自転車の鍵
週に1,2回ジムに筋トレしに行く。そのジムは片道、自転車で15分、歩けば30分以上かかる。筋トレしなければ歩こうと思う距離だが、筋トレやった後の帰り道を歩くのはきつい。(帰りは上りの道だし)そこで上さんの自転車を借りる。ジムが混むのが嫌なので朝一番で行く。(どうせ朝早く目覚めるし)家を出るのが上さんが起きる前になることもある。自転車の鍵は置き場所が決まっているが、ある朝自転車の鍵を探しても見つかないことがあり、聞いたら上さんのバッグに入ってたことがあった。それから、俺は筋トレに行く日の前の晩に自転車の鍵がちゃんと置き場所にあるかどうか確認することにしている。
昨晩は自転車の鍵がある事を確認したついでにその鍵をジムに持っていくバッグの中に入れた。上さんは夜遅くまで起きているが、昨夜は、俺が寝た後、その鍵の所在を確認しようとして、すでに俺が持ち去った後なので、確認できずに様々捜査したようだ。
今朝、ジムに行こうとしたら上さんが起きていて俺の顔を見るなり「昨日の夜探したけど、自転車の鍵がないよ」と言った。俺は「ごめんね。昨日は鍵をバッグの中に入れちゃった」と言った。「(自転車の鍵捜してくれて)ありがと」とも。このような時、「ごめんね」って謝るのもおかしな気もするが・・・いつもなら所在を確認したらそのまま置いておくのに、昨夜は「魔がさして」持ち去ってしまったので上さんに迷惑かけた。
オー・ヘンリーの小説(賢者の贈り物)で、貧しい夫婦が互いのクリスマスプレゼントを買う金がなく、夫は唯一の財産である先祖代々の金時計を売って妻のきれいな髪のために髪飾りを買い、片や、妻は髪を売って夫のために時計鎖を買った、という話がある。ちょっと似た”すれ違い”ではないか?
ただし、俺は、翌朝上さんが使う予定のものがちゃんとあるかどうかなんて決して事前チェックしない。「勝手に使え」だ。上さんのこんなところ、結婚する前には知らなかった。そういう人と毎日一緒に暮らしていると思うと嬉しくてありがたい。俺は配偶者だろうが、子供だろうが幸せになって欲しい、尽くしたいとは思うが、それはあくまで”他人として”だ。配偶者はもちろん、血のつながった子供でも自分とは違う存在、つまり、俺がコントロールすべきでない存在(=他人)だ・・・そもそもコントロールしようと意図してその通りできるものでもない。上さんにとって配偶者や子供は自分に限りなく近い、自分でコントロールしようと思えばできそうな存在なのだ。”他人”よりは身近な”ほぼ自分”の存在なのだ。(ジェンダー論:女の方が生まれつきこのような、「自他の別の意識が弱い」という家族の世話を見るのに役立つ特徴を有しているように思う。父親は子供を突き放して見る・・・父親、母親の役割分担。母親と父親が違った役割を果たし、二人合わせて一人前の親になることをダイバーシティーと言うのではないか?・・・母親の方が子離れできずに更年期を迎える、ということもあるし「世話焼きばばあ」になることも)
閑話休題:
阿部謹也という学者は、欧米の「社会」と日本の「世間」を対比した。うろ覚えだが、「社会」とは「一人一人違う個人=他人の集まり」ということではなかったか?この「社会」では、他人をコントロールしようとすることは他人の自由やプライバシーを侵害しかねない、と考えられる。(他人の運命をコントロールできるのは神様だけだ)一方「世間」では「互いのコントロールが及びそうな他人」がいる。もっと身近で「互いのコントロールが確実かつ強く及びそうな他人」もいる。そして「互いのコントロールが及びそうな他人」を”他人”として扱うと「他人行儀」「水臭い」と言う。「世間」では「コントロールの及ばない全くの他人」は、物理的に存在していても、いないのと同じだ。「社会」では「互いのコントロールが及ばない」ような全くの他人も、配偶者や子供も、神の前では同じ一個の人間だ。(これが民主主義とか平等とか自由とか呼ばれるものの前提だ。)
悪いことをした(ことが露見した)人が「世間を騒がせてすみません」と謝罪するのを聞くと、俺は大いに違和感を感じる。誰に対して何を謝るのか?悪いことをしてしまったこと自体は謝罪することではない。反省し、再発防止すべきことだ。悪いことをしたために嫌な思いをしたり被害を被った人に対し、謝罪するなら話は分かる。彼は「互いにコントロールが及ぶ他人」が作る”世間”に対して、騒がせたことを謝っている。この場合”世間”には自分の知らない人、全くの他人は含まれない。”騒がせる”とどうして謝らなければならないのか?騒ぐのは世間ではなくマスコミだ。そしてマスコミは騒ぎが起きないと飯の食い上げだ。自ら騒ぎを起こして喜んでいる。彼は自分のコントロール(影響力)が及ぶ人達に向かって「マスコミが騒いだ結果、皆さんに迷惑かけるかも知れないから、もう謝っとくわ」と謝罪しているのだ。全くの他人は世間に存在していても謝罪する相手ではない。一方で日本人の多くは死んだ人、先祖は自分の運を左右すると信じている。つまり「自分をコントロールする存在」だ。従って死んだ人・祖先も”世間”の一員だ。謝っておかないと死んだ人・祖先にたたられるのでは、と心配なのだろう。
”自己責任”が世の中を救い難く悪くしている、という考え方がある。つまり、一定のルールのもと、ゲームをやって負けたら自己責任。負け組になったら救いようがなくなってしまう。自己責任は”社会”の悪い面だ。”社会”ではそれを自覚しているから”社会”にはセイフティネットがあって無関係な他人でも救おうとする。かつての日本ならその人の”世間”のネットワークの中に一人や二人、大きな世話を焼く人がいた。だから無関係な他人を救うセイフティネットがなくてもよかった。”大きなお世話”がなくなりつつある日本では”世間”が崩壊している。どうしたら、そして何が、セイフティネットになるだろうか?俺は日本から”社会”的なものを排除したらいいのではないか?と思う。例えば、資本主義、民主主義をまず止めてみる・・・昔の”世間”がえりだ。
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