日米失恋比較
伊勢物語に登場する、在原業平の歌:
月やあらぬ 春やむかしの 春ならぬ わが身一つは もとの身にして
・・・男は女の家に通っていた。しかし、女は突然他の男のところに行ってしまった。男は捨てられたのだ。その後、1月10日の梅が咲く頃、その思い出の女の家を訪ねた男の歌、とされる。
男は「月や春は女に捨てられる前の月や春とは違う。新しくなった」、と言う。周りは変わったのに、自分だけは捨てられる前の(心)のままだ・・・
さて、この歌を見て(聞いて)思い出したのが、The end of the worldだ。捨てられたアメリカの女の嘆きは:
捨てられて自分は幸せの絶頂から突き落とされて、哀れな女になってしまった、もう生きたくない。にもかかわらず、日はまた昇り、波は打ちつけ、鳥は泣き、星は輝く…
Why everything is the same as it was...と続く。
日本の男が女に捨てられると「周りは変わるけれど、自分だけが変わらない」と言い、
アメリカの女が男に捨てられると「自分だけが変わって、周りは何も変わらない」と言う
男女の差か、日米の差か???
両方とも未練たっぷりで失恋を受け入れられないという点では共通。
日本の男の歌は未練がましいままで終わる。
アメリカの女は、最後にWhy does my herat go on beatingと言う。
俺は、ここに至って、彼女は「心臓がまだ動いてるから、死ぬに死ねないわ。別の男を探そう」と思ったのではないか?と空想する。
実際は、日本の男だって在原業平という希代のプレイボーイだから次から次へと女をとっかえひっかえするし、問題のこの女の時だって二股、三股だったかもしれない。それでも「もう女はこりごり」みたいなセリフを吐く。これが日本人の見栄か?
結論:
この違いは男女の差でなくて日米の差だ。日本人は口では「もうこりごり」なんて言うが…
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