神聖ローマ帝国とハプスブルク家
神聖ローマ帝国:Wikipediaによれば
768年フランク王国国王に即位したカール(チャールズ)大帝はもともとフランス・ドイツ・オーストリアだけだった領土を広げ、ベルギー、オランダ、スイス、スロベニア、イタリア北部などを含む大帝国にした。カールは敬虔なカトリック教徒で、各地に教会や修道院を建て、住民をカトリックに改宗させた。800年、カールはクリスマス・ミサのためバチカンに出向き、クリスマスの日にローマ教皇レオ3世からローマ皇帝の帝冠を授けられた。これが神聖ローマ帝国の誕生で、カールは初代の皇帝となった。
当初、皇帝の座は世襲だったが、実質上、7人の選挙人による選挙で決まるようになった。
ローマ教皇の戴冠という”お墨付き”を得て神聖ローマ帝国皇帝になるのは、広い領土で強まる地方分権化の動きを押さえつけるために必要であったが、16世紀に宗教革命が起きてローマ教皇・カトリックの力・権威は落ち、18世紀にナポレオンが現れて1806年、神聖ローマ帝国は解散した。
ハプスブルク家は1440年のフリードリヒ3世から1806年帝国解散時の皇帝フランツ2世までほとんどの期間、神聖ローマ帝国皇帝を輩出し続けた。
神聖ローマ帝国最後の皇帝フランツ2世は、ローマ教皇のお墨付きなどという正統性もくそもなく、国民投票で皇帝になったナポレオンを見て、退位する2年前の1804年、勝手にオーストリア皇帝フランツ1世にもなっており、オーストリア帝国の皇帝として1814年、ナポレオン失脚後に行われた王政復古をめざすウィーン会議を主催する。ウィーン会議後、ナポレオンのような新勢力・革新派が出てくるのを防ぐため閉塞的な保守反動政治が行われた。しかし、多民族国家のオーストリアはハンガリー、チェコ、イタリア、ポーランドなど様々な民族が独立を求めるようになり、1867年、時の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世はハンガリー人に国防、外交、財務以外の自治を認めてオーストリア・ハンガリー帝国とした。1914年、フランツ・ヨーゼフ皇帝の甥であり、皇位継承者のフランツ・フェルディナンド大公がボスニアの州都サラエボでセルビア人に殺され、オーストリアはセルビアに宣戦布告、第1次世界大戦が始まり、そのどさくさにチェコスロバキアやハンガリーは独立し、1916年に死んだフランツ・ヨーゼフを継いでオーストリア皇帝に即位したカール1世は1918年亡命し、ハプスブルク家によるオーストリア帝国は崩壊し、カール1世はその後、オーストリアへの入国を禁止される。
ウィーン会議後の二、三十年間の流行をビーダ―マイヤーと言うのだそうだ。ビーダーマイヤーの特徴は:
・古き良き時代に戻る
・華美な装飾でなく簡素・洗練
・政治や外交は忘れ身の回りの事に関心=大より小
・シニカル
日本で言うと「粋」ではないか??
音楽家ではシューベルト。そしてワルツのヨハン・シュトラウス。
※ビーダーマイヤー以前には:ウィーンでハイドン、モーツァルト、ベートーベンが音楽好きなハプスブルク家のもと、活躍した。
また、フランツ・ヨーゼフ皇帝は1867年、ユダヤ人の居住・職業を自由化して、フロイト、マーラー、クリムトなど、ユダヤ人の活躍の場を提供した。
ハプスブルク家は芸能、音楽、美術などを愛し育てた。この、18世紀~20世紀に及ぶウィーンの文化・雰囲気を知るユダヤ人が19世紀から20世紀に多数アメリカに移民し、アメリカの芸能や科学や金融を作った。俺もアメリカに移民したウィーン出身の芸人、映画監督は粋で好きだ。
皇帝の座の継承については、天皇家と似て、血統を守るべく近親結婚が多く(それゆえおかしな子もたくさん産まれたが)、また多産だった。政略結婚も得意で全盛期のスペインの王室まで皇子を送り込んだ。一応長男が継承順位1位だが、出来が悪ければ次男でも、甥でも、更には男がいなければ女でも、と柔軟に「血統」を守ろうとしたところは日本の「家」と近い。ハプスブルク家は1273年、ルードルフ1世がドイツ国王になってから「国王家」と認識されるようになり、爾後1918年のカール1世の亡命まで約650年続いたとされる。力でなく血(結婚)で外交や政治をしようとした。ヨーロッパの王家としては例外的に長く続き、例外的に処刑されなかった。それに比べると我が天皇家は神話時代の実在したのか分からない天皇を除いても1500年も続いている。科学的に血統がつながっているかは怪しいが「家」として継承されてきたことは間違いない。
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