東浩紀さんが「訂正する力」という本の宣伝を(president on line)
President on line記載の東浩紀さんが自分の本の「番宣」をしているが面白かった。俺の「日本人は”議論”できない、だから民主主義も日本人には無理」論に近い。
何故ヨーロッパ人は訂正する能力があり、議論や民主主義になじむのか?その理由は、俺に言わせると、自分の外に神という唯一の絶対者(基準)があるからだ。自分の意見・考えなんて神という絶対者の前では命を懸けて守るほどのものではない。もっといいものが現れればそっちに乗り移ればよい。(これを東さんは「訂正」と呼ぶ)
多くの日本人には、自分の外に絶対者はいない。絶対者そのものがいない、と言ってもいいかも知れない。強いて言えば「自分自身が絶対者」に近い(というか、自分の運命を決めるのは自分だ・・・自分の信じる神様仏様が運命を決めるという言い方もあるが、その神様仏様は唯一ではなく、たくさんの中から自分で選んだ神様仏様だ・・・時間がたったり環境や流行、Trendが変われば別の神様仏様に乗り換えることもある)。
日本人は”議論”で論破されると”絶対者”たる自分自身が否定され、命を取られたように感じる。それが厭だから否定や反論しにくそうなことしか言わず、否定や反論されそうになる事態を回避しようとする。
日本人に「空気」が生じるのも唯一絶対の判断基準がないからだ。相手や”世間”の基準はどうなっているか、流行やTrendはどうなっているかを探って忖度や「空気」が生じる。
東さんは「いつの間にか空気を変えて」「民主主義=訂正」の力を日本に生じさせたいようだが、俺は空気を変えて民主主義=訂正する力を日本に生じさせるべきか、またそれが可能なのか、については大きな疑問を感じている。空気を変えるのでなく、空気を(入れ)換えることは日本史上何回か行われた。大化の改新や明治維新や敗戦・・・外圧と言う強い風の力を借りて空気を入れ換えた。これなら起こるかも知れない。これは暴力や多くの死傷者や破壊など大きな犠牲を伴う。「いつの間にか空気を変える」などとというマイルドなことが苦手な日本人は、こういう「訂正」しか出来ないかも知れない。
以下、引用。
なぜ岸田首相は「聞く力」を失ったのか…東浩紀「いまの日本は『まちがい』を認められない空気が強すぎる」
「ひとの意見は変わるもの」という認識を共有するべき
人々が「空気」に支配される日本では、改革はなかなか進まない。批評家・哲学者の東浩紀さんは「いまの日本では、相手の話を聞き自分の意見を変える力、つまり『訂正する力』が失われている。岸田首相も訂正することができないので、聞くこともできない。『ひとの意見は変わるものだ。われわれも意見が変わるし、あなたがたも意見が変わる』という認識をみなで共有するべきだ」という――。(第1回/全2回)
なぜヨーロッパ人は「ルール」を平然と変えられるのか
訂正するとは、一貫性をもちながら変わっていくことです。難しい話ではありません。ぼくたちはそんな訂正する力を日常的に使っているからです。
この点でうまいなと思うのは、ヨーロッパの人々です。彼らを観察していると、訂正する力の強さに舌を巻かざるをえません。
新型コロナウイルス禍を思い出してください。イギリス人の「訂正」にはすさまじいものがありました。大騒ぎしてロックダウンをしたと思いきや、事態があるていど収まると、われ先にマスクを外していく。「自分たちはもともとコロナなんて大したことないと気づいていた」と言わんばかりです。「いや、そうだったかな」と思わずにはいられないですが、彼らはあたかもそれが当然だったかのように振る舞います。
日本人からすると「ずるい」と感じるかもしれません。スポーツでもしばしばルールチェンジが問題になっています。
それでもヨーロッパの人々はルールを容赦なく変えてくる。政治でも同じです。たとえば気候変動。少しまえまでドイツは、「脱原発」や「二酸化炭素排出量の削減」を高らかに掲げていました。ところがウクライナで戦争が勃発しロシアからの天然ガスの輸入が途絶えると、「やはり原発と石炭火力も必要だ」と言い出す。
これまで観光業でさんざん稼いできたフランスも、最近はオーバーツーリズムを懸念し、「地元コミュニティと環境保護のために観光客数を抑制する」という新たな方針を打ち出しています。華麗な方向転換です。
訂正するとは、一貫性をもちながら変わっていくことです。難しい話ではありません。ぼくたちはそんな訂正する力を日常的に使っているからです。
この点でうまいなと思うのは、ヨーロッパの人々です。彼らを観察していると、訂正する力の強さに舌を巻かざるをえません。
新型コロナウイルス禍を思い出してください。イギリス人の「訂正」にはすさまじいものがありました。大騒ぎしてロックダウンをしたと思いきや、事態があるていど収まると、われ先にマスクを外していく。「自分たちはもともとコロナなんて大したことないと気づいていた」と言わんばかりです。「いや、そうだったかな」と思わずにはいられないですが、彼らはあたかもそれが当然だったかのように振る舞います。
日本人からすると「ずるい」と感じるかもしれません。スポーツでもしばしばルールチェンジが問題になっています。
それでもヨーロッパの人々はルールを容赦なく変えてくる。政治でも同じです。たとえば気候変動。少しまえまでドイツは、「脱原発」や「二酸化炭素排出量の削減」を高らかに掲げていました。ところがウクライナで戦争が勃発しロシアからの天然ガスの輸入が途絶えると、「やはり原発と石炭火力も必要だ」と言い出す。
これまで観光業でさんざん稼いできたフランスも、最近はオーバーツーリズムを懸念し、「地元コミュニティと環境保護のために観光客数を抑制する」という新たな方針を打ち出しています。華麗な方向転換です。
持続しつつ訂正していくしたたかさ
ただ、ここで大事なのは、そのときに彼らが自分たちの行動や方針が一貫して見えるように一定の理屈を立てていることです。それはある意味でごまかしですが、そういった「ごまかしをすることで持続しつつ訂正していく」というのが、ヨーロッパ的な知性のありかたなのです。
ヨーロッパの強さは、この訂正する力の強さにあります。それはきわめて保守的でありながら同時に改革的な力でもあります。ルールチェンジを頻繁にすることによって、たえず自分たちに有利な状況をつくり出す。それなのに伝統を守っているふりもする。それはヨーロッパのずるさであると同時に賢さであり、したたかさなのです。
ただ、ここで大事なのは、そのときに彼らが自分たちの行動や方針が一貫して見えるように一定の理屈を立てていることです。それはある意味でごまかしですが、そういった「ごまかしをすることで持続しつつ訂正していく」というのが、ヨーロッパ的な知性のありかたなのです。
ヨーロッパの強さは、この訂正する力の強さにあります。それはきわめて保守的でありながら同時に改革的な力でもあります。ルールチェンジを頻繁にすることによって、たえず自分たちに有利な状況をつくり出す。それなのに伝統を守っているふりもする。それはヨーロッパのずるさであると同時に賢さであり、したたかさなのです。
先人たちの「訂正する力」を忘れてしまった日本人
日本にも訂正する力がないわけではありません。
昔からよく指摘されているように、大陸の辺境に位置するこの国は舶来のものに目がありません。中国に接したら中国の文化を受け入れ、欧米がきたらこんどは欧米の文化を受け入れる。それは野放図なようでいて、じつは肝心なところはまったくと言っていいほど変えていない。
たとえば名前です。朝鮮半島やヴェトナムでは中国文明の輸入とともに命名も中国風に変えてしまいました。他方ぼくたちはいまだに古い名前を保持しています。
科挙も採用していません。日本語をローマ字化する運動も潰れました。なによりも天皇制が続いている。日本は、信念なくすべてを外国に合わせているように見えて、ひどく頑固で根底でずっと一貫している国でもある。つまり、改革に開かれているように見えてきわめて保守的な国でもあるわけです。
日本は日本でしたたかだったということです。ただ、ぼくたちはその先人たちの力を忘れ、うまく使えなくなっています。
日本にも訂正する力がないわけではありません。
昔からよく指摘されているように、大陸の辺境に位置するこの国は舶来のものに目がありません。中国に接したら中国の文化を受け入れ、欧米がきたらこんどは欧米の文化を受け入れる。それは野放図なようでいて、じつは肝心なところはまったくと言っていいほど変えていない。
たとえば名前です。朝鮮半島やヴェトナムでは中国文明の輸入とともに命名も中国風に変えてしまいました。他方ぼくたちはいまだに古い名前を保持しています。
科挙も採用していません。日本語をローマ字化する運動も潰れました。なによりも天皇制が続いている。日本は、信念なくすべてを外国に合わせているように見えて、ひどく頑固で根底でずっと一貫している国でもある。つまり、改革に開かれているように見えてきわめて保守的な国でもあるわけです。
日本は日本でしたたかだったということです。ただ、ぼくたちはその先人たちの力を忘れ、うまく使えなくなっています。
日本の改革を妨げ続ける「空気」という問題
どうすれば訂正する力を取り戻すことができるのでしょうか。
身近な例から考えてみましょう。現代日本で改革の障害となっているのは、つねに「空気」、つまり社会の無意識的なルールです。
この空気なるものは、みなが他人の目を気にするだけでなく、同時に気にしている他人もまた他人の目を気にしているという入れ子の構造をもっているので、とても厄介です。たとえば、コロナ禍が終わってもマスクをなかなか外せないという話題がありました。これは、単純に周りのひとから「マスクをしろ」という圧力をかけられ、怖いというだけの話ではありません。
もしかしたら、周りのひとも本音ではマスクを外したいのかもしれない。けれども、彼らが「他人がどう思っているかわからないから、まだ外すのは控えよう」と思っているかぎり、自分だけマスクを外すわけにはいかない。実際にはみながマスクを外したいと思っていたり、無意味だと感じていたりしたとしても、相互の監視が存在するためにだれもが社会の無意識的なルールにしたがってしまう。これが空気の問題です。
どうすれば訂正する力を取り戻すことができるのでしょうか。
身近な例から考えてみましょう。現代日本で改革の障害となっているのは、つねに「空気」、つまり社会の無意識的なルールです。
この空気なるものは、みなが他人の目を気にするだけでなく、同時に気にしている他人もまた他人の目を気にしているという入れ子の構造をもっているので、とても厄介です。たとえば、コロナ禍が終わってもマスクをなかなか外せないという話題がありました。これは、単純に周りのひとから「マスクをしろ」という圧力をかけられ、怖いというだけの話ではありません。
もしかしたら、周りのひとも本音ではマスクを外したいのかもしれない。けれども、彼らが「他人がどう思っているかわからないから、まだ外すのは控えよう」と思っているかぎり、自分だけマスクを外すわけにはいかない。実際にはみながマスクを外したいと思っていたり、無意味だと感じていたりしたとしても、相互の監視が存在するためにだれもが社会の無意識的なルールにしたがってしまう。これが空気の問題です。
山本七平が本当に書いていたこと
その結果、いつまで経ってもだれもマスクを外すことができない。と思いきや、ひとたび一部のひとがマスクを外し始めれば、こんどは逆に、花粉症などでマスクが必要なひとを含め、だれもが外さなければいけないような気持ちにされてしまう。その変化の切れ目がなんなのか、われわれはわからないし、またそれをコントロールすることもできない。
このような厄介な構造をもつ規範意識を、どのようにしたら「訂正」できるのでしょうか。
空気については、評論家の山本七平による『「空気」の研究』がコロナ禍で再注目されました。1977年に刊行された本ですが、昔から日本人は空気に支配されているという文脈で引っ張り出されたわけです。
ところがこの本を読み返すと、じつは空気という言葉は、いまのような相互監視という意味では使われていません。
同書の中心になっているのは「臨在感的把握」と呼ばれる現象です。ふつうの学問的な言葉で言うと、ある種のフェティシズムです。日本人はアニミズムとフェティシズムが強いから、たとえばいちど「コロナが悪」ということになったらみながそれを呪物のように扱ってしまい、あまり議論ができなくなるということです。
「山本七平が」と喧伝されているわりに、山本七平は実際はその話をしていない。これは今回確認してみて虚を衝 かれました。戯画的に言えば、『「空気」の研究』の内容さえも空気で決まってしまっている。
その結果、いつまで経ってもだれもマスクを外すことができない。と思いきや、ひとたび一部のひとがマスクを外し始めれば、こんどは逆に、花粉症などでマスクが必要なひとを含め、だれもが外さなければいけないような気持ちにされてしまう。その変化の切れ目がなんなのか、われわれはわからないし、またそれをコントロールすることもできない。
このような厄介な構造をもつ規範意識を、どのようにしたら「訂正」できるのでしょうか。
空気については、評論家の山本七平による『「空気」の研究』がコロナ禍で再注目されました。1977年に刊行された本ですが、昔から日本人は空気に支配されているという文脈で引っ張り出されたわけです。
ところがこの本を読み返すと、じつは空気という言葉は、いまのような相互監視という意味では使われていません。
同書の中心になっているのは「臨在感的把握」と呼ばれる現象です。ふつうの学問的な言葉で言うと、ある種のフェティシズムです。日本人はアニミズムとフェティシズムが強いから、たとえばいちど「コロナが悪」ということになったらみながそれを呪物のように扱ってしまい、あまり議論ができなくなるということです。
「山本七平が」と喧伝されているわりに、山本七平は実際はその話をしていない。これは今回確認してみて虚を衝 かれました。戯画的に言えば、『「空気」の研究』の内容さえも空気で決まってしまっている。
「空気に差した水」がまた「空気」になってしまう
ちなみに、『「空気」の研究』はいま読むと問題含みな本でもあります。刊行された当時、日本ではイタイイタイ病や自動車の公害が社会問題になっていましたが、山本は懐疑的でした。窒素酸化物は有害か無害かわからないし、カドミウムも有害か無害かわからないのだと記しています。
当時「カドミウムは無害だ」と主張し、実際にカドミウム棒を舐めた学者がいたらしいのですが、その話題に紙面を割いています。『「空気」の研究』は古典ではありますが、気をつけて読まなければなりません。
空気批判が空気になるとはいえ、山本の議論がなにも参考にならないわけではありません。
山本は「水」について興味深いことを述べています。盛り上がりに「水を差す」と言うときの「水」です。この国では、空気に水を差していたと思ったら、水を差すこと自体が空気になっていく。だからいつも空気と水が循環している――。そんな議論で彼の本は締めくくられています。
これはじつは当時の左翼に対する批判です。「かつては軍国主義の空気があった。左翼は戦後そこに水を差すようになったが、しばらくしたらこんどはその水が新しい空気になって、言論が左翼に支配されるようになった」という話です。
ちなみに、『「空気」の研究』はいま読むと問題含みな本でもあります。刊行された当時、日本ではイタイイタイ病や自動車の公害が社会問題になっていましたが、山本は懐疑的でした。窒素酸化物は有害か無害かわからないし、カドミウムも有害か無害かわからないのだと記しています。
当時「カドミウムは無害だ」と主張し、実際にカドミウム棒を舐めた学者がいたらしいのですが、その話題に紙面を割いています。『「空気」の研究』は古典ではありますが、気をつけて読まなければなりません。
空気批判が空気になるとはいえ、山本の議論がなにも参考にならないわけではありません。
山本は「水」について興味深いことを述べています。盛り上がりに「水を差す」と言うときの「水」です。この国では、空気に水を差していたと思ったら、水を差すこと自体が空気になっていく。だからいつも空気と水が循環している――。そんな議論で彼の本は締めくくられています。
これはじつは当時の左翼に対する批判です。「かつては軍国主義の空気があった。左翼は戦後そこに水を差すようになったが、しばらくしたらこんどはその水が新しい空気になって、言論が左翼に支配されるようになった」という話です。
半世紀後も通用する重要な指摘
『「空気」の研究』は半世紀前の本ですが、これはいまでも通用する指摘です。メディアでちやほやされる知識人が現実にはぜんぜん力をもたない現状は、おそらくこの空気と水の逆説に関係しています。
空気に抵抗しなければいけない。ルールチェンジをしなければいけない。そう主張するひとは多い。けれども、この国では、そのような主張(水)がそのまま受け取られるのではなく、すぐに「そういう主張をするひとが現れた」という新たな空気の問題として理解されてしまう。つまり、「『ルールチェンジをしなければいけない』と発言するという新しいルールでゲームをするひと」という受け取りかたをされてしまう。
そうすると、こんどはその新たな問題提起に考えなしに追随するひとが現れてしまう。いくら水を差しても、すぐそれが新たな空気になってしまう構造があるわけです。ひらたく言えば、権力批判をしているひとこそ、空気を読むようになる構造がある。
これは重要な指摘です。空気は空気批判もすぐに空気に変えてしまう。日本の閉塞感の原因はそこにある。
『「空気」の研究』は半世紀前の本ですが、これはいまでも通用する指摘です。メディアでちやほやされる知識人が現実にはぜんぜん力をもたない現状は、おそらくこの空気と水の逆説に関係しています。
空気に抵抗しなければいけない。ルールチェンジをしなければいけない。そう主張するひとは多い。けれども、この国では、そのような主張(水)がそのまま受け取られるのではなく、すぐに「そういう主張をするひとが現れた」という新たな空気の問題として理解されてしまう。つまり、「『ルールチェンジをしなければいけない』と発言するという新しいルールでゲームをするひと」という受け取りかたをされてしまう。
そうすると、こんどはその新たな問題提起に考えなしに追随するひとが現れてしまう。いくら水を差しても、すぐそれが新たな空気になってしまう構造があるわけです。ひらたく言えば、権力批判をしているひとこそ、空気を読むようになる構造がある。
これは重要な指摘です。空気は空気批判もすぐに空気に変えてしまう。日本の閉塞感の原因はそこにある。
いつのまにか「空気」を変えていくしかない
だとすれば、そういった空気=ゲームを変えるためには、空気から素朴に脱出しようとするのではなく、同じ空気=ゲームのなかにいるようでいながら、ちょっとずつ違うことをやることによって、いつのまにか本体の空気=ゲーム自体のかたちが変わってしまうといった、アクロバティックなことをやるしかありません。
言い換えればこういうことです。空気が支配し、水もまたすぐ空気になる日本においては、よかれ悪しかれ、ものごとは「いつのまにか変わる」ことしかありえない。明示的に「変えましょう」と言っても、その水自体が新たな空気を生み出してしまうからです。だとすれば、その「いつのまにか」をどう演出するかが課題になる。その課題に答えるのが、この本の主題である訂正する力なのです。
つまり、空気が支配している国だからこそ、いつのまにかその空気が変わっているように状況をつくっていくことが大事になる。
だとすれば、そういった空気=ゲームを変えるためには、空気から素朴に脱出しようとするのではなく、同じ空気=ゲームのなかにいるようでいながら、ちょっとずつ違うことをやることによって、いつのまにか本体の空気=ゲーム自体のかたちが変わってしまうといった、アクロバティックなことをやるしかありません。
言い換えればこういうことです。空気が支配し、水もまたすぐ空気になる日本においては、よかれ悪しかれ、ものごとは「いつのまにか変わる」ことしかありえない。明示的に「変えましょう」と言っても、その水自体が新たな空気を生み出してしまうからです。だとすれば、その「いつのまにか」をどう演出するかが課題になる。その課題に答えるのが、この本の主題である訂正する力なのです。
つまり、空気が支配している国だからこそ、いつのまにかその空気が変わっているように状況をつくっていくことが大事になる。
デリダが唱えた「脱構築」という考えかた
じつはこれは日本だけの話でもありません。この状況認識はジャック・デリダというフランスの哲学者が唱えた「脱構築」という考えかたに似ています。
デリダは、表面上はすごく難しい哲学書を書いている哲学者です。だからふつうはこういう文脈では言及されません。
けれども彼はじつは、伝統的で保守的なルールに則っているように見せかけつつ、それを深く追求していくことによって、ヨーロッパにおける哲学の型を根本的に変えてしまうといった試みをして、それが評価されているひとなのです。哲学のかたちを「いつのまにか」変えてしまうという試みを、哲学の方法として提示した。そのようなデリダ的、あるいは「脱構築」的な手法は、日本においても実践的に有効だと思います。
というよりも、日本では脱構築しか有効ではないと言うべきかもしれません。正面から既存のルールを批判しても力をもたない。ルールを訂正しながらも、その新しさを前面に押し出さず、「いや、むしろこっちこそ本当のルールだったんですよ」と主張し、現在の状況に対応しながら過去との一貫性も守る。そういった両面戦略が不可欠となります。
じつはこれは日本だけの話でもありません。この状況認識はジャック・デリダというフランスの哲学者が唱えた「脱構築」という考えかたに似ています。
デリダは、表面上はすごく難しい哲学書を書いている哲学者です。だからふつうはこういう文脈では言及されません。
けれども彼はじつは、伝統的で保守的なルールに則っているように見せかけつつ、それを深く追求していくことによって、ヨーロッパにおける哲学の型を根本的に変えてしまうといった試みをして、それが評価されているひとなのです。哲学のかたちを「いつのまにか」変えてしまうという試みを、哲学の方法として提示した。そのようなデリダ的、あるいは「脱構築」的な手法は、日本においても実践的に有効だと思います。
というよりも、日本では脱構築しか有効ではないと言うべきかもしれません。正面から既存のルールを批判しても力をもたない。ルールを訂正しながらも、その新しさを前面に押し出さず、「いや、むしろこっちこそ本当のルールだったんですよ」と主張し、現在の状況に対応しながら過去との一貫性も守る。そういった両面戦略が不可欠となります。
「訂正」に失敗した東京五輪
ところが、現在の日本人はこの訂正する力を失っている。東京五輪をめぐる混乱を思い出してみましょう。
五輪では夏の暑さが問題になっていました。東京都知事として五輪を招致し、多くの批判に晒された作家の猪瀬直樹さんは、五輪開催前にぼくと対談したときに「東京の夏は五輪に適している」と主張したことがあります。
どう考えても過酷な気候だと思うのですが、それでも「ほかの国も条件は同じだ」と譲らない。五輪はどんどん経費が嵩み、それも問題になりましたが、猪瀬さんはこちらについてもツイッター(現X)で最後まで「コンパクト五輪のはずだった」と主張していました。これほどわかりやすく訂正する力が失われた例もありません。
猪瀬さんには、『昭和16年夏の敗戦』という名著があります。太平洋戦争開戦前、日本政府は「総力戦研究所」というシンクタンクにエリート官僚を集めて日米開戦の帰趨をひそかにシミュレーションさせていた。答えは日本必敗だった。にもかかわらず、日本は戦争に突入してしまったという内容です。この歴史と東京五輪の強行は部分的に重なります。
ところが、現在の日本人はこの訂正する力を失っている。東京五輪をめぐる混乱を思い出してみましょう。
五輪では夏の暑さが問題になっていました。東京都知事として五輪を招致し、多くの批判に晒された作家の猪瀬直樹さんは、五輪開催前にぼくと対談したときに「東京の夏は五輪に適している」と主張したことがあります。
どう考えても過酷な気候だと思うのですが、それでも「ほかの国も条件は同じだ」と譲らない。五輪はどんどん経費が嵩み、それも問題になりましたが、猪瀬さんはこちらについてもツイッター(現X)で最後まで「コンパクト五輪のはずだった」と主張していました。これほどわかりやすく訂正する力が失われた例もありません。
猪瀬さんには、『昭和16年夏の敗戦』という名著があります。太平洋戦争開戦前、日本政府は「総力戦研究所」というシンクタンクにエリート官僚を集めて日米開戦の帰趨をひそかにシミュレーションさせていた。答えは日本必敗だった。にもかかわらず、日本は戦争に突入してしまったという内容です。この歴史と東京五輪の強行は部分的に重なります。
「官僚型答弁」が横行するワケ
猪瀬さんは、撤退を「転進」、全滅を「玉砕」と言い換えてごまかす、日本的な組織体質をよく知っていたはずです。それでもなぜ訂正できなかったのか。
それはおそらく、猪瀬さんが市民を信頼できなくなっていたからだと思います。猪瀬さんも東京の夏が暑いことはわかっていた。経費が想定以上に嵩んでいることも知っていた。ただ、それをひとことでも言ったら、批判勢力からなにを言われるかわからない。いまの日本では、あるていど影響力のある立場になってしまったら、危機管理上、訂正しない人間にならざるをえないわけです。
これは政治家だけの話ではありません。岸田文雄首相は「聞く力」を標榜していますが、とてもその力が発揮されているとは思えない。でもそれは首相だけの話ではない。いまの日本人は全体的にその力がなくなっている。
「聞く力」は、相手の話を聞き自分の意見を変える力、つまり「訂正する力」でもあるはずです。けれども、訂正することができないので、聞くこともできない。
官僚型答弁が横行するのもこのことが理由です。官僚だけが悪いのではなく、日本社会全体で聞く力、意見を変える力がないのです。「最初に言ったことはまちがっていました」という説明ができない。そんなことをしたら徹底的に攻撃されて、自分たちの計画が潰されると、みなが警戒しあっている。
猪瀬さんは、撤退を「転進」、全滅を「玉砕」と言い換えてごまかす、日本的な組織体質をよく知っていたはずです。それでもなぜ訂正できなかったのか。
それはおそらく、猪瀬さんが市民を信頼できなくなっていたからだと思います。猪瀬さんも東京の夏が暑いことはわかっていた。経費が想定以上に嵩んでいることも知っていた。ただ、それをひとことでも言ったら、批判勢力からなにを言われるかわからない。いまの日本では、あるていど影響力のある立場になってしまったら、危機管理上、訂正しない人間にならざるをえないわけです。
これは政治家だけの話ではありません。岸田文雄首相は「聞く力」を標榜していますが、とてもその力が発揮されているとは思えない。でもそれは首相だけの話ではない。いまの日本人は全体的にその力がなくなっている。
「聞く力」は、相手の話を聞き自分の意見を変える力、つまり「訂正する力」でもあるはずです。けれども、訂正することができないので、聞くこともできない。
官僚型答弁が横行するのもこのことが理由です。官僚だけが悪いのではなく、日本社会全体で聞く力、意見を変える力がないのです。「最初に言ったことはまちがっていました」という説明ができない。そんなことをしたら徹底的に攻撃されて、自分たちの計画が潰されると、みなが警戒しあっている。
「訂正できない土壌」を変えていく
ぼくはこの10年ほどトークイベントスペースを経営し、そこで聞き手をやり続けています。
そこでも同じことを感じることがあります。登壇者のなかに、事前に用意してきた話題しか話さないひとがいるのです。ぼくが司会として合いの手を挟んだり、観客から質問をもらったりしても、自分が想定した質問でないとごまかしたり答えなかったりする。
それではわざわざ来てもらった意味がないのですが、すごく「見えない攻撃」を恐れている。その警戒心を解くのには苦労します。
つまり、いまの日本には訂正できない土壌がある。だからみな訂正する力を発揮できない。ここを変えねばなりません。
ぼくはこの10年ほどトークイベントスペースを経営し、そこで聞き手をやり続けています。
そこでも同じことを感じることがあります。登壇者のなかに、事前に用意してきた話題しか話さないひとがいるのです。ぼくが司会として合いの手を挟んだり、観客から質問をもらったりしても、自分が想定した質問でないとごまかしたり答えなかったりする。
それではわざわざ来てもらった意味がないのですが、すごく「見えない攻撃」を恐れている。その警戒心を解くのには苦労します。
つまり、いまの日本には訂正できない土壌がある。だからみな訂正する力を発揮できない。ここを変えねばなりません。
互いに意見を変えていけるからこそ議論に意味がある
これは民主主義の話とも関わります。民主主義の基本は議論ですが、議論を成立させるためには相手が意見を変える可能性をたがいに認めあわなくてはいけません。だれの意見も変わらない議論なんて、なんの意味もありません。
訂正できる土壌をつくることはとても大事です。「ひとの意見は変わるものだ。われわれも意見が変わるし、あなたがたも意見が変わる」という認識をみなで共有しなければなりません。これは教育にも関わります。小学校ぐらいから、話しあいの時間をつくり、「たしかにあなたの意見は正しいかも」と気づき自分の意見を変えていく、また他人の変化も認めあうという訓練を積み重ねるべきです。それは「論破」を目的としたディベートとは似て非なるものです。
これは民主主義の話とも関わります。民主主義の基本は議論ですが、議論を成立させるためには相手が意見を変える可能性をたがいに認めあわなくてはいけません。だれの意見も変わらない議論なんて、なんの意味もありません。
訂正できる土壌をつくることはとても大事です。「ひとの意見は変わるものだ。われわれも意見が変わるし、あなたがたも意見が変わる」という認識をみなで共有しなければなりません。これは教育にも関わります。小学校ぐらいから、話しあいの時間をつくり、「たしかにあなたの意見は正しいかも」と気づき自分の意見を変えていく、また他人の変化も認めあうという訓練を積み重ねるべきです。それは「論破」を目的としたディベートとは似て非なるものです。
リベラル派の「本当の民主主義」という言い方はおかしい…「厄介な保守派」との議論を避けてはいけない理由民主主義の本質は「みんなでルールをつくる」ということ「民主主義」とはどのような考え方なのか。批評家・哲学者の東浩紀さんは「リベラル派はよく『本当の民主主義』といった言いかたをする。けれども、本当の民主主義なんてない。民主主義の本質は『みんなでルールをつくる』ということにある」という――。(第2回/全2回)
日常のなかの無意識とメタ意識
訂正は、だれもが日常的にやっている行為です。その意味に自覚的になり、現実の変革に活かそうというのが、『訂正する力』の提案です。
そもそも訂正とはなんでしょうか。結論から記すと、訂正の本質はある種の「メタ意識」にあると言うことができます。自分が無意識にやってしまったことに対して、「あれ、違うかな」と違和感をもったり、距離を感じたりするときに、訂正の契機が生まれます。そういう距離感がなければ、そもそも訂正の必要がありません。
ぼくたち人間は、多くのことを無意識にこなしています。水を飲むときにコップをもつ、家を出るときにドアに鍵をかける、電車に乗るときに改札でスマホをかざす……そういうときはふつうなにも考えていません。
では、どういうときに「考える」ようになるかというと、無意識にやっていたことがうまくいかなくなったときです。いつもあるはずの鍵がないとか、いつもあるはずのスマホがないとかいうことです。それは体の不調のせいかもしれないし、外界の状況が変わっているサインかもしれない。そのときに「ん、おかしいな」と感じ、外界と調整する必要が生まれる。
つまり行動を訂正する必要が生まれる。それが意識の出発点です。そういう意味では、意識するとはすでに訂正するということにほかなりません。
訂正することは生きることの基本
自分の行動を訂正して、外界に合わせていく。それが生きることの基本です。それは動物もやっていることですが、人間はその訂正の能力をとくに発達させたため、意識をもつようになったと考えられます。
ぼくは人類学や脳科学の専門家ではありません。だからあくまでも素人の考えとして聞いてほしいのですが、「いままではこう行動していればうまくいったけれども、状況が変わってうまくいかなくなった、それならばこうしてみればどうだろう」といった、訂正のシミュレーションが意識の起源なのではないでしょうか。そして、最初は意識しながらやっていく行為も、繰り返されて訂正が必要なくなると無意識のなかに沈んでいく。
仲間内の言葉が通じないとき
言葉についても同じことが言えます。「意識しないで話す」と言うと突飛に聞こえるかもしれませんが、ひとは仲間内ではほとんど無意識で言葉や口調を選んでいます。たとえば、リベラル派の仲間内だったら、あまり深く政策について考えなくても、憲法改正や防衛費増額に反対していればなんとかなるわけです。
ところがそこに保守のひとが紛れ込むとそうはいかない。では日本の安全保障はどうするのですか、と正面切って尋ねられてしまいかねない。ここで「考える」ことが必要になります。そして「いまの言いかたでは伝わらないから、別の話しかたをしよう」と試行錯誤を行うことになる。
前回で述べたように、日本ではそういう試行錯誤を嫌うひとがたくさんいます。誤りを認めたら負けだと思っているからです。けれどもそれはまちがっています。
試行錯誤をすることは主張を曲げることとは違います。環境が変わったので、言いたいことがいままでの表現だと通じなくなった。だから、新しい環境でも通じるように表現を変えるというだけの話です。それが訂正する力です。
「これが結論です」で終わるものは対話ではない
以上の簡単な説明でわかるとおり、訂正する力とは、そもそも生きることの原点にある力です。そして、あらゆるコミュニケーション、あらゆる対話の原点にある力でもあります。
ミハイル・バフチンというロシアの文学理論家がいます。『ドストエフスキーの詩学』という有名な本を書いているのですが、そこで対話が重要だと述べています。
ただ、それはふつうの対話ではありません。バフチンによる対話の定義がどういうものかというと、「いつでも相手の言葉に対して反論できる状況がある」ということです。バフチンの表現で言うと「最終的な言葉がない」。
つまり、だれかが「これが最後ですね。はい、結論」と言ったときに、必ず別のだれかが「いやいやいや」と言う。そしてまた話が始まる。そのようにしてどこまでも続いていくのが対話の本質であって、別の言いかたをすると、ずっと発言の訂正が続いていく。それが他者がいるということであり、対話ということなんだとバフチンは主張しているわけです。
これはとても重要な指摘だと思います。よくひとは、対話が必要だ、話しあってくださいと言います。でもそれはたいてい、なんらかの合意や結論に達するための手続きにすぎません。バフチンは、そういうものは対話ではないと言っている。
対話とは共通の語彙をつくっていく作業に近い
言葉を発するとき、ぼくたちの頭のなかには抽象的な概念が確固なものとしてあるわけではありません。Aさんのなかに概念があり、それがBさんに渡されて、Bさんがそれを理解するという過程ではないのです。
では対話で起こっていることはなにかというと、むしろ一緒に共通の語彙をつくっていく作業に近い。言葉を交わすというゲームを遊びながら、同時に言葉を使うルールを一緒につくっていくような行為なわけです。
言葉の意味は事前に確定していると思うかもしれません。でも意外とそうでもないのです。たとえ意味が確定していてもニュアンスが異なることがある。
たとえばさきほどの例だと、リベラル派は軍の存在について当然のように否定的に語る。けれども保守派はそうではない。ニュアンスが違うわけです。
ジャズのセッションのような「調整」
そのとき、自分はこういう言葉を使った、そうしたら向こうは予想とは異なる反応を返してきた、このままだと対話が成立しないから言葉を変える。そうすると話がさきに進んでゲームが成立する。そういうことを繰り返していくわけです。その調整は終わることがない。それがバフチンが言っていることです。
ぼくは音楽は詳しくないのですが、それはジャズなどのセッションに似ているのではないかと思います。他人の演奏をリアルタイムで感じ取り、それに合わせて自分の演奏を調整し変化させていく。
そういう身体的なフィードバックを抽象化したものが、ここでいう訂正する力にほかなりません。
哲学者クリプキの思考実験「クワス算」
もうひとつ紹介したいのが、ソール・クリプキというアメリカの哲学者が『ウィトゲンシュタインのパラドックス』という本で展開した議論です。ウィトゲンシュタインというのも哲学者の名前です。
クリプキの議論はつぎのようなものです。ふたりのひとが一緒に足し算をやっているとします。1+1は2だね、2+2は4だね、とひとつひとつ答えを確認して話を進めている。
そして足し算が68+57に到達したとします。答えはむろん125です。Aさんは125と答えます。ところがBさんは5だと言う。
当然Aさんは「なんで5なんだよ」と言うでしょう。それに対してBさんがつぎのように答えたとします。「いやいや、5でいいんだよ。というのも、じつはぼくたちがずっとやってきたのは、足し算(プラス算)ではなく『クワス算』という特殊な演算だったんだ。それは足す数の片方が56になるまでは足し算と同じ答えを出すんだけど、両方が57以上になると答えが全部5になるんだ。いままでずっと足し算をやってきたと思ってきた、きみがかんちがいをしているんだよ」と。
ここで68+57=5はただの例で、ほかの数字の組みあわせでもかまいません。どれほど多くの足し算をやってきていても、これまで使ってこなかった数字の組みあわせは絶対に存在する。だからBさんみたいな主張はいつでも可能です。
厳密に考えれば「屁理屈」には勝てない
また、そもそも足し算でなくても似た例をつくることは可能です。問題の要点は、複数の人間がひとつのゲームに参加し、あるところまではなにも問題が起こらずルールも共有されていると思っていたにもかかわらず、突然片方が「おまえの理解は違っていた」と言い出す、その事態をどう理解するかということです。
むろん、常識で考えれば、クワス算をもち出したBさんの言い分は完全な言いがかりであり屁理屈です。なに言ってんだとつまみ出されるのがオチです。
ところがクリプキによれば、学問的に厳密に考えると、そのような屁理屈を言い負かすことは絶対にできない。どういうふうに反論したとしても、似たような屁理屈で言い返されてしまうのです。このあたりはじつにおもしろい議論なので、興味があるひとはぜひクリプキの本を読んでみてください。
理不尽なクレーマーへの2種類の対処法
日常の例で解釈するならば、この議論は、言うなれば、ぼくたちはクレーマーを完全には撃退できないという話だと理解すればよいでしょう。
いくらルールを厳密に定めたとしても、あるとき突然変なやつがやってきて、「おまえはこのゲームについてまったく理解してなかったんだ、本当のルールはこっちなんだ」と言いがかりをつけられる。そんな可能性はけっして排除できない。それがクリプキが証明したことです。
だから、クレーマーへの対処はつねに考えておかなければいけない。そのとき対処には2種類あります。ひとつは「ではきみ、出禁ね」とゲームのプレイから排除すること。たいていはそうなります。
でも違うケースもあります。「なるほど。きみはルールをそう解釈していたんだね。そういうひとがいるんだったら、では新たな解釈で行こうか」とルールを拡張したり、訂正したりすることもあるわけです。さすがに足し算ではルールを変更するわけにはいきませんが、そういうことがあるからこそゲームは豊かになります。じつは自然科学においてさえ、そのようなルールの変更はめずらしいことではありません。
ここでクリプキの哲学はバフチンの対話論とつながります。そして訂正する力の本質とも関わってきます。
「変人」の挑戦に対処しながらつぎに進むバフチンは、対話は終わらないと言いました。クリプキは、どんなルールを設定してもいちゃもんはつけられると指摘しました。
これは言い換えれば、人間のコミュニケーションは本質的に「開放的」だということです。
ぼくたちの社会は、どんなに厳密にルールを定めても、必ずそのルールを変なふうに解釈して変なことをやる人間が出てくる、そういう性質をもっています。社会を存続させようとするならば、そういう変人が現れてきたときに、なんらかのかたちでそれに対処しながらつぎに進むしかない。だから訂正する力が必要になります。
裏返すと、これはルールにはつねに穴があるということでもあります。「ルールを守らないひとがいて困る」という話ではありません。じつは人間は、ルールを守っていても、あるいは守っているふりをしても、なんでも自由にできてしまうのです。ルールはいくらでも多様に解釈可能だからです。それがクリプキが証明したことです。
ガーシーがしてみせたことの意味を考えてみる
これは政治にも関わる話です。時事問題で考えてみます。暴露系ユーチューバーの東谷義和(ガーシー)さんは、2022年7月、NHK党から立候補して参議院議員に当選しました。にもかかわらず、滞在先のドバイから帰国せず、議場に姿を見せなかった。
2023年に入って参議院が東谷さんを除名し、その後脅迫などの容疑で逮捕されていまに至ります。彼の行動に正当性があるのかどうか、半年ほど日本のメディアは大騒ぎでした。
国外滞在のまま当選し、国会議員になったあとも帰国しない。こういうケースをいままでの法律は想定していませんでした。このようなルール破り、あるいは「ハッキング」に対してどのように対処するか。これはすごく大切な問題です。
というのも、東谷さんのようなケースは今後も出てくると考えられるからです。選挙制度にはさまざまな穴があります。それを私利私欲のために利用するひとは、これからのSNS時代どんどん出てくるでしょう。
そこで「ガーシーの行為は民主主義の精神に反する」と叫んでもあまり意味ありません。そういうひとが現れることも含めて民主主義だからです。
「ハッキング対応の思想」としての民主主義
民主主義においては、ルールは国民、つまりゲームの参加者自身が定めることになっています。だからあらゆる可能性を潰すルールをつくることはできません。また、どんなルールも「ハッキング」されると考えなければいけません。社会を守るためには、東谷さんのような「ハッカー」「クレーマー」に個別に対処し、ルールを訂正していく柔軟性が求められます。今回の件については、第二の東谷さんが現れないように速やかに法整備を進めるべきでしょう。
言い換えれば、民主主義とは、本質的にクレーム対応やハッキング対応の思想なのです。そういう本質は、政治思想を学ぶよりも、むしろバフチンやクリプキのような言語哲学を学ぶことで理解できます。
訂正する力とは民主主義の力のことである
リベラル派はよく「本当の民主主義」といった言いかたをします。けれども、本当の民主主義なんてありません。民主主義の本質は「みんなでルールをつくる」ということにあります。「正しさ」もみんなで決めるものです。だから、どんなルールをつくってもそれを悪用する人間は必ず出てくるし、既存の民主主義の常識を破る人間は必ず現れる。そういう構造になっているのです。
完璧に正しい市民を育て、完璧に正しい法制度をつくり、完璧に法が守られる社会をつくろうという発想には意味がありません。むしろ、ルールが破られたとき、それにどう対処するかが民主主義の見せどころです。この点において、訂正する力とは民主主義の力のことなのだとも言えます。
閑話休題:
ジャズセッション=議論・対話 というのは全く同感だ。相方のパフォーマンスにインス
パイアされて自分でも知らなかった自分の力が発揮される、ジャズセッションに限らず、
芝居や漫才や、落語の演者と客の間・・・でも同様のことが起きる。
吉本には、これを楽しもう、仕掛けてやろうという意欲を持った芸人がいる。
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パイアされて自分でも知らなかった自分の力が発揮される、ジャズセッションに限らず、
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吉本には、これを楽しもう、仕掛けてやろうという意欲を持った芸人がいる。
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