三宅裕司と立川志らくの芸談(対談)

 1951年生まれの三宅裕司と1963年生まれの志らくの芸談(対談)が面白かった。二人の共通の知り合いである1954年生まれ(俺と同学年)の立川志の輔の話から、当時の大学の落語研究会の話に。三宅と志の輔は明治大学の落語研究会の先輩後輩。言うまでもないが志の輔は志らくの兄弟子。ちなみに志らくは日大の落語研究会。彼らが落語研究会で学生落語をしていた1970年代~1980年代は古今亭志ん朝がアイドルで多くの学生が志ん朝の真似をしていたとのこと。そんな中で談志の真似をするのは結構勇気がいたみたい。談志もそうだったが、落語好きの若者は先輩藝人の真似から入った。三宅も、好きな志ん朝はもちろん、談志の真似もしたそうだ。

俺の会社生活を振り返ると、1970年代、80年代の会社員は先輩上司の言葉遣いやセリフ、仕草、文句の言い方、謝り方、極端な場合は字の書き方まで似せた。(当時はパソコンもメールもなかったので肉筆の文書が行きかっていた)これが芸や技術の伝承だったんだろうと思う。つまり、少なくとも1980年代までは、文字で書いた文書・マニュアルなどなかったか、あってもあてにせず、先輩上司の真似をすることが伝承だった。教育などというものは無かった。これが1990年代、日本企業はISOなんていう文書しか信じない人たちの作ったからくりの物まねを始めた。そうこうするうち、若者側も書いたものを求めるようになった。

1990年代以降、芸は相変わらず先輩や師匠の真似で伝承されたが、会社の仕事は書いたもの・マニュアルと教育なしにはできなくなってしまった。ただし、マニュアルを作ったり教育する立場になった俺たちの世代は、マニュアルの作り方も教育の仕方も知らなかったし教育の仕方を教育してくれる人もいなかった…その辺に、憎っくきコンサルタントが入り込むスキがあったのだ。そして俺たちの嫌いで苦手なデジタル、IT…コンサル頼みになる…これも1990年以降日本が低迷している一因か?

落語、吉本なんて羨ましい。ただし、芸人も弟子入りして真似するよりYoutuberになる方が簡単でコスパよく儲かるとなると、芸の伝承も変わる。(というか、伝承など霧散して“映える”動画をどうやって取るか、という勝負になるのか?)会社の仕事も、もう、1980年代には戻れないのか?1980年代は教育もマニュアルもなかったけどJapan as No.1になっって皆さん、自信にあふれてたんだけど…どこで何が間違えたのかね~?

閑話休題:

志ん朝は2001年に死んだ。談志は2011年まで生きた。談志は志ん朝が親の七光りで特別扱いされているとひがんで一方的にライバル視し、暴れた。俺は二人の落語家としての芸はあまり好きでもないし、いいとも思わないが、弟子の質・量では談志が勝ったことは間違いない。「志ん朝弟子」と検索しても知っている名前はない。

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