昨日をもって新聞を取るのをやめた
山本夏彦さんによれば、新聞記者は「新聞に載せられる記事」を書く。 新聞社は売れる記事を掲載する。 つまり、新聞に真実や正義などは期待できないと。 (それが証拠に、たった何十年前には「鬼畜米英」「撃ちてし止まん」「天皇陛下万歳」なんて書いてた新聞が恥も外聞もなく「平和」だ「民主」だ、と書く。 )21世紀に入って本当にそれを実感し続けてきた。 それでも、これまた夏彦さんの言葉の通り、人間の行動に意味なんてなくて、人間はただ、それまでやってきたからなんとなく続けるもので新聞購読をやめられなかった。
理由は分からないが、ここ2,3年、結構思い切って古いものを捨てるようになった。 (身につけるものや道具などを使えなくなる前に捨てるようになった)夫婦で「新聞やめてもスーパーのチラシ以外には困らないネ」というやりとりがあり、とうとうやめた。 昨日から来ない。 昨日は朝、新聞受けをチェックして、新聞が来てないことを確認した。 就職して以来40数年間にわたって新聞を取り続けてきた。 考えてみれば休刊日を除いて年間350日くらい新聞が来続けていたわけだ。 通算すれば朝刊だけで1万5千回以上新聞を受け取ってきた。 悪天候を除き、新聞配達の不調で配達されなかったということは指折り数えるくらいだった。 日本人はまじめに新聞を配るなあ、と感慨深い。 夏彦流に言えば新聞配達もやめられないんでしょう。
21世紀に入ってから新聞(新聞に限らずTVのニュースやコメンテーターも同様)が嫌になったのはポリティカル・コレクトネス、LGBT満載だからだ。 これに最近はSDGsが加わった。 イーロンマスクやトランプも大嫌いらしい。 俺も大嫌い。 放送禁止用語、自粛用語は誰が何のために禁止し、自粛しているのか分からない。 昔から精神を病んでる人のことをキ〇〇〇と呼び、目の不自由な人のことをメ〇〇という。 何が悪いのか分からない。 自分が精神や目を病んでキ〇〇〇とかメ〇〇と呼ばれても悪い感情は湧かないと思う。 もっと言えばキ〇〇〇やメ〇〇になったらなるべく人前に出ないように、家に引きこもると思う。 だって世の中の仕組みは健常者用にできていて、それにスムーズに適応できないキ〇〇〇やメ○○は健常者の邪魔にならないように片隅で大人しくしていなければならないと思うから。
何十年何百年と続いた歴史と伝統のある言葉、表現を誰が何の権限があって禁止するのか? 片一方では何百年続く歌舞伎や能は特別扱いされ、その道何十年の人は人間国宝になることもある。 理解できない。 快不快の問題か? つまり、差別用語は不快で伝統芸能は快? 猥褻問答と同じで何が猥褻(不快)で何が猥褻でない(快)かを役人やメディアが決めるのはファッショでないか?
不快なものの存在は認める、だけど不快だから唾を吐きかけたり目を反らしたりする、どうしても我慢ならなければ、叩き潰し殺す。 それでよくないか? 差別も同様。 差別されたら悔しがって怒る。 悲しむ。 差別した奴に仕返しをする。 言ったりしたりしてはいけないことを言ったりしたりすると殴られたり唾を吐きかけられたり、最悪殺されたりするが、 炎上したり、社会的に抹殺されたりはしない。 それでいいじゃないか。 殺されたり殴られたりすることの恐怖、ストレスの方が炎上したり社会的に抹殺されたりする恐怖、ストレスより「まし」だ、と思う。 単純で分かりやすい。 ここの感じ方の違いでアメリカの分断も起こっていると思う。 戦争も時々した方がストレスがたまらない。 我慢しすぎるとおかしなことになる。 戦争より危ない。 これは談志師匠の受け売り。 単純に強い国が勝つ、どちらのフェイクニュースが国際世論を味方にするかなんて関係なく… そういう戦争をすべき。
差別をなくすことが進歩なのか? 保守反動の俺は進歩が信じられない、進歩嫌いだ。
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