「使いやすい」という切り口(認知科学)
他人に理解されない(あるいは誤解される)ことを恐れるということが日本人は少ない。同じような環境で育ち、同じ言語をしゃべり、同じような人種の日本人はそもそも理解されない・誤解されるということが少なかった。
役人の作文、法律がその典型で「下々の者には分からんだろう。分からなくて結構。」という代物だ。また平安時代以降の和歌も様々な語句をわざと省き、読んだ人に理解されにくくし、それを忖度・想像力で理解(したふりを)するものだった。
情報発信する側は分かりやすくしようと言うことはあまり考えず、情報の受け手側に理解する能力を要求する。発信者が「みなまで言う」前に察してあげるのが聞き手の能力だった。聞き手の能力は評価されるが、情報発信者の「分かりやすさ」情報の「使いやすさ」は評価されることがなかった。
そういう伝統があるから情報を理解されやすくしよう、道具を使いやすくしよう、ということを考える「認知科学」が弱い。
この点、日本と真逆なのがアメリカだ。昨日まで外国人だった人が世界中から移民で入ってくる。言葉もちがう、生活習慣も違う、情報発信者は誤解される、理解されないのが当たり前と考えて情報発信する。
店の開店時間なども広い意味で「使いやすさ」の範疇に含まれる。店は開店時刻の何分か前に開くべきだろう。開店時刻の何分か前から店頭で待つ客に「使いやすく」するという観点が必要だ。今朝、9時開店の調剤薬局に9時前に着いたらシャッターが閉まっていた。シャッターには開店9時と書いてある。「休みか?」と思ったが、同じように開店を待つおじさんがあと一人いたから数分待つと9時1分にシャッターがあいた。この一件で嫌になる客もいるのではないか?広い意味での開店時刻の情報発信が悪くて使いにくい店になっている。
昨日はクレジットカードの利用限度額を一時的に増額することを依頼する電話をかけた。増額の審査に1週間かかるということで、結果を連絡してもらうことにして用件は済んだが、電話に出た女の情報発信に違和感を覚えた。つまり、第一に「カードを出して、カードにかいてある12桁の数字を4桁づつ読んでください」と言われる。これは問題ない。次いで「お名前をフルネームで」と来た。おれはその直前にカードを凝視して12桁の数字を読み終わったばかりだ。俺の目はカードにローマ字で書いてある名前を見る。その名前は英語風に、下の名前、次いで姓が書いてある。俺は「カードに書いてあるのは下の名前から書いてあるけど、下の名前から読むのか?」と聞いたら「普通にフルネームで」と言う。俺が「普通???」と言ったら、バカにしたように「下の名前だけで結構です」と言う。(姓は電話をかけたときに俺が名乗ったから聞く必要なし、ということだろう)これで俺はカチンときた。つまり、「この女は12桁の数字を間違いないように緊張して読み終わった人間は、『名前を』と言われたらそのままカードに書いてある名前を読もうとする」ということが想像できないのだ=認知科学がわかっていない。
俺は認知能力はどんどん落ちている。ただし、その認知能力が落ちたじじいにとって「使いやすい」「理解しやすい」情報発信を考えるべきだ。この、日本人の想像力不足、認知化学不足については何十年間も改善が必要だと思い続けている。
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