安田武「型の日本文化」②
この本は昭和46年~53年にかけて様々な雑誌に書かれたものを集めたもの:
以下抜粋:
近代日本が、自国の過去を一切否定して、ただひたすらに欧米「先進国」の例を範とし、これにおのれを擬そうと腐心した歴史は、しかしさながら、敗戦後初めてのことではなかった。明治9年、わが国に西洋近代医学を移植すべく招かれたドイツ人医師ベルツは、その日記にこう誌していた。
ところが、何と不思議なことには・・・現代の日本人は自分自身の過去については。もう何も知りたくはないのです。それどころか、教養ある人たちはそれを恥じてさえいます。「いや、何もかもすっかり野蛮なものでした。」と私に言明したものがあるかと思うと。またあるものは、わたしが日本の歴史について質問した時、きっぱりと、「われわれには歴史はありません。我々の歴史は今からやっと始まるのです」と断言しました。
だが私の真意はいま、日本の近代を宿命的に支配した欧化主義思想の軽薄さを指摘して却って国粋主義的な発想を鼓吹することにあるのではない。私たちの「近代」にとって、真実の不幸は、こうして「文化」が学問・思想の領域であれ、あるいは電気器具やナベ釜といった類であれ、常にそれは「よそ」からやってくるものという観念が、知識人・一般庶民層を問わず、いつか暗々裏に、人々の間で固定してしまった、ということにあるはずである。
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戦後も日本人は昨日までの「天皇陛下万歳」を捨てて「マッカーサー万歳」になった。つまり、ご利益があるものが神様なのだ。明治新以降は、神様はもっぱら、「よそ」から来るようになった。
「文化」は、農民がその土地をよく耕すことによって、よき収穫を得るように。私たちが日常の生活それ自体、その周辺を丹念に「耕す」ことによってしかありえないはずのものなのだ。それが、あのキケロのいう、あるいは三木清が指摘した「教養ある人間性の総体」ということであり、「礼儀作法から初めて、敵の間でも守られねばならない正義の規則」ということであり、「動物的本能を文化的慣習に変ずる」ことであった。
暮らしとは、季節と共にあった。季節は自然の中にある。自然を「征服」することが文化なのか、自然と「融和」するこtが文化なのか。少なくとも、この国では後者であった。「すきっとした水でない。曇りがある」水が、大音や西山の琴・三味線の糸づくりに合うものだった。「ナイロン」糸では「音色」が違うのである。
あらゆる食べ物が冷凍され、栽培されて、四季を問わず常にある。「まがいもの」としてあるということは、現代の幸福か不幸なのか。暮らしが存在しないところに、どうして「生活文化」がありえよう。文化の「基盤」がないのである。「耕す」べき土地がないのだ。
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少なくとも日本では農が文化の基本だった。「まがいもの」を排して、つまり、手抜きをせず、他人任せにせず、自分でコントロールできる範囲内で、時間ばっかりかけて・・・日本の米、コストは高いよなあ。
謙信は、部下に命じて余った塩を敵の信玄に送らせた。そして経済的争いの行為は軽蔑すべきだと考える、と述べ、「私は塩をもって戦うのではなく剣で戦う」と言った。これもまた明らかに遊びの規律への忠誠を示したものである。
>>日本の戦争のプロ・・・武士が遊びの規律を律儀に守る・・・当時の武士の遊びのルールは、決して「何でもいいから相手をやっつける」ではなかった。これは大東亜戦争まで(以降も?)続いた。一神教だと、こうはいかない。異教徒=何をしても叩き潰すべき悪魔 だ。日本人が戦争に向いていないと思う所以だ。
富貴楼で11歳の延寿は、はじめてお葉が語る清元を聴く。奥座敷から洩れてくる中能島検校との「掛合浄瑠璃」につよく心を打たれ、「自分も一ツ清元を稽古してみようか」という気になったという。「その節回しといい、美音といい、唯々ウットリと妙味に酔わされてしまいました」と、延寿は、その折の「感激」を回顧しているが、実に、不世出の名人五世清元延寿太夫誕生のきっかけは、この時にあったのだ。ここで右のような延寿の回想から、私たちが読み過ごしてならぬことは十一歳の少年延寿に、その時、清元お葉の「節回し」や「美音」を、天下の絶品と聴く耳、つまりその「素養」が既にあったという点であろう。延寿には格別に鋭い天与の才があったにちがいない。だが、そればかりではあるまい。「富貴楼」でお葉の清元を聴く十一歳の時まで、どんな環境に、延寿は成長してきたか。最初に預けられた先の伯母は、芝居茶屋の「看板娘」であった。次が、もと柳橋芸妓の落籍された妾宅。そして最後が横濱「富貴楼」・・・当節風に考えれば、まずあまり好ましい「教育」環境ではないようであるが、一人の「芸人」の生い立ちとしてはどうか。まことに願ってもない恵まれた環境というべきではあるまいか。
>>歌舞伎、能狂言その他、伝統芸能においては、子供が親の技術を引き継ぐ。子供は物心つく前から技術や心構えを見聞きする。当然、モラルも、外部の一般人とは違う。相撲界同様、修行すれば「かたわ」になる。身体だってかたわになるんだから、心や頭だって・・・
富崎春昇は4歳で失明、父玉介を失った翌年、8歳で富崎宗順の門を敲くが、師宗順の稽古は厳格を極めた。習った曲をどうしても思い出せぬ春昇は、三日にわたって食事をさせてもらえず、心身ともに朦朧となって「死ぬよりほかはない」と思いつめる。「杖で水の面を確かめておいてから、私は杖を捨て、下駄を脱ぎました。肩先へずっしりと重みのかかっている両の袂の石を抱えるようにすると、いきなり飛び込もうとしました。その瞬間、様子を怪しんで後をつけて来た近所の女房に抱き留められたのは十二歳の時の事だったという。
>>幸運にも春昇は助けられた。一方で不運にも助けられなかった子供がたくさんいただろう。俺は、それでいいと思う。死屍累々で一握りの芸人がのし上がる。それでいい。
富崎春昇は「自伝」の最初の方で、祖父と父の思い出にまず触れ、「私が自分の芸道修行の上に、何とかしてこの父や祖父の名を恥ずかしめまいと努めてきたことが、どうやら今日まで私を、この道で生かし通してくれた大きな原因になったやと思うております」と述懐する。謙虚な言葉であるが、同時に、「芸の家」に生まれ、生きて来た人間の抜き差しならぬ決意のほどをうかがうこともできる。芸の家に生まれて、そうあるしかない道を、一筋に歩み続けて来た人の、ある意味で宿命的な、決定的な闘いの跡が、穏やかで謙虚な言葉の陰に秘められている。芸の「家筋」をとりつつむ特殊な環境が、日常起居の隅々までをくまなく支配していて、「父や祖父の名を恥ずかしめまい」という覚悟、精進となってゆくのだ。血筋とか天才とかいった先天的な才能だけが、一人歩きしたわけではなかったのである。
「町人の子は町人の親が育てて、商売の道を教ゆる故に商人となる」と、近松門左衛門が言っている。
こうしたあらゆる特殊世界の特殊性を、ひたすら糾弾し、抹殺しようとしたのが、明治近代、とりわけて「戦後」日本ではなかったろうか。実際、「家業」にせよ、家元制にせよ、徒弟制度にせよ、各職能に内在する特殊性の故に、「前近代的」「封建的」という指弾、排斥を受けなかったものは何ひとつない。その結果、現代社会の全体は、職能において、その人間存在において一律一様にすべてが平均化され、平準化され、およそありとあらゆる職能世界に、その世界におけるプロというものが、一人も存在しなくなってしまった。
>>自分の生まれ育った世界の中だけで通用するプロ。俺たち世代の会社員も他の会社では通用しない汎用性・普遍性のない、プロになるよう指導され、修行した。「自分の上司の顔に泥を塗らない」という意識も強かった。せま~い世間だけの常識。コンプライアンスやポリティカルコレクトネスとは違う。
「技術」の体系一般によって、生活文化自体の混乱と荒廃を救済できるという「信仰」こそ、明治開化主義の発想そのものであるはずだ。特殊世界の特殊性における伝承方法が、学校「教育」一般に解消されて行くのも、この信仰が生きている限り、むしろ必然の成り行きというほかないだろう。
「明治以後とかくこれを卑しむの気風を生じたが、下手にこれを匡正せんか、曲節の妙遂に空しくなるためし尠からず・・・」と、鏑木清方のいうとおりであった。つまり、モトもコもなくしてしまうことになる。事実、現代日本文化は、モトもコもなくした。「不合理な因習」を一掃したと考えた時、実は「曲節の妙」を見失う事によって、モトと一緒に何もかも一切合財を洗い流してしまったのだった。その上になお、人々は、性懲りもなく、技術開発と学校教育に、未来の夢を見続ける・・・ああ、やんぬる哉。
>>この記述がなされてから50年。とうとう特殊な組織・個別の会社だけに通用するプロでなく、様々な組織・会社に通用するプロが育つようになった。ただし、俺の雑駁な印象では、転職すること自体が自己目的化してる。
57年限りでNHKの解説を降りた玉ノ海梅吉も言っていた「けいこ量。そりゃ、ぐんと減りました。世の中全体が甘いから仕方ないが、心身ともに厳しさに耐えられない者がふえた。昔の稽古は、まあ、徹底してました。大学生の連中がすぐ上位を占めるんだから、レベルが落ちた証拠でしょう。」
先年、文楽の野沢勝太郎と話していたとき、三味線の撥を持つ手は、薬指と小指でしっかりと支え、肩の力を抜かなければならぬ。それが初心者ほど、反対に親指と肩に力が入るから、糸も切れるし、皮を弾き破る、という「芸談」を聞いてびっくりした。剣道も相撲も、文楽の三味線まで同じことではないか。第二。相手を打ち込むのは腰である。竹刀を持った手でも、また足でもない。まず腰から前へ出る。手も足もそれに従うのだ。棟梁水沢文二郎は、鉋を引くのは腰である、と「足なんてのは自然に運べるんですよ。何でも腰ですよ。もう手はただあやかっているだけですよ。」
「稽古というのは、繰り返し繰り返しやってるうちに、一つ一つ技術を身につけて行くものである。そのためには、同じことを何十回でも何百回でもバカになって体で覚えるものだ」と若乃花は言う。
それ自体としては、誰一人反対のしようのない全力士の給料制という「近代」的改革が、力士たちをサラリーマン根性にし、型なし相撲、無気力相撲の根源を成している。全力士に給料を与えることであるより、全力士に相撲の基本を叩き込むことではないのか。
>>基本の繰り返し・・・俺だってそんなこと、バカバカしくってやってられない。若者は「ボタンを押せば正解の出て来る」AIを求める。
そこには、名人上手の演奏を可能にした、琴・三味線づくりの職人たちの支えがあり、更に、琴・三味線糸を作る農婦たちの伝承の手業があり、実は、遡れば、養蚕の技法そのものまでに及ぶ---昔ながらの絹糸、というふうに皆さん思っておられるが、実を言えば、昨今の絹糸には、原糸そのものに、昔ほどの力、粘り、光沢(つや)が足りない。これはおそらく蚕の飼料としての桑が、化学肥料で促栽されるためだろう、と。
単に簡便、利便ということで、やすやすと合繊糸の採用を許さぬとする、頑なで抜きさし難い緊密なキズナの、(目に見えぬ)体系が、文化というものではなかろうか。
いくら苦心してみても、むかしのこの色が出ない、そのわけは、藍作農家が、化学肥料を使うからだ・・・
私たちが誇る伝統技芸のあらゆる根は、「農」につながっていた。美術工作に一例を取ってみれば、画家も書家も、まずすぐれた生漉(きずき)和紙を必要とし、それは良質な「楮」なくてはできない。工芸漆器は、何よりもまず、良質な「漆」を採取することにはじまる。
>>農に基本を置いた文化。これを真剣かつ完璧に守ろうとすれば、鎖国しかない。一方で明治政府は鎖国していては日本という国・入れ物が列強の文明から守れない、と判断した。
大阪北の芸妓を見て育ち、どうせ奉公に出るなら芸妓になりたい、それも近辺だと親元へ帰りたくなるから、いっそ遠くへゆこう、と健気な覚悟をしてみたものの、家が恋しくて、三十間堀の畔(ほとり)でよく泣いたという。がま口あけても銭はない。諦めるより仕方ない、と思った。
>>夏彦さんの言う貧乏。貧乏だから死ぬか耐えるか・・・
「何やってんだい」「浅妻です」「浚ってあげるからやってごらん」来る日も来る日もこの調子、一日休まず通って、とうとう「浅妻船」で1年暮れたことがあるという。「そういうお稽古がよかったんですよねえ。2月や3月であがったものなんか、ひとっつもありませんでしたよ。だから、自然と、こう、躰で覚えちゃう・・・」
当人の才能もあり、並々ならぬ努力も、むろんあった。けれども、三世の内弟子に入る以前、既に4歳の幼童の頃から、舞の明け暮れだったのだ。「小さい子供が自覚をするようになる以前に、その身体が何かを覚えるということ。これは非常に強力なことだと思います。頭よりも身体の方が、先に納得し、自分の道を方向付けるのです。」
>>これも夏彦さん他の言葉だが、ぐだぐだ理屈を言わず論語を丸暗記。
花街では、師匠の前に立った時だけが、お稽古の時間としてあるのでなく、日常の常住坐臥が、日々の立ち居振る舞いが「お稽古」だったはずだ。だからこそ、「裾さばきがよい」ということが、そのまま女たちへのほめ言葉であり、美徳とされていた。
経済の原理から言えば、伝統漆器の素地をプラスチックにしようが、漆をやめてカシュー塗料にしようが、「それが、一定期間売れて投資が回収され、目標とする利潤の蓄積が達成されれば、それでよい」ということになろう。しかしながら、この過程で伝承の「技能」が見失われ、たとえ需要が回復してきても、もはやふたたび作ることができなくなってしまう。かけがえのない技能の喪失という、大きな歴史的「社会的損失」に関して、もとより「経済」の原理は関知するところではなかった。
銀座「紺屋吉平」の女将浦沢月子と雑談の折、お嬢様のうちにお裁縫を教えない、日本の女が針を持たなくなったということが、着物の選び方、着方、手入れの仕方、あつかい方すべて分からなくなってしまった根本だ、という話が出た。確かに、そうだろうと思う。たとえ生産者の側が、手づくりの丹精を籠めても、受け手、つまり消費者の側は、手作りどころか、いっさいおのれの手の煩うことを厭う。そんな手前勝手な「手作りブーム」があるだろうか。作る側に作る側の丹精と慈しみがあり、使う側に使う者の愛着と心やりがあってこそ、手作りのよさが生きるはずだ。浦沢月子の言葉を借りて言えば、それは、本当の「おしゃれ」がいなくなった、ということになる。高価なお振袖を買って、卒業式や友達の結婚式に、美容院へ行って着せてもらって、というは「おしゃれ」ではないのだ。
>>「経済の原理」に関係ない「裾さばき」「消費者の心やり」「本当のおしゃれ」
「けじめ」とは、型があって、しかも必ずしも、型にとらわれぬ、こだわらぬ、ということにちがいない。長幼自ずから序あり、という。しかし、その序は「おのずから」であって、何もことごとしく「仁義礼智信」に基づくわけではない。おのずからの「けじめ」さえあれば、むしろ、両者互いに打ち解け、和気藹々、何かと言えば「無礼講」が好きな民族であったのだ。
廓の「諸訳(しょわけ)」に通じるとは、そこでの約束事、ルール、しきたりの隅々を知り尽くしてこれを尊重しながら、しかも、必ずしもこれにこだわらない心つまり「通」ということだった。諸訳を知らぬのも「やぼ」なら、知ってて無理押しすることも、また「やぼ」とされた。ここらあたりの微妙な出処進退に「けじめ」が存在した。いずれにせよ、「型」があることが前提だったのだ。まず「型」があって(諸訳に通じて)必ずしも「型」に拘泥せぬ、そこに「けじめ」があると同時に、「遊び」がありえたのだろう。だから、美意識であると同時に倫理(モラル)だったのである。
>>おのずから=はからいなしに、自然に、知らず知らずのうちに・・・日本人は自然が好きだ。不自然なのは「野暮」。型を熟知して後、破る・・・遊びであり、美意識。
(ままごとでは)まず、一枚のゴザが敷かれる。「遊び」の場の設定、「空間」の限定である。設定されたゴザは、もはや単なるゴザではなく、それは家屋を意味し、あるいは部屋を表象していて、土足のまま上がってはならない。子どもたちの役割がそれぞれ決められる。遊びの間、振り当てられた役は、厳格に守られねばならぬ。もし「お客様」を振り当てられ、お客様らしからぬ振る舞いがあれば、仲間たちからたしなめられ、それでも実行されなければ、ついに「仲間外れ」にされてしまうだろう。ミカンの箱が食卓であり、サイダーの空瓶は、実はパパの晩酌のビールである。木の葉は皿であり、南天の赤い実が料理となる。参加する子供たちは、すべてそうした「約束」に従い、約束されたルールのなかでパパはパパらしく、ママはママらしく、しかも各自の総意と工夫において、自由に振舞う。「約束」の承認、つまり規律の遵守と参加する者達の自由な創意と言う背理したルールが、軌道に乗れば乗るほど「ままごと」は成功し、いきいきとした愉快な遊びを実現するのだ。「遊びは秩序を創造する。アソビイコール秩序である」と、ホイジンガはいう。不完全で、雑然とした日常世界を去って、虚構され約束された空間を「絶対的秩序」が支配するのである。そしてこの遊びと秩序の「内的結合」に、遊びの美学が存在する。「遊びは言うなれば美しくあろうとする傾向を秘めている」と、ホイジンガは指摘している。廓と言う虚構の空間が、実生活の場から、画然と区別される。この空間を、自然と様式の美がとりつつむ。自然の中を、四季がうつろい、おりおりの行事がそのうつろいと対応して季節季節の「けじめ」を生みだす。様式は「しきたり」として定着し、厳格な手続き、規律が内在する。すべては「約束」ごとなのであった。虚構の世界の「約束」ごとであって、その約束が「絶対的秩序」を形作る。祇園が「一見」の客を拒否するのは「ほんのちょっとした違反が遊びをダメにしてしまい、その特質を消し去り、つまらないものにしてしまう」(ホイジンガ)からだ。子供たちが「ままごと」の時、パパはパパの言葉を、ママはママの言葉を語らねばならぬように、言語さえここでは「約束」であった。子供が、子供のまま日常の用語を使っては「遊び」にならぬのと同様だ。
>>遊びのルール。「お約束」。知ってる者だけが楽しむ。言い方を変えればルールを知らない外部者を排除する。閉鎖的。親切に説明しようとしない。「分かってないヤツ」を仲間外れにし、いじめる。役所の文書。
「しきたり」と言えばただオウム返しに「封建的」ということしか、現代の日本人は知らない。だが、「しきたり」のなかで「型」が守られ、「型」の伝承を通じて「躾」が生まれる。祇園ではむろんその中心に「芸」の伝統が、百年余の歳月を支えてきた。四世井上八千代のいう通り、このように「純粋に芸風が保たれたのは」、その間、「外に出なかったということが、あずかって大きな力」だったにちがいない。
>>鎖国したおかげで守られた芸。日本一国くらい、鎖国は許されないか???
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