等しい者、等しくない者???
プラトン「国家」に以下の記述:
民主制は、快く、無政府的で、多彩な国制であり、等しい者にも等しくない者にも同じように一種の平等を与える国制だ、ということになる。
>>さて、等しい者、等しくない者って何だ?「国家に貢献する者も、貢献しない者も等しく処遇する」、それが民主主義だ、ということだろう。しかし、結果平等は自由競争を否定し不自由だ。かと言って自由に傾いて機会平等だけだと、著しく結果不平等(大きな格差)となる、それを再び平等にしろ、ということを民が言い出す・・・「一種の平等」と言ったのは、結局民主制では真の平等は実現できぬ、と言いたかったのだろう。
平等と自由ってどこでどうやってバランスを取るか?そのバランスを取るのが政治の役目だ。
ソクラテス、プラトンは「貢献大の者は貢献小の者より厚く、高く処遇されるべきだ」それが真の平等だ、考えていたと思う。だから、民主制なんてきれいごとは、早晩独裁制になる、と考えていたんじゃないか?
閑話休題:
旧約聖書(つまりユダヤ教)では王様に選ばれた者が「神さま,この無に等しい器を用いてくださりありがとうございます。」と言う・・・王様になるには、自らを無にして神様を受け入れる容器となる・・・まるで禅のようだ・・・今は、神様がいなくなってしまい、選挙で「俺は無ではない、こんなに優れてる・能力がある」と衆愚に向かってプレゼンして選ばれるのだ。以下、旧約聖書より:
福島聖書協会「礼拝メッセージ」より:
無に等しい者(サムエル記第一16章1節~23節)
1 「無に等しい者」を選んでくださった神さま
新しい王を選ぶために,神さまは,サムエルをベツレヘム人エッサイのところに遣わしました。神さまが,エッサイの息子の中に王を見い出したというのです。サムエルは,エッサイの息子に会ったとき,エリアブを主に油注がれるものだと思いました。背は高く,容姿もよく,王としての資質を備えていると思ったのです。しかし,神さまは,「容貌や背の高さをみてはならない」といいます。そして,神さまは,エッサイが,自分の子供として紹介するのを忘れるような,数にも数えられないようなのダビデを選びました。ダビデ自身も後に自分のことを「死んだ犬」「一匹の蚤」と表現しています。無どころかマイナスの存在だと思っていました。しかし,神さまは,そのようなダビデを選ぶのです。これが神さまの選びです。
「兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。…すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。」(コリント人への手紙第一1章26節~28節)
私たちが救われたのは,特別の能力があったからではありません。神さまが私たちを選んでくださったからです。無に等しい私をを神さまは選ばれました。これが神さまの選びです。
ですから,私たちが数に入る存在だ,立派な存在だと思えているとき,私たちは決して神さまの器になることはできません。自分には何もない,罪しかない,ダビデのようにマイナスの存在だということを認め,神さまの前に出て行くとき,神さまがその器を用いてくださるようになるのです。
私たちの歩みは,「神さま,この無に等しい器を用いてくださりありがとうございます。」という感謝の日々です。そのような者に神さまの知恵が,神さまの力が働いていきます。主の力が自らの中に働くことを喜ぶ。それがクリスチャンの姿です。
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