西部邁「日本人とは、そも何ものぞ」その2 鎌倉仏教(親鸞)
親鸞の教えは「絶対他力」と言われるが、一切何もしないでいたら、おせっかいな阿弥陀様が救ってくれるというわけではない。「身を捨てて阿弥陀様におすがりしますから、あとはよろしくお取り計らいください」という意味を込めて「南無阿弥陀仏」と唱える必要がある。阿弥陀様に気付いてもらいさえすればあとは人間は「はからう」ことをせず、自然に身を任せれば成仏させてもらえる。
自然=自ずから然らしめる、自力を使わない
日本人においては、自分の意志や考えで何かをするのはあまりいい結果をもたらさない、とされる。自然は阿弥陀様と言われたり、神様とも言われる。自然に身を任せ「はからい」がなければ救われる。(日本人にとって自然は恵みを与えてくれるもの、身を任せるべきもの)
親鸞はルターと似ていると言われる。それまで寺と僧の力に頼り、それなりの寄進なり修行をしないと成仏できなかったのが、親鸞は寺も僧も否定し、寄進や修行は要らない、阿弥陀様に身を預け、南無阿弥陀仏と唱えれば誰でも成仏できる、とした。
ルターも、聖書に書いてあることを守り、神様に認めらるよう直接訴えろ、(ただしそれでも救われるかどうかは神様次第なのでやるべきことをしたらあとは、俎板の鯉で、救ってもらえるのを待て)と言ってカトリックの教会や神父を否定した。
閑話休題:
イスラム神秘主義には大麻(ハシシ)の力でテロを行う一派がある。ハシシ(hashish)がassassin=暗殺の語源と言われる。
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