上さんから教えてもらう
一人で来店した老人が熱心に一心不乱に品定めをしている。上体をかがめ顔をなるべく品物に近づけて凝視する。インナーマッスルが衰えたせいか、はたまた骨盤の柔軟性がなくなったせいか、知らず知らずのうちに腰(ケツ)が後ろに出て通路にはみ出す。なかなか品定めは終わらない。俺は老人にふさがれた通路を歩くのを諦め、しばし待つ。隣の上さんに俺は言う「ああいう年寄になりたくないんだ。自分で気づかずに他人の邪魔をしている。しかも邪魔だ、迷惑だ、と当人に言ったところで当人ではどうしようもない。」
それを聞いた上さんは、俺はすでにそうだと言う。しかし、俺は別に年取って衰えたからそうなったのではなく、若い時から他人のことなど気にせず、迷惑かけても気づくことの少ない人間だったと。そうか、と俺は思う。俺は年取ったから他人に迷惑をかけるようになったわけではない。それでも69年も生き続けて来れた。それならそれで生きる意味や価値が認められているのだろう・・・自己肯定感てやつか?なんとなく笑ってしまう。
人間は自分の存在が周囲に与えるものがマイナスになったら存在すべきではない、と思う。”存在しない”とは必ずしも死を意味しない。周囲に迷惑をかかることを最小限にすべく、隠遁するとか、社会との関係を断つ、ということでもよい*。自分が衰えたり変わって周囲に迷惑をかけるようになることもあろう。また、周囲の環境が変わったのに自分は変わらず、周囲に迷惑をかけるようになる、ということもある。俺は金融資本主義、株主資本主義に染まっていく会社の変化に「ついて行けない」と思いながら会社を辞めることもしなかった。自分より若い社員を金融資本主義や株主資本主義から守ることが自分の仕事、と思い定めていた。
進化論では環境の変化に対応したものが生き残ると言う。人間は環境の変化をおかしいと思ったり、間違っている、と思うからややこしい。敢えて環境変化に逆らうことが自分の存在意義だ、と考えるへそ曲がりがいてもよい(いや、いなければならない)。同時に、環境変化に逆らうことは周囲に迷惑・不快感を与える恐れがある。時々存在意義と迷惑・不快感のどちらが大きいか、チェックする必要があるが、自分自身では難しい。俺の場合は上さんがチェッカーの役割を果たす。その意味でも俺が死ぬまで上さんに生きていてもらわなければならない。
*最近亡くなった上岡龍太郎さんは「21世紀には俺の芸は通用しない」などと言って2000年に引退した。そして引退後は冠婚葬祭のお付き合いを除いて芸能界と縁を切った。俺が勝手の想像するに、コンプライアンスだポリティカルコネクトネスだと言い出した芸能界は、もう終わりだし、ついて行けない/ついて行くべきではない、と思った上岡さんは「21世紀には・・・」という言い方をして引退し、見事にその存在を消した。上岡さんの逆をする輩も多い。老醜という。上岡さんは己の美学を貫いた。一方で芸能界にとどまって芸能界の変化に逆らったり批判したりする、という生き方もあったように思う。そういう格好悪い上岡さんも見たかったと思う。
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