「他策ナカリシヲ信ゼムと欲ス」より抜粋②

 ・ひたすら善意を信頼するなどという、そんな甘い幻想を軽々しく国民に宣伝するほど、危険なことはない。余計な不信も、もちろん避けるべきであろうが、決して手放しの善意などどこの国にもない。信ぜず、疑わず、冷酷なまでの自愛利己欲、その発現こそ、国際外交なのではなかったのか・・・小さな声で保守党長老政治家諸氏に言うが、現につい30年足らず前まで、あなたがたにとって、米英は鬼畜ではなかったのか?(中野好夫)

・沖縄の本土復帰に関し、佐藤・ニクソン会談が行われ、その結果として日米共同コンミュニケが発表された後で日本国内に現れた様々な反応のうち、常識では理解できないものがいくつかありました。まず、事前協議という事ですが、その場合、日本側は必ずしも「ノー」と答えるとは限らず「イエス」と答える事もあり得るという、それがあたかも由々しき新事態ででもあるかのように取り扱われております。というのは、大抵の新聞が、佐藤栄作首相は今度ワシントンへ行って初めてアメリカ側から「時にはイエスと言え」と要求され、その時から事前協議の性格が変わったかの如き印象を与える書き方をしておりましたし、野党側の代表者もそう言う受け取り方をしておりました。しかし、これはおかしい。私の記憶に誤りがなければ、数年前から政府側は事前協議には「ノー」ばかりでなく、「イエス」の場合もあり得ると言っており、そのことに関するかぎり議会での審議は充分尽くされているはずですし、前会期中には野党側からはほとんど疑義も反問も出なかったくらいです。考えてみれば当然のことで、国家と個人を問わず、また相互の間柄がいかに険悪なものであろうとも、相手側に対して「ノー」と答えることを前提とする協議などと言うものはあり得ない。もしあるとすれば、これほど危険なものはないでしょう。なぜなら、常に「ノー」と答えるのは常に「イエス」と答えるのと同じことだからです。自分の意に従わせたかったら、それと反対のことを要求すれば、相手は「ノー」と答え、結果は自分の思い通りになると言うわけだ。ですから、この前の議会では事前協議には「イエス」と答えることもあり得るなどと政府側が言い出した時、私はもともとそう了解しておりましたので、なぜ改めてそんなことを断るのか、これは何か底意があるのかと、正直、私は首を傾げました。同時に、そういう政府側の挨拶に別に首を傾げようともしなかった野党議員たちの態度にも私は首を傾げました。そして今度の沖縄返還交渉成立で事前協議の「イエス」を、ことさらに問題にし始めた新聞や野党に、三たび私は首を傾げざるを得ませんでした。

私の疑問の第二は、新聞は勿論、共産党以外の野党はいずれも、1972年に沖縄が本土復帰できる見通しがついたことを「いちおうの成果として認める」と言っていることです。ただ、首相が渡米前に強調していた「核抜き本土並み」というものは怪しい、「核再持ち込みの不安」が残っていると批判しただけだった。これではあたかも、「核再持ち込み」の不安さえなければ、今度の沖縄返還を「いちおうの成果」どころか大成功だったと認めてでもいそうな口吻です。こうなると、私には全く理解出来ません。殊に「無条件即時全面返還」を唱えていた社会党にお訊ねしたい。あなた方は佐藤訪米阻止運動に一番熱心であり、その音頭取りであった。それなら「核再持ち込みの不安」が残っていて、訪米前の「核抜き本土並み」すら怪しくなった今、それを「いちおうの成果として認める」法はありますまい。「いちおう」にもせよ、それが認められるくらいなら、なぜあれほど訪米阻止運動に気勢を上げたのですか。さらに「核抜き本土並み」という条件を前提にしてこそ「核再持ち込みの不安」が問題になるのであって、その前提を全く認めない「無条件即時全面返還」という高望みの立場からすれば、いまさら「核再持ち込みの不安」などに拘泥するのは本末転倒というべきではないでしょうか。

社会党にとっては沖縄の本土復帰などどうでもよいことではないか。あなたがたが沖縄に関心を抱くのは、そこに本土復帰を願望し、しかもそれができぬ沖縄人がいるからでなく、そこに巨大な米軍基地があるからでしょう。それなら、それは基地問題であって、領土問題ではない。沖縄においては、この二つの問題は切り離せません。切り離せないからこそ、あなた方は沖縄に目をつけたのでしょう。その証拠に、それが切り離せる北方領土の場合、あなた方はほとんど関心を示さない。この際、誤解を招くのを覚悟のうえで沖縄の人々に申しますが、ここ数年、沖縄返還問題は始終新聞紙上を賑わし、ジャーナリズムの最も派手な話題になっておりますが、その論者のほとんどすべては沖縄及び沖縄人のことを真剣に考えてなどいないと思います。口先では戦時中の犠牲を言い、異民族支配の苦難を言い、沖縄の「悲願」という言葉を弄ぶ、が、彼らにとって存在するのは沖縄及び沖縄人ではなく、沖縄問題なのです。私は時々テレビの画面で屋良朝苗主席にお目にかかりますが、あの苦悩に満ちた表情は本物です。そこには沖縄及び沖縄人の苦しみがある。それ以外に私は沖縄及び沖縄人と言うものを見たことがありません。新聞の報道や論者の意見にはただ沖縄抜きの沖縄問題があるのみです。もしそうでなかったら、「無条件即時全面返還」というような社会党の空論が出てくるはずがない。そんな条件が決して満たされないことは百も承知の上でしょう。というより、満たされないことを望んでいるから、選りによってそういう条件を出したのでしょう。何故なら、満たされない以上、沖縄問題は沖縄抜きの問題として長持ちするからです。領土問題ならぬ基地問題として利用できるからです。だが、沖縄問題が常に問題として長持ちするのが望ましいと言ってもおのづから程と言うものがありませすよ。あまり長持ちして片が付かないとなると、社会党は沖縄の本土復帰など全く望んでいないのではないか、いつまでも米軍支配下に置いておき、基地問題として与党をいびる材料に利用したいのではないか、そういう疑いが沖縄人の間に広がりかねない。そういう相手の足元を見て政府は社会党の提起した基地問題を領土問題にすり替えていちおうの解決を図ったというわけです。が、それではっとしたのは他の誰よりも社会党自身でしょう。そう考えてくると、「いちおうの成果を認める」という挨拶にはすこぶる微妙な心理の屈折が見られます。領土問題として沖縄及び沖縄人のことを思っていた証しとしても「いちおう」そう言わざるを得ないところです。そうして沖縄を「いちおう」領土問題として政敵の手に引き渡しておいて、もう一度基地問題という味方の陣地に引き上げてくるための通路として「核再持ち込みの不安」ということを言い出した、そう理解できましょう。もしそうでないとしたら、すなわち本気でそういう不安を抱いているのだとしたら。私は彼らの政治家としての資格を疑います。第一に不安を伴わない約束も条約もあり得ない。そのことは戦時中の独ソ不可侵条約などでも、私たちは充分思い知った筈です。ですから、佐藤首相がニクソン大統領に「いざと言う時には核持ち込みも仕方ありますまい」とはっきり言明したとしても、言わず語らずのうちに腹芸でそう了解し合ったとしても、あるいは「それだけはお断りする」と明文化しようと、実際には大した差はないと思います。

72年と言う期限にしたところで、今日予測し得ないような国際情勢の急変があればどうなるか分かったものでもありますまい。第二に、ガラス張りの外交などと言うものはあり得ない。夫婦の間にへそくりの習慣が絶えぬ限り、外交は永遠に閉ざされたものであり、佐藤×ニクソン会談においてコンミュニケ以外にもっと重要な話し合いが行われても不思議はない。いや、そうでなければ困るのです。ひょっとしたら、「核再持ち込みの不安」とは正反対に、沖縄基地など数年のうちに要らなくなるのだとアメリカ側から言い出したかもしれない。だが、今それを明文化すると日米両国民に、あるいは日米関係に大きな不安や動揺を与えかねないかねないし、さらに対ソ軍事機密にも望ましからざる影響が出て来るを心配したのかもしれない。人々は中ソと違って民主主義の手本たるアメリカには、対内的にも対外的にも秘密がない、あるいは隠せないという迷信を持ちすぎています。

しかし、民主主義とは最も大事なことを隠すために詰まらぬことを隠さぬようにする政治制度です。したがって、佐藤・ニクソン両氏がそれそれ国内向けにいい顔を見せているのではないかなどと、したり顔の論評をしても始まらない。そうに決まっています。首相や大統領に限らない、社会党の幹部諸氏も自民党とよろしく闇取引をしておいて、内部や総評にいい顔をみせた経験はおありでしょう。今日、社会党も共産党も安保条約を目の敵にしておりますが、その様子を見ていると、いくら目の敵にしても安保条約はついに叩き割れぬ「硬い胡桃」だと思い込んでいるらしいが、もしそうなら反安保闘争そのものが無意味だということになります。だが、私には安保体制はそれほど「硬い胡桃」だとは思えません。それが、「硬い胡桃」だと言う前提には、アメリカがアメリカのために日本を軍事的に離さないだろうという一人合点、あるいは思い上がりがあるからでしょうが、実際にそうでしょうか。軍事的にアメリカが日本を必要とする度合いと日本がアメリカを必要とする度合いと、その両者を比較した時、私には後者の方がはるかに大であると思います。もしそうなら、日本が本気で掛かれば安保体制はいずれは解消できましょう。しかも、それに代わる軍事同盟が結ばれないとすれば、日本政府にとって最も恐るべき敵はアメリカだということになる。そういうことも考慮に入れながら反安保闘争をやっていただきたいものですが、私の見る限りでは、アメリカとの安保体制、あるいは軍事同盟がなくともアメリカは日本に友好的であらざるを得ないという心理が一般に働いているように思われます。戦後25年、アメリカのご厄介になってきたおかげでしょうが、そうなると反米闘争もアメリカの傘の下で安心して行われているのかと言いたくなります。軍事的、政治的独立よりも、精神的独立の方が急務である所以です。(福田恒存)

・思えばわれわれの世代は、新憲法に盛り込まれたきわめて楽観的な国際政治像、我が方が善意と誠意をもって対応すれば、相手もまた、それに応じたにこやかな善意と誠意で報いてくれるという性善説の世界、そしてそれを疑うこと自体、平和に対する反逆であるかのような空気のなかで学生時代を過ごしたのである。これは明治の外交指導者が生死の境目何回も潜り抜け、権謀術数にもまれて、人間に潜む「悪」の振幅の広さを見据える能力をおのずと備えていたのと対蹠的とも言える原体験の違いではないだろうか。(西山健彦)


>>>米英は鬼畜・・・日本の歴史を振り返ると米英と仲良かったときは日本にとっても良かった、という人がいたが、違和感を覚えていた・・・他国は鬼畜になったり友達になったりするということを覚えておかなくてはならない。

「無条件即時全面返還」という高望みの立場からすれば、いまさら「核再持ち込みの不安」などに拘泥するのは本末転倒・・・平和憲法と全く同じ。非武装中立などという高望みをしておきながら、自衛隊の存在を認め、敵基地攻撃はよせ、などというのは本末転倒。

北方領土の場合、あなた方はほとんど関心を示さない・・・沖縄はアメリカが取り、北方領土はソ連が取った・・・社会党、共産党はソ連の子分だから北方領土については何も言わない、という見方もできる。

沖縄及び沖縄人ではなく、沖縄問題・・・石丸伸二を見ていると彼にとっては安芸高田も東京都もそしてそれぞれの住人もどうでもよくて、バエるネタである地方自治問題なのだ。

そんな条件が決して満たされないことは百も承知の上・・・既存の野党はこれを取り上げ、自民党もそれを承知で善処を約束し、善処されないから野党はそれを突っつく・・・この茶番はもういいだろう。

不安を伴わない約束も条約もあり得ない。そのことは戦時中の独ソ不可侵条約などでも、私たちは充分思い知った筈です・・・野党は不安のない(=あり得ない)条約を結べ、と言う。そんなことは絶対あり得ないことは政府も野党も十分承知の上で茶番を繰り返す・・・

中ソと違って民主主義の手本たるアメリカには、対内的にも対外的にも秘密がない、あるいは隠せないという迷信を持ちすぎています・・・俺の知人にも中ソ大嫌い、アメリカ好きという輩がいるが、そろそろアメリカと絶縁して中露と仲良くしてもいい?

民主主義とは最も大事なことを隠すために詰まらぬことを隠さぬようにする政治制度です・・・確かに。至言だ。

軍事的にアメリカが日本を必要とする度合いと日本がアメリカを必要とする度合いと、その両者を比較した時、私には後者の方がはるかに大であると思います。もしそうなら、日本が本気で掛かれば安保体制はいずれは解消できましょう。しかも、それに代わる軍事同盟が結ばれないとすれば、日本政府にとって最も恐るべき敵はアメリカだということになる・・・安保反対することはアメリカを敵に回すこと・・・安保解消したらその後どするのか考えよ・・・当たり前の事。

反米闘争もアメリカの傘の下で安心して行われているのか・・・その通り。ごっこの反米、ごっこの反体制。そして多くの国民がそれを支持する・・・ごっこの民主主義。

性善説の世界、そしてそれを疑うこと自体、平和に対する反逆であるかのような・・・アメリカ様のおかげでそうしていられた。そして、明治の外交指導者が生死の境目何回も潜り抜け、権謀術数にもまれて、培った人間に潜む「悪」の振幅の広さを見据える能力、常識は敗戦後、アメリカによって綺麗に丁寧にそして徹底的に取り除かれた。これを俺は「腑を抜かれた」と言う。木登りするのに枝は大丈夫か確認してから枝に手を掛け、足を乗せる・・・それをしないで枝は大丈夫と、手を掛け足を乗せる・・・それが戦後日本(の野党)だ。1970年代まではアメリカ様がこの枝にこういう風に手を掛けろ(足を乗せろ)と教えてくれ、1980年代にはそのおかげで日本は豊かになり自信たっぷりになった。1990年代、アメリカはNo.2になった日本を叩き潰し、2000年代には二度と立ち上がれないよう頭を踏みつぶした。(それに自ら協力する首相も現れた・・・小泉純一郎だ)

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