岡田憲治(を例に取り上げて)リベラルを揶揄する

岡田憲治は、JBpress への投稿で

そんな私は「リベラル派」だと思われています。でも私はリベラル的価値のいくつかにシンパシーをもっているけれども、決定的に異なる価値観もいくつかもっています。自分では「社会的保守主義者」だと思っているのですが伝わりません・・・

と言っている。つまり、リベラルじゃあないらしいが、リベラル応援派ではあると思う。岡田憲治には、朝日新聞、社民、共産、立憲・・・いわゆるリベラルな既存メディア・政党(=オールドリベラル)に共通して見られる問題がある。以下に岡田による朝日への投稿を引用するが、

「主権国家としてはあり得ない駐留米軍への「思いやり予算」や、米軍が管制権を握る横田空域、日米地位協定による米兵の犯罪への不公正な取り扱いに怒りの声をあげるべきでしょう。」のくだりは問題だ。”主権国家としてあり得ない”が駐留米軍だけにかかるのならいい。ところが、この文章、どう読んでも”主権国家としてあり得ない”のは思いやり予算や、横田空域の管制権、日米地位協定などである。数十年前の共産、社会党は米軍が日本にいること自体を憲法違反、主権国家としてあり得ないもの、と主張していた。それがいつの間にか米軍がいることは(自衛隊があること)は認めましょう、になっている。この点、むしろ、保守派の方が過激で、「自衛隊は違憲な存在だから憲法を変えて合憲にすべきだ」と言う。

駐留米軍出ていけ論・自衛隊違憲論なんて得票上マイナスだから捨てたんだと思うが、違憲な存在を何十年間も認めるのは危うくないか??そのうえ、リベラル・保守を問わず「日本は法の支配する国」と白々しいフェイクを白昼堂々と言い募る。こんなウソに日本国民は何となく感づいているのではないか??

岡田はでも「推し」には、ほぼ葛藤も責任もない。批判や批評が介在する余地もない。推すのは、単にそれが気持ち良いからで、何らかの原因で熱が冷めれば推しをやめればよいだけ。つまり徹頭徹尾「消費者」マインドです。と参政党(支持者)を揶揄するが、別に参政党に限らず、これが選挙=民主主義の行きつく先、衆愚政治だろう。

政治に責任や葛藤を求めるのは無理(時代遅れ)。有権者は消費者になり、政治家には責任も葛藤もない・・・

票にらないから主張を捨てる・変えるのは正しくポピュリズムだ。参政党と同じく一貫性がない。1960年代の学生運動華やかりしころの「自衛隊違憲」「米軍出ていけ」「非武装中立」を蒸し返す政党があってもいい。一周廻って結構票になるかも。トラディショナルリベラルまたはビンテージリベラル・・・

末尾には、石丸君に触発されたか、教育などを通じて消費者を主権者に転換させる、息の長い試みを続けていくしかありません。と。教育も大事だが、違憲状態の放置を解消し、法治国家と言い張るウソをやめることも国の礎ではないか???この点、岡田君、石丸君は国民をどう教育しようというのだろうか??

この岡田君にしろ、石丸君にしろ、戦後民主主義を持続可能なものにしようと言うのかなあ。誰か戦後民主主義なんてご破算にしよう(止揚)ぜ、なんて言わないか?

以下、引用:

SNSで繰り返し「推し」映像を見れば……

 参院選から見えた参政党現象を読み解くキーワードは「推し」です。支持拡大の大きなツールになった動画共有サイトやSNSでは、視聴履歴に応じて好みの情報が次々と表示されます。支持者が見たい情報にだけ繰り返し触れ、同好の士とつながり更に「推し愛」を高め、アンチと敵対していく過程は、アイドルやアーティストへの推し活に極めて似ています。報道機関の出口調査を見ても、SNSを重視した層や30代以下に特に参政党が浸透したことが分かります。

 推し活は多くの場合、その対象に「イノセンス(無垢(むく))」を求めます。その意味では、結党まもない政党は清新さがあり、当然ながら政権の座に就いたこともないため、駆け引きや妥協、取引など「不純な政治」と無縁。最初から既成政党にはない魅力があります。ただ、参政党への投票行動は、かつて新興政党が伸長した際と比べても、よりイノセントでナイーブなものを感じます。

 例えば昨年の衆院選で勢力を伸ばした国民民主党は、いわゆる「年収103万円の壁」見直しなど、減税や手取り増の訴えとそれへの支持に、一定の合理性がありました。しかし参政党への支持には、あまり一貫性が見受けられません。政策からして福祉排外主義、農本主義的自然派志向、文化的極右と一見無関係なものが並び、特に有権者に響いた「日本人ファースト」にしても、そこにあるのは、周囲に外国人が増えるなか「日本人が大切にされていないと言われてみれば、確かにそんな気がする。だったら参政党でよくない?」といったぼんやりした支持。そこに強い排外主義や差別の意識はないでしょう。だからこそ危うい。

政治的「支持」と異質 希薄な葛藤と責任

 「Party identification」という政治学用語があります。政党とは様々な社会的利益を集約、表出する集団であり、それを調整し優先順位をつけて再現するのが議会政治です。仮に自民党と立憲民主党が連立を組むなら、原発や安保法制を容認するか、少なくとも一時棚上げするしかない。そこには大きな葛藤があるはずです。

 主権者も同様で、アイデンティファイ(同一化、帰属)というニュアンスが示す通り、政治における「支持」には本来、世界観や価値観の共有がある。政治的選択とは、何かを選んだ以上、それ以外を選ばなかったという責任を伴います。政治的行為である投票や支持には、対象との双務性や関係性が発生するのです。支持できる候補者や政党がなくても、悩み抜いた上で投票先を選び、選んだ以上はその政治家や政党を監視し続けねばならない。そこにも葛藤が付きものです。

 でも「推し」には、ほぼ葛藤も責任もない。批判や批評が介在する余地もない。推すのは、単にそれが気持ち良いからで、何らかの原因で熱が冷めれば推しをやめればよいだけ。つまり徹頭徹尾「消費者」マインドです。

 「日本人ファースト」を喝采するなら、外国籍住民が日本国民の生活や安全を根源的に脅かす事実があるのか確認すべきだし、まず真っ先に、主権国家としてはあり得ない駐留米軍への「思いやり予算」や、米軍が管制権を握る横田空域、日米地位協定による米兵の犯罪への不公正な取り扱いに怒りの声をあげるべきでしょう。でも参政党支持者に、そのこだわりは感じられません。

「政治に見捨てられた」世代に向き合うべき時

 ただ、このイノセントな推しの主体には、紛れもなく「名付けられていない弱者」とも言うべき存在が含まれています。彼ら彼女らは財務省前で減税を叫ぶ人と同じく、税金と社会保険料の負担に苦しみ、「自分たちは政治から大切に扱われていない」という疎外感を抱えている。「外国人ではなく自分たちに税金を使って」という訴えにリアリティーと切実さがあるのは間違いありません。その支持先はこれまで国民民主党やれいわ新選組、東京都知事選での石丸伸二氏に分かれていましたが、今は参政党に糾合されつつあります。今回の出口調査でも、参政党へ多く投じたのは、いわゆる「就職氷河期世代」にあたる40代、50代の男性でした。

 この「見捨てられてきた」人たちに、外国人は優遇されていない、などとファクトチェック的に「正しい」知識を説くだけでは不十分です。「トンデモ」と頭ごなしに切り捨てれば更に反発を招くだけで、逆効果でしょう。

 まずは彼らのリアリティーに政治が向き合い、本来の「支持」という営みに回収する。その上で、教育などを通じて消費者を主権者に転換させる、息の長い試みを続けていくしかありません。

岡田憲治さん

 おかだ・けんじ 1962年生まれ。専修大学教授。専門は民主主義理論。「なぜリベラルは敗(ま)け続けるのか」「政治学者、PTA会長になる」「教室を生きのびる政治学」「半径5メートルのフェイク論」「言いたいことが言えないひとの政治学」など著書多数。


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