「文七元結」を聞く
寝ていたら、談志師匠の言っていた「業の肯定」が一番分かりやすい落語は「文七元結」だ、と思いついて、改めて志ん生と談志の「文七元結」を聞いた。
博打に身を持ち崩し家に金を入れない職人がいて、夫婦げんかが絶えない。娘が見るに見かねて吉原の遊郭に身を売ろうとしてある遊郭に行く。そこの女将がいい人で2年の内に返せばその間、娘に客を取らせないという約束で50両貸してくれる。50両借りた職人、帰り道で橋から身を投げて自殺しようとする奉公人に出くわす。奉公人の名前は文七と言って得意先に集金に行って50両受け取ったが、店に帰る途中、それを掏摸に取られて無くしたので死んでお詫びするのだ、と。職人は最初は「死んじゃあいけねえ、死んだって何もならねえ」などと言って自殺を止めようとするが文七の決意が固いと知ると「どうせ死ぬなら俺の見てないところで死んでくれ、俺の目の前で飛び込ませるわけにはいかねえ」と言って借りたばかりの50両を文七に投げつけて立ち去る。ところが文七が無くしたと思っていた50両は得意先に忘れてきたことが分かり、文七の店の旦那が職人に感謝して娘を身請けし、文七と結婚させる・・・というハッピーエンド。
この話の肝は自殺しようとする文七とそれを止めようとする職人のやり取り。(談志、志ん生とも同じ表現・せりふ回しだった)損得を忘れて借りたばかりの50両を文七に投げ与える職人の意地。「50両無くったって俺やかかあや娘は死にゃあしねえ。お前は死ぬと言うから」と、50両を文七にやる。固辞する文七に50両を上げるのでも渡すのでもなく乱暴に投げつけて職人は逃げるように立ち去る。
あえて善悪、正邪、損得を忘れ、意地で悪、邪、損を取る、話しても分かんねえ相手には面倒臭えから乱暴な言動をする・・・これが江戸っ子(日本男児?)で、これが「業」。この業をよしとするのが落語。一神教の信者にこれが理解できるか?一神教では善悪・正邪・損得は神様によって決められてしまっている。一神教でない日本人はその時の成り行きで善悪・正邪・損得にこだわらない選択ができる。神様がやれ、と言うことをし、やるな、と言うことをしない(やるな、と言われていないことは何をやってもよい)、というのが一神教教信者の自由。融通無碍に成り行きで善悪・正邪・損得を変える日本人。日本人は、既成事実に押し流され同調圧力と業のおかげで負けると分かっている戦争を始め、最後には全員討ち死にするまで戦う、と。これに対し、先祖から営々と続く日本人の命脈を断つことは出来ない、と全員討ち死にを阻止し、業を否定したのが天皇だった。野暮といえば大野暮。命と引き換えに日本人を腑抜けにしたことも間違いない。
閑話休題:
この話、明治時代、三遊亭圓朝が中国の昔話を翻案したものとか。中国人にも同様の意地や業があるのか?ピンと来るようなこないような。昔の純な中国人はあえて損を取ることもしたのか?
さて、職人はその後どうなるのか?博打から足を洗うとは思えない。すぐに元の木阿弥、上さんと夫婦喧嘩するようになるだろう。それでも夫婦別れはしない。出ていこうとしない上さんを職人は志ん生みたいに「アイツは図々しいから生涯家にいるよ」と言う。これも業。
日本人に自由はあるか?同調圧力がなければ自由もある。同調圧力が発生すると、それに流されるのはもちろん、それに逆らおうとするのも不自由。
「業」って「説明責任」と真逆。業を好きな俺には説明責任は無理。
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