矢野誠一「志ん生のいる風景」より 志ん生と文楽…比較藝論

矢野誠一「志ん生のいる風景」(1983年刊)より;

まずは、志ん生らしい逸話。

桂文楽は楽屋でもよく話し、面白かったという。一方、古今亭志ん生は楽屋では無口で不機嫌そうで、よく一人で将棋盤に向かっていたという。 

ある日、柳家小さん夫人が自宅の階段を踏みはずし、病人に担ぎ込まれたことがあった。病院からあわただしく楽屋入りした小さんに、みんな心配気な表情で夫人の容態をたずねたのは当然である。「ええ、なんとか助かったんですがね。一時は、もう駄目かと…」小さんが説明していると、将棋の駒を手に盤上を見つめたままのかたちで志ん生が「世の中、そううまくいくもんじゃねえ」

さて、藝論:

桂文楽の最後の高座は、1971年8月、国立劇場小劇場の「大仏餅」であった。途中で絶句してしまったのである。神谷幸右衛門という人物の名前が、どうしても出てこなかったのである。(略)その前日の東横落語会でもこの「大仏餅」を出し、いつに変わらず演じてみせたばかりだった、その、しゃべりなれた演目の登場人物の名が出なくなってしまったのである。「申し訳ありません。もう一度、勉強しなおしてまいります。」客席にふかく頭を下げ、舞台のそでに姿を消していらい、その年の12月12日、神田駿河台の日大病院で肝硬変のため世を去るまで、とうとう一言も「落語」を口にしなかった。精巧で、寸分の狂いのない、機械にまでたとえられたすぐれた藝のおそろしさとむなしさをみないわけにはいかない。何度も何度も繰り返し稽古して、その日演ずる作品は、かならず事前にさらいなおして、しかもそうした稽古ですら手を抜くことなく高座そのままに演じていた努力の人にすら、「絶句」というあり得べからざる事態が襲うのである。しかも晩年の桂文楽は、このおそろしい日に備えて「申し訳ありません。もう一度、勉強しなおしてまいります。」というわび口上の稽古までしていたと聞く。「大仏餅」を絶句した8月31日から、この世を去る12月12日までの103日間、ひと言も落語を口にしなかった事実に、落語家桂文楽のひとつの強い意志を見ることができる。体調を急にくずしたわけどもなく、老化を防ぐ意味からも熱心に出演することをすすめた周囲の声に対しても頑として耳を貸さなかった。この103日間は、落語家桂文楽でない人間並河益義79年の生涯に、初めてめぐってきた至福の日々であったような気がしてならない。それにしても「申し訳ありません。もう一度、勉強しなおしてまいります。」という落語家として高座に残した最後の言葉の、なんと桂文楽の藝を象徴していることか。(略)

志ん生は1890年に生まれ、1961年12月脳溢血で倒れ、半身不随になりながら翌年復活した。1968年10月第40回「精選落語会」で「二階ぞめき」ではなしを始めながら、途中から「王子の狐」をやってしまい、以降高座に上がることなく5年後の1973年9月死んだ。そのあいだ 志ん生はなにをしていたかというと、これが稽古をしていたのである。(略)当人はいつでも高座に出るつもりで、仕事を待っていた。5年間待った。待って、待ちぬいて、待つことに疲れて、やがて死んだ。つまり桂文楽が最後の高座を絶句していらい、落語を忘れることで普通の老人として生きたのに対し、古今亭志ん生は最後の最後まで、現役の落語家であることをやめようとしなかった。(略)

桂文楽は一点一画をおろそかにしない技術でもって、きっちりとした落語を構築してみせたが、古今亭志ん生のばあいは、彼の口をついて出てくる言葉そのものが落語であった。なにを、どうしゃべっても落語になってしまうような魔力をそなえていた。そうした志ん生の自由な語り口に酔わされた客は、志ん生を天才とよんだ。事実天才的なひらめきが志ん生の藝にはあった。それでいながら桂文楽におとらぬ稽古を古今亭志ん生もしていたらしい。文楽の藝のように、血の出るような稽古結果を、いささかも感じさせることなく、落語と遊ぶがごとき境地にうかんでいた志ん生の藝の秘密に今しきりに魅かれる。古今亭志ん生最後の高座となった精選落語会で、「二階ぞめき」のはずが、「王子の狐」になってしまったのは、予定していた演目をとりちがえてしまったのだから、事故といえば事故と言える。しかし、古今亭志ん生という落語家に限って言えば、この程度の事故はそれこそ日常茶飯事であった。桂文楽にとっては、「大仏餅」で神谷幸右衛門という名前が出てこなかったことが、落語家としての死命を制してしまうのだが、おなじようなことが古今亭志ん生という落語家には何の影響も与えないばかりか、すぐれた個性とまで受け取られていた。実際元気なころの志ん生は、しばしば絶句した上、それをギャグとしてたくみに利用して見せた。なんのはなしであったか、ある侍の名が出てこなくなってしまい。「ううん…その、お侍さんの名はってェと…」としばし絶句したあげく、「ううん、どうでもいい名前」とやってのけ、客席を爆笑させたのに接したことがあったが、そういう志ん生のその場に応じた自由闊達な語り口が、ひとを喜ばせた。桂文楽においては取り返しのつかない事故が、古今亭志ん生においては「藝」にすらなるのであった。

以下俺の藝論;

さて、日本以外でも志ん生のような藝は成り立つのだろうか?(もっとも、志ん生のような藝は日本でも例外だが)文字がなく話し言葉が長い間使われていた日本においては文字にし切れない話し言葉に伴う表情、口調、しぐさなどが伝統的に重視されたということはあるだろう。海外にもスタンダップコメディと呼ばれるような、藝人が人前でしゃべった笑わせるという藝があるが、落語のように古典と言われるような先輩藝人が作った話を何十年何百年も守り続けるようなことはないのではないか?また、それを先輩や師匠から口伝されるというのも珍しいのではないか?志ん生の場合は、話の内容、筋書より人間そのものの面白さが藝になっていて、笑いの神様が降りてきている。この、神様を降ろす力を藝と呼ぶ。

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