朝日新聞デジタルより(9月11日付け)「鈍考」
「鈍考」で知る90分の価値 幅允孝さんが読書空間で問う遅効性とは
速い時間と遅い時間 「バイリテラシー」を意識する
でも本なら、刺さるひとことに立ち止まって考えたり、読み戻ったりもできる。:かねてより、PCの画面で一行ずつ順送りに見るのと、紙の上に印刷されたものを1ページ分まとめて見るのは違うと思ってきた。紙の上に印刷された文字を読むのは頭の使う所が違う。PC画面の文章でそうなんだから、スマホ画面やパワポではもっと違うのではないか?スマホやパワポやエクセルが嫌いだ。デジタル・リテラシーとか言われると反吐が出る。紙に書いた文章で理解し、判断したい。
システムが人間にあえて考えさせないように仕向けているという面もあるんじゃないでしょうか、:その通り。パワポでプレゼンされて頭で理解したつもりになるが、感覚・感情で判断していないか?パワポによるプレゼン=Showmanshipと喝破した人がいた。
※ってなことを朝日新聞デジタルで読み、ブログに書いている…矛盾だネ。
――遅効性の場とは?
情報がネット上に集まり、他者の時間を奪うと富になるという世の中ですよね。YouTubeもネットフリックスもそう。半世紀前に出版されたミヒャエル・エンデの小説「モモ」は、予言の書だったんだなとつくづく思う。時間を節約して「時間貯蓄銀行」に預けて、行動を詰め込み、成功を夢見る人間たち。能率を追求する現代そのものです。
速い時間は当然流れているしそれは止められない。ビジネスもがんがんやっていくんだけど、自分の中で遅い時間を持てる環境を整えて、選べる状態をつくっておきたいと。自分の中の、「バイリテラシー」(二つのことを並行して理解するという意)な時間の流れを意識することで、誰もが少し自分が本当に好きなものや心地よいことを思い出せるのではないでしょうか。
――それが2拠点生活のきっかけですね。
愛知で育った幼い頃、書店で過ごす時間が娯楽でした。書店員を皮切りに本にかかわる仕事を広げるうちに、いつしか東京で30年近くを過ごしてきました。コロナ禍が始まる少し前から、「ちょっと違う、いかんな」と思い始めた。みんないきり立っているし、怒ってる。45分打ち合わせて、15分で移動する間にslackやLINE。時間の濁流の中で疲弊していく感じがありました。私にとって大事なはずの読書なのに、走り読みや斜め読みが増えて、本の大きな物語にどーんとたゆたうような体験が難しくなっていた。
もう一つ、拠点を持とうと考えました。
仕事で縁のあった関西、なかでも友人の多い京都にねらいを定め、この地と出会ったのが2020年です。
五感を総動員して本と向き合う場「私にとっての実験」
著作の文体にほれて、建築家で京都造形芸術大学大学院教授の堀部安嗣さんに設計を依頼しました。堀部さんに出したオーダーは三つだけです。「本を3千冊」「喫茶やります」、そして「時間の流れの遅い場所」。理想通りの空間ができあがり、今年5月にオープンしました。
――「場所はメディアだ」とおっしゃっていますね。鈍考とはどういう場所なんでしょうか。
二拠点生活を決めたとき、単に住居をつくるつもりはなくて、本にまつわる新しい挑戦をしたいと思っていました。私の蔵書である「幅アーカイブス」のうち3千冊を東京から運んできて、選書・配架する。お客さんに時間も労力もかけて足を運んでもらう。私が理想的な読書環境だと思う場所で本を読む。妻(芳〈ファン〉さん)が1時間かけて手回し焙煎(ばいせん)した豆を、ネルドリップで丁寧に淹(い)れるコーヒーを味わう。その時間に価値を感じてもらう。メディアというと大げさかもしれないけれど、五感を総動員して本と向き合うことを体感してもらう、私にとっての実験場です。
ウェブ予約で1回90分、6人まで。施設使用料2千円をいただいています。3回転なので一日に最大で18人。スマートキーを開けて入り、ロッカーに荷物と任意でスマホを預け、靴を脱ぐ。あとは畳の上で、椅子に座って、縁台で、自由に過ごしていただく。図書館で広く使われている図書分類法をベースに、「祈り」「食べる」「家族のはなし」「身体」などオリジナルの分類も。本を手に取り、ぱらぱらめくってまた書棚に戻す。一冊を選んで、腰を落ち着けて読む。ただぼうっと風景を眺めて過ごすお客さんもいます。本を読まない自由もありますから。
――「90分の読書時間」ですか。ふだんの生活の中で、意外ととれていないかもしれません……。
読む時間を区切る。このアイデアを思いついたきっかけは、コロナ禍の2020年7月にオープンした「こども本の森 中之島」(大阪市北区)です。選書を含むディレクションをしたのですが、感染対策のため入場制限と90分制の事前予約が必須とされた。公共空間である図書館は本来、いつ入っていつ出たっていい場なのに、と当初はすごくネガティブでした。でも始めてみて気づいたのは、来館者が「よし、90分読むぞ」と集中してくれたことでした。
時間をフレーミングする、ということ。忙しい一日の中で、その確保した間だけはスマホも雑事も忘れて、本に没入する。書き手と一対一で向き合う。時間のもつ価値について考えるきっかけを提供するのが、鈍考という場かもしれません。
――情報に流されているうちに、物事の受け止め方がどんどん受動的になっていることに気づきます。
そう。システムが人間より上位にあって、ぼーっと座っていればスマホに映像やエンタメ、情報が入ってくる。でも、自分からつかみにいく情報と、待っていて通り過ぎる情報はずいぶん違う。読書は自分で文字を、アイデアをもがきつかみにいく行為です。YouTubeを見ていて一時停止して考えることってめったにない。でも本なら、刺さるひとことに立ち止まって考えたり、読み戻ったりもできる。
システムが人間にあえて考えさせないように仕向けているという面もあるんじゃないでしょうか、人々にあえて気づかせないくらいのさりげなさで。私はユヴァル・ノア・ハラリが書く「ホモ・デウス」(データに導かれた神のような人)にはなりたくないので。人間らしく、ちょっとゆがんだり傾いたりしながら、自分でもがいて何かをつかんで学んで、違うなと思ったら手放して。その繰り返しが人間として健やかだし、なにかを選ぶときの自分だけの判断軸を養うことにつながる。そうした営みを思い出してもらうために、鈍考を使ってもらえたらいい。(聞き手・松村愛)
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