江藤淳「閉ざされた言語空間」
1982年から1986年かけて書かれた 「閉ざされた言語空間」にはやはり感動する。江藤淳さんをお慕い申し上げる。憧れる。一生座右に置いて時々読み返すべき本だ。
大東亜戦争(江藤さんご指摘の通り、この言葉も占領軍によって使用が禁じられ、占領軍がいなくなった以降も、日本のメディアはその使用を自粛している)の敗戦を覚悟した日本人は「アメリカ軍に、男はみんな殺され、女はみんな強姦される」と思った、という記述を一再ならず目にしたことがある。日本人はそれほどの目には会わなかったようだ。しかし、この本を読むと、日本人は、占領軍による洗脳、検閲、言論統制によって、男女を問わず、心理的、精神的には強姦よりひどい目にあったことが分かる。江藤が悔しくまた、悲しんだのは、占領軍亡き後も、日本自身が自主規制した、ということだ。つまり、強姦した相手に媚を売り、科(しな)を作った、ということ。「日本はアメリカの妾だ」と俺が言う所以だ。
この本の最後の方にある、皇室関係用語集にまつわる、日本のメディアの自粛(あるいは宮内庁の検閲)に関する記述を以下引用:
(前略)だが、それにしても、放送・新聞各社は、いったいいかなる権限と法的根拠、あるいは論拠によって、このように無神経きわまる国語への干渉を行っているのだろうか?それが現行1946年憲法の「検閲禁止」条項に抵触すると考えられることについては、すでに述べてある。しかし、もしそれが「天皇」条項にかかわるものだとしても、現行憲法が
第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく としながら、皇位の継承については
第二条 皇位は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する
とせざるを得なかった根本的な矛盾について、放送・新聞界の検閲者たちは、一度でも胸に手を当てて熟考したみたことはなかったのだろうか。
そして、もし毎日映画社の幹部が示唆した通り、万一この自主検閲の背景に、宮内庁の意向なるものが作用しているとするなら、宮内庁は今日の日本で、そもそもいかなる役割を果たしつつある役所だということになるのだろうか。
考えてもみるがよい。皇位が「世襲」されるとしても、いったい、「日本国民の総意」などというものが「世襲」され得るだろうか。「国民の総意」なるものが、もし存在するとすれば、それは時々刻々に変化する転変恒なきものにほかならず、少なくとも論理上必然的に皇統の持続を保証するものではあり得ないはずである。
一方、逆に「世襲」は、「国民の総意」如何にかかわりなく、皇統の持続が保証されているところにしか成立し得ない制度である。したがって、そこに内包される論理に穿ち入ってみれば、憲法第一条にいわゆる「国民の総意」という概念と、第二条にいわゆる「世襲」という制度とは、明らかに相互矛盾的なものと言わざるを得ない。その一方のみを採って他方を捨てることは、現行憲法と言えども容認していないのである。
そしてこの際、皇統の持続と言う側面から現行憲法の「天皇」条項に光を投射してみれば、第一条にいわゆる「国民の総意」とは、一つの擬制、つまり看做しだということにならざるを得ない。天皇が現実に在位し、皇位が「世襲」によって継承されるという制度的事実を解釈する上で、「この地位」は「国民の総意に基づく」と解釈されることにしておく、というのである。そう解釈することによってしか、第二条にいわゆる「世襲」という制度の意義は理解しがたいからである。
ところが、放送・新聞各社の検閲者は、現行憲法第一条と第二条とのあいだに存在するこの機微を無視して、ことさらに「国民の総意」のみを実体化しようとしているかのように見受けられる。前掲「用語集・改訂版」の「序に換えて」が「戦前の皇室用語がもつイメージ・・・いわく難解、陳腐、大時代・・・を分かり易い今日の日本語に再構成する」といい、「まえがき」が「用語は現代感覚に照らして慎重に検討し、とくに時代錯誤をチェックした」といって、あたかも「今日の日本語」や「現代感覚」なるものの、「戦前の皇室用語」に対する優越を、証明不要の前提としているのは、その最も端的な例証にほかならない。
だが、果たして「今日の日本語」は「分かり易く」、「現代感覚」は、「戦前の皇室用語」に優越しているだろうか。また、言語に関して一方的に「時代錯誤」を云々するという倨傲(きょごう)さを、この人たちはいったいどこで身に着けてきたのだろうか。そもそも皇室用語を「分かり易い現代日本語に再構成する」という権威を、放送・新聞各社はどこから付与されているというのだろうか。
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憲法の文言に、それもしょっぱなの第1,2条に矛盾があることを初めて教えられた。
律儀な江藤さんらしく、辛抱強くアメリカで資料を読み漁り、占領軍は「悪かったのは軍部。他の日本人は犠牲者で、アメリカ軍は悪い軍部から日本人を解放し救った」というシナリオで日本人を洗脳しようとして成功した、と、数多くの例証をあげ証明した。頭が下がる。このような、地味だが味わい深い仕事を目にすると、涙が出そうになる。
江藤さんは1999年、亡くなった奥さんを追うように、66歳で自殺した。もちろん奥さんがいなくなったことも大きかったろうが、相変わらず日本人が占領軍の洗脳から目覚めそうにないことに絶望したせいではないか?
日本語を無神経にいじくりまわされることは、性器を無神経にいじくりまわされる以上の屈辱と絶望を与える、と思う。「当用漢字」をWikiると、
連合国軍最高司令官総司令部内部には「日本語は漢字が多いために覚えるのが難しく、識字率が上がりにくいために民主化を遅らせている」と考える者がおり、1948年(昭和23年)には連合国軍最高司令官総司令部のジョン・ペルゼルによる発案で、日本語をローマ字表記にしようとする計画が持ち上がった。
という記述がある。1946年、バカなアメリカ人の浅薄で偏見に満ちた誤解・傲慢に基づいて当用漢字は始められた。「当用」とは「さしあたって用いる」ということ。その意に反し、当用漢字は1981年(昭和56年)、常用漢字表の告示まで日本の漢字を制限し続けた。
漢字を輸入したにとどまらず、そこからひらがな、かたかなを産み出したことが日本人らしさ、日本文化の源泉であろう。これは民主主義などと言う歴史の浅いものよりよっぽど重要なものだ。
俺は同じ文字だって、毛筆で書くのか、鉛筆で書くのか、ボールペンか、スマホやPCの入力か、、、によって人間の思考は変わると信じている。使える文字や言葉を制限されるなんて思考どころか、人種が変わるくらい大変なことだ。俺が「性器をいじられる」と称する所以だ。
日本人は情けないことに、性器をいじくられて屈辱より快感を感じる人種らしい。
閑話休題:
江藤さんの憲法1,2条解釈を敷衍して憲法9条を解釈すれば:
日本の自衛隊は米軍の指揮命令がなければただのおもちゃ(戦争ごっこ・擬制)だ、だから戦力ではない。同じく米軍抜きでは交戦もできないから交戦権はないも同然、ということか。教科書に侵略と書いてあるかどうかなんて細かいことをあれだけ突っついた中韓がなぜ、自衛隊の憲法違反を言わないのか???かねてから不思議だったが、これはアメリカがこっそり、中韓に「自衛隊なんて俺たちが指揮命令しなければ何もできない。他国への侵略はもちろん、自衛だってできない。」などと説明したおかげではないのか???
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