主は支配権力を維持しようとすれば、そういう者達のすべてを排除しなければならない。ついには敵味方を問わず、何ほどかでも有為の人物は一人も残さぬところまで。こうして彼は、好むと好まざるとにかかわらず敵となって陰謀を企まなければばらなくなる。
思慮(知)と徳に縁のない者たち、にぎやかな宴やそれに類する享楽につねになじんでいる者たち、彼らはどうやら、下へ運ばれてはまた再び中のところまで運ばれるというようにして、生涯を通じてそのあたりをさまよい続けるもののようだ。彼らは決してその領域を超え出て真実の上の方を仰ぎ見たこともなければ実際にそこまで運び上げられたこともなく、また真の存在によって本当に満たされたこともなく、確実で純粋な快楽を味わったこともない。むしろ家畜たちがするように、いつも目を下に向けて地面へ、食卓へとかがみこみ、餌をあさったり交尾したりしながら身を肥やしているのだ。そしてそういったものを他人より少しでも多く勝ち取ろうとして鉄の角や蹄で蹴り合い突き合いしては、何時までも満たされることのない欲望のために、互いに殺し合うのだ。いくら満たそうとしても、彼らは本当に存在するものによって自分を満たすのではないし、また自己の内なる真に存在する部分、取り入れたものをしっかりともちこたえることのできる部分を満たすものでもないからだ。彼らがなじんでいる快楽というものも、苦痛と混じり合った快楽に過ぎず、真実の快楽の幻影であり、陰影によってまことらしく仕上げられた書割の絵のようなものだ。
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さて、ソクラテスが語るには国制は弁証法的な変遷を経て最後は独裁制に行きつく由。問題は、独裁制のあとは何が来るの?を語っていないこと。というのは、正しく今、民主制から独裁制に代替わりする歴史的的転換点だが、独裁制がどのくらい続いてそしてその後どうなるのか?が語られていない。歴史を振り返っても、独裁制なんて何十年も続くもんじゃないとは分かる。そして再び民主制が復活するんだろうとも見当はつくが・・・
①君主制=優秀者支配制:優秀な者だけが被支配者から頼まれて支配する。支配者に私有財産はない。
いつか、優秀でない者が支配者に混じってしまうので、節制が保たれなくなり、名誉支配制に移る
②名誉支配制:優秀者が支配するという仕組みも考えも残っているが、
優秀でない支配者が私有財産をたくさん持つようになり、やがて支配者間で殖財競争が始まる
③寡頭制:財産が多い者が優秀とみなされ、支配者になる。
支配者は財産以外に誇るもの、力がなくなる。それに気づいた被支配者が支配者に取って代わる。
④民主制:国民の主人は国民(支配者は国民)。古い道徳、権威は壊され、自由平等に。
自由が高じては国民は我慢しなくなる。自分たちは富を奪われている、不平等だ、と言い出して奪われた富を取り戻せ、と言う。
⑤独裁制:一人の支配者とその取り巻きが支配する
富をたくさん持っている人から富を取り上げて国民に再分配することを約束する者が支配者に祭り上げられる。支配者は国民の支持を維持すべく紛争を起こし、戦争をする。独裁者は国内外の敵を排除し続けなくてはならないが、いつかやられる・・・日本軍しかり、ヒトラーしかり、イタリア・ムッソリーニしかり・・・日独伊はいずれもアメリカに負け、降伏して子分になって自由経済・民主主義になった。
別の見方をすれば、アメリカを先頭に、国民国家は、今、
経済:資本主義経済
資本家はコストダウン・効率化を追求する=資本家や外国人が国民から富をだまし取る、とされる。一部の金持ちとその他の国民の格差が大きくなる。
信仰:自由平等
自由が高じると国民は「我慢」をしなくなり、平等を求めて、資本家や一部の金持ちや外国人にだまし取られた富を再分配せよ、と言い出す。
統治:民主主義・法治主義
選挙の時だけ選挙人が主人→立候補者は票欲しさに富の再分配を約束
法は、支配者の都合のいいときに都合のいいように解釈され、適用されるようになる
思想:科学万能・進歩主義
事実だけに基づき、科学的・理性的なアプローチ・思考に基づいて発明をしたり、問題発生の原因を分析して解決法を編み出すのだが、それは、往々にして、更なる解決困難な問題を発生させる。科学や進歩は信じられなくなって、事実かフェイクかは重要でなくなり、好ましいか好ましくないかが重要になって、反科学・反進歩・陰謀論がまかり通るようになる。
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