朝日新聞 神里達博の「月刊安心新聞+」は良い
参議院選挙の結果を見て、ついに日本も本格的なポピュリズムの時代に入ったのかと、驚いた方も少なくないだろう。
世界中で広がりつつあるこの潮流は、しばしば排外主義や差別的な主張を伴い、法の支配や人権など、民主主義を支える基盤を攻撃することも多い。当然、これらは断固、糾弾されなければならない。
だが、単にポピュリズムを全否定すれば済む話でもない。なぜなら、民主主義のある種の側面と、それは深く結びついているからだ。
ポピュリズム研究は現在も続いており、専門家の間でも意見が分かれる部分がある。とはいえ、多くの識者の間で見解が一致しているのは、「社会が『汚れなき民衆』と『悪(あ)しきエリート』に分かれており、民衆の意思を完全に政治に反映させることこそが正義である」という世界観を、ポピュリズムが共有している、という点であろう。
確かに私たちは昔から、そういう「物語」を消費してきた。たとえば「ロビン・フッド」や「鼠(ねずみ)小僧」は、重税を課す権力者や金持ちから金品を奪い、貧しい民衆に分け与え、拍手喝采を浴びる話である。また近年の文学や映像作品などにもそんな勧善懲悪の物語は多々ある。
これらは、おそらく人類に普遍的な型、つまり一種の「神話」なのだろう。だが現実の政治には当然、物語とは決定的に異なる部分がある。
まず、ある人物を「悪しきエリート」と認定する権利は誰にあるのか、という問題である。そしてもう一つは 、「民衆」の利害が一枚岩ではなく、必ず細かな「利害対立」を抱えるという点である。つまり本当の政治問題は、「悪しきエリート」を排除した後にやってくるのだ。
当然ながら近代的な国家は、そのようなやっかいな問題にも対処できるよう、大規模で複雑な仕組みを準備してきた。それはたとえば議会であり、さまざまな行政機関であり、裁判所や政党である。また、そのような社会システムを再生産するための教育機関や、権力と独立したメディアの存在も不可欠であろう。
そこでは、そのような民主主義を維持する仕組みを運営する「スタッフ」が常に必要になるわけだが、その種の仕事はどこの国でも程度の差はあれ「エリート的な色彩」を帯びているものだ。なぜなら制度の運用には専門的知識が必要だし、一定の能力と信頼性を備えた人材を確保するためには、それなりの地位と収入を保証しなければならないからだ。
このような「民主主義の運営スタッフ」と、「一般の人々」の暮らし向きにさほど差がないうちは、ポピュリズムは説得力を持たない。だが、なんらかの理由で市井の人たちの生活が苦しくなってくると、そこに亀裂が入る。多くの場合、「スタッフ」はある種の「役得」によって、暮らし向きが悪化しにくい傾向にあることも、不信の原因になりうる。
また、世界で同時にポピュリズムが拡大している原因については諸説あるが、少なくともグローバル化や新自由主義の浸潤による格差の拡大と、情報技術の発展に伴うメディア環境の激変は関係しているだろう。
従って、この問題を解決するためには、まずなんと言っても「看過できないほどの経済格差」を解消していかなければならない。また、エリート層が社会階層として固定化することも、防いでいく必要がある。
その上で、もう一つ提案したいのが、「民主主義の運営スタッフ」の立場を経験する機会を、できるだけ一般に拡大していく、というものだ。民主主義を維持するためのさまざまな仕事の実態が、一般によく知られていないことも、「不信」の原因の一つだと考えられるからだ。
たとえば裁判員制度は、人が人を裁くことの困難や苦しみを、広く社会で共有するためにも役立つ仕組みである。その経験者の数は人口比であまりにも少ないわけだが、もし行政のシーンにおいて人々の「参加」が十分に一般化すれば、そのインパクトは相当に大きくなるはずだ。
そんなことができるのか、と思う方もいるかもしれない。
しかし地方自治ではすでに、教育やまちづくり、防災や環境対策などにおいて、地域住民による行政への参画の実績がかなりたくさんある。
さらに、私の専門である科学技術社会論という分野では以前から、科学と政治が混じり合う複雑な問題域において、市民が決定に参加する方法を模索し、また実践してきた。
一般の行政プロセスに市民が参加するだけでも難しいように見えるかもしれない。だが、さらに専門的な知識を要する、たとえば地球温暖化問題、生命倫理、エネルギー問題などについて、件数はそう多くはないものの、一般の人々が議論に参加し、実際に公共的な課題の解決に寄与することができた例があるのだ。
このような参加型民主主義が拡大していけば、過激なポピュリズムの登場を遠ざける効果も期待できるだろう。また「選挙だけが民主主義ではない」という大切な事実を市民が再認識する機会にもなるはずだ。
民主主義の基盤を破壊するような暴挙は、絶対に容認できない。だが同時にポピュリズムには、人々の切なる思いが表出したものという側面がある。この状況を、民主主義の深化のための契機にできるかどうか。私たちの社会が今、試されている。
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かみさと・たつひろ 1967年生まれ。千葉大学大学院教授。本社客員論説委員。専門は科学史、科学技術社会論。著書に「リスクの正体」など
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民主主義を守りたければ、
議会、さまざまな行政機関、裁判所、政党、また、そのような社会システムを再生産するための教育機関や、権力と独立したメディアなど、「民主主義の運営スタッフ」の立場を経験する機会を、できるだけ一般に拡大していけ、という意見は俺のかねがね持っているアイデアに近い。参加した「素人」「部外者」が、地球温暖化問題、生命倫理、エネルギー問題などについて、件数はそう多くはないものの、一般の人々が議論に参加し、実際に公共的な課題の解決に寄与することもあるかについては、俺は期待しない。
俺のアイデアは、国民一人一人に20歳なり30歳の一定の年齢までに2年間、エネルギー、国防、情報、食料のセキュリティー、所得の再配分の仕組み(現時点では税務署)の一つで実習することを義務付けろ、というものだ。素人だからそんなに寄与貢献はないだろうが、このような「国を支えるスタッフ」の仕事を若い国民全員に経験させれば、国を持続させるには何が大切かまた日本の国を持続させるにはどうすべきか、について国民に考えさせる効果はあろう。また、2年間の実習期間中にこういう仕事に対する適性をチェックし、いい人材はスカウトする、というアイデアだ。そうやって民主主義を延命することはできるかもしれない。
でも、衆愚は「ロビン・フッド」や「鼠(ねずみ)小僧」といった正義の味方が、法や面倒な民主的手続きの縛りから解放して自由に(つまり独裁者として)活躍して欲しい、と望むから、いずれは民主主義は独裁制に代わる、と思う。
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