NHK Eテレ こころの時代~宗教・人生~ 無宗教からの扉(4)「他力をえらぶ」
阿満利麿(あま としまろ)という「歎異抄・親鸞 研究家」がNHKの「無宗教な」二人のディレクターに向かって講義をする(教えを垂れる)番組。この回は今の日本人の問題点を指摘して面白かった。
阿満さんによれば、日本の「人は死んで先祖=神様となって子孫を守る。だから先祖に救われるべく祈れ」という自然宗教は破綻していると。この自然宗教は、ある地域に生まれた人が外に出ず、先祖から子孫まで、代々そこに住み続けることを前提としているが、実際には今、日本人は生まれた土地どころか日本国内に住み続けるかどうかも分からないし、逆に外国人を含む、よその土地で生まれた人がたくさん入ってくる。子孫が自分を大切に葬り神として祈るなんてことも期待できない*。
親鸞の「他力」とは自然のこと。自然とは「人間の計らいではなく、おのづからそうなる」ということ。あらゆることは、人間の計らい・意志・考えでどうこうすることはできない、と諦め、信じることが他力である。(かと言って、どうあがいてもすでに運命は決まっている、という宿命論でもない。ここがプロテスタントと似てる。)救われるために祈る、念仏するのも祈り・念仏という行為で救われようというのだから自力。念仏に見返りなどない。念仏は単に阿弥陀様を信じていることを表すだけ。いくら信心したって生きている間に救いなど感じられない。せいぜい現実を少し冷静に見ることが出来るかどうか程度。
輪廻は平等。生きとし生けるものは何千何万回と永遠に生まれ変わる。輪廻を繰り返すうち、親兄弟、人種、民族、国なんていう区別、人間か人間でないかという区別も一時的で意味のないものになる。輪廻するうち万物の間に違いがなくなって平等になる。平等だから霊力を持った他人に頼ったり、カリスマの言うことを聞くのではなく、自分の頭で考え、答えを求めて人に聞いて問答しなさい・・・ここのところが難しい。阿弥陀様は勝手に救ってくれるからそれを信じて自力で救われようとしなくてよい。救われようとして無駄なこと、ややこしいことをするのはせず、かと言って、救ってもらえるから何もしなくていいや、と慢心するのでもなく、宿命論的に何もせずに「おのづからなる」のを待つのでもなく、現実を冷静に見つめ、どうすれば苦しみがなくなるか自分の頭で考え、皆で問答し合いなさい、ということか。
*その通り。ということは、「先祖を神様と大切にする」日本の宗教に基づく天皇制も先祖の神々に祈ることを勤めとしている天皇は存在意義を失い、「オワコン」になった、というべき。この観点からも憲法は改められるべき。
俺は救いは求めない。ただ死より生きることの方が苦しいから、生きる方が楽でないから生きる。(もし、生きることより死ぬことの方が苦になるなら死ぬべき。)輪廻も信じない。自分が死んだらそれでおしまい。無になる。それが基本。死ぬまでは自分が自分の主人。ただし生きていると他人に迷惑をかける。不快な思いをさせる。それを償うことは出来ないが、①自分が迷惑をかける、不快な思いをさせる存在だ、と自覚して、②迷惑や不快な思いを少しでも軽減しようとする「かわいらしさ」「けなげさ」があれば存在することを許してもらえる。また、③自分が存在することによるプラスとマイナスを天秤にかけてプラスの方が大きい間は存在してもよい、とも。
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